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横綱審議委員会の差別的言動への疑問 2008年4月28日 予てより、俗にいう「朝青龍問題」に関しての、横綱審議委員会の物言いに対し非常に大きな疑問を感じていた。何故ならば、彼等の言動が、国技だ、伝統だ、文化だ、ともっともらしい事柄を盾にして非常に差別的であるからだ。「差別的」などというと、「何が差別的だ?」と、文化人コメンテーターとしてワイドショーなどに出演される横綱審議委員会のお偉い先生方々に、真っ赤になって反論されてしまいそうだが。敢えて言わせて頂く。 大体、横綱審議委員会の先生方々は、朝青龍の批判ばかりをされるが、それは相撲協会の繁栄のため、故意に、朝青龍には悪役としてのキャラを演じさせ、白鵬には対峙する勧善懲悪のヒーローを演じさせていらっしゃるのか? それなら、それは相撲人気復活のための作戦であるはずで仕方ない。何も文句をいう必要もない。しかし、そういうことではなく、ただ感情的に白鵬は良いが、朝青龍は気に食わないということであるのならば、許し難い差別行為である。 もともと、日本人力士がだらしなく、横綱になれないから、外国人力士を受け入れ、相撲人気を盛り返そうとしたのではない。にもかかわらず、いざ外国人力士が頑張って横綱になった途端、態度が悪い、言動がよくないと、まるで小学生のイジメのように寄って集って批判攻撃をする。そのことの方が、よっぽど品位や品格を疑う行為ではないか。偉そうに横綱の品格を問うのであれば、横綱以上に横綱審議委員会の先生方こそ、ご自分達の品位を守られるべきではないか? 間違っても、面白おかしく愉快犯のように報道するワイドショーに出演されたり、メディアのインタビューに答えられたりするべきではない。日本の文化や伝統を守ろうとしていらっしゃるのであるならば、何もメディアにモノをいう必要などなく、横綱に直接諭せばよいことではないか。そこのところに、非常に大きな疑問と品の無さを感じる。横綱を審議する審議委員の先生方の品格や品位は一体どこにあるのであろうか? 大体、朝青龍の品位ばかりを問うが、嘗て若貴両横綱の兄弟による確執問題の時、これほどまでに横綱の品位だ、伝統だ、文化だ、と騒がれたか? あの時は、盛んに彼等を庇っていたではないか。だが、若貴両横綱が為した兄弟喧嘩騒動の方が、よっぽど横綱としての品格が低かった。何故なら、彼等の騒動は、相撲とはまったく関係のない、花田家の個人的問題であった。相撲にも、横綱にも関係のないことであった。しかも、お金や年寄株の所有権云々と、ドロドロとした問題が次から次へと飛び出した。見ている方も不愉快極まりなかった。それでも、横綱審議委員の先生方は、若貴兄弟を守ろうとされた。このことにも大きな疑問と差別的意識を感じる。それどころか、ここにきて、貴乃花親方に、横綱の品格問題の指揮を執らせようという動きまで出だしているという。確かに、自ら同じような問題を経験してきた親方だけに、説得力があるのかもしれない。だが、もし、ご自分の為されたことは棚に上げられ、朝青龍ばかりを責めるようなことになれば、それこそ排他的な相撲協会の体質を露呈するだけだ。救いようがない、としかいい様がない。大体、松波文部副大臣の進言さえ無視して、外部からの理事就任を拒むことの方が、よっぽど品格欠如ではないか。ただ、自分達の既得権を守るべく排他的な行為をものともせず行う。これこそ、品位や品格の欠片もない行為としか思えない。 そこにいくと、朝青龍の問題は、全て相撲の延長線上だ。離婚問題は、横綱も人間である。そのことが原因で、相撲に精神的影響がでることから考えれば、相撲とまったく関係のないこととはいえない。また、言動に関しても、全ては相撲の延長線上のこと。それは、生まれも育ちも文化も違うのだ。にもかかわらず、無理やり横綱は日本の文化だといって、色々なことを押し付け、足を引っ張るようなことは、日本人独特のイジメであり、出る釘は打たれる的なさもしい発想でしかない。文化とか、伝統とかいう次元ではない。ただの、外国人力士イジメではないか。それでは、歴代の横綱が、そういう失敗を一度もしなかったのか? そんなことはない。なのに、何故朝青龍だけがここまで攻撃されるのだ。マスコミもマスコミだ。まるで不良よろしく寄って集って難癖つけて、彼らこそ品格も何もない。 大体相撲協会は、自分達の都合で、横綱がでない、相撲人気が落ちた、ということで外国人力士達を受け入れたのではないか。その段階で、ある程度の覚悟をしていて当たり前だ。今更、日本の文化だ、伝統だ、風習だと、外国人力士に対し無理難題を押し付け、精神的に追い込むという遣り方は、それこそフェアーではない。それならば、誰1人として、外国人力士を受け入れるべきではない。「ガッツ・ポーズ」がいけない云々というが、一生懸命練習してきて、喜び余って思わずガッツ・ポーズをするのは自然なことだ。それを無理矢理抑える方が、不自然である。クシャミがでそうにもかかわらず、我慢しろというのと同じことだ。他のスポーツにおいても、多くの日本人選手達だってやっているではないか。喜びさえ表現してはいけない、というのであればそんなものは文化でもなんでもない。おかしい。勿論、負けた相手選手を、精神的に傷付けない範囲でのことであるが。それが、品位というものだ。 確かに、朝青龍は、他の力士に比較して言動が荒いことがあるのかもしれない。しかし、それだけ、誰にも負けぬように相撲を頑張ってきた。彼は彼なりに、相撲に命懸けで対峙し練習を重ねているからこそ、その自信からでる言葉のように私には聞こえる。チャカスような質問や言動に対しては、「目には目を歯には歯を」で対峙しているだけではないか。彼は、汗を流し、怪我や批判の嵐を克服しながら、それでも優勝し、横綱の座を守っている。朝青龍が死に物狂いで相撲と対峙し、練習に汗を流している間、横綱審議委員の先生方は、一体何をされているのか? ただ、文句を言って、足を引っ張る材料を探していらっしゃるだけではないか。関取達と一緒に汗を流し、力士達と寝食を共にして、それで力士達から感じ取った不満を形にしていらっしゃるのか? そうではないであろう。ご自分達は、時々気まぐれに相撲部屋を訪れ、批判の種を見つけて帰っては、横綱の頭を叩いているだけではないか。もし、横綱審議委員の皆様が、横綱達や力士達の稽古に参加され、力士達の練習に混ざり一緒に汗を流し、寝食も共にして体感された疑問や問題点であるのなら、私たち観衆も素直に、先生方の言い分に耳を傾けるであろう。しかし、そうでないならば、横綱審議委員会の先生方がしていることは、ただご自分達のエゴで、感情的な言動を為され、朝青龍ではなく先生方こそが、角界に混乱を招いているとしか思えない。日本人力士だって、オフになれば実家に帰るではないか。外国人力士が実家に帰ってはいけないのか? 横綱にまで上り詰めたら、そのご褒美で多少の自由がそれまでよりも許されて当たり前のはずではないか? そのために頑張ってきて、今でも頑張っているのだ。そのかわり、優勝できなくなり、後輩に負けるようになってしまえば、それは弱肉強食身を退く時ということになる。しかし、そうでない限り、相撲をやりもしない人間達が、偏った物言いをし、力士達を精神的に追い詰めることこそが、相撲を愚弄しているとしか私には思えない。多分、私以外の相撲ファンの多くが、同じように思っているのではないか? その証拠に、朝青龍の一番は、今でも大盛況ではないか。 どんなに相撲が日本の文化だといっても、一度国際的な土俵に上げてしまった以上、聖域を守ろうとしても、それは無理なことなのだ。そんな排他的な言動は、愚の骨頂でしかない。先生方のお気持ちは理解ります。だが、聖域を守りたいのなら、最初から国際的土俵に相撲をのせるべきではなかったのだ。嘗て、柔道もまったく同じ道を歩んだ。今では、純白の柔道着ではなく、青色の柔道着さえある。しかし、国際的になってしまえば、仕方のないことなのだ。それは、誰もが同じ環境で育ってきたのではないのだから。それでも、文化や伝統とおっしゃるのであれば、奉納相撲とか演武相撲ということで、日本人だけで執り行う別の聖域を作るしかない。テレビで放映し、国民が楽しむ相撲は、時代の流れに合わせて、民衆が喜ぶ形に進化して発展してこそ、本当の意味での国技であるのではないか。そうやって、変化を重ね伝統は受け継がれてきた。相撲に限らず、守りに入った瞬間、伝統は過去のモノと化し、化石化してしまう。私は、そう思う。
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世界の中の日本と日本人
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野球のオリンピック地区予選大会を観て思ったこと 2007年12月13日 先日、星野監督率いる野球のオリンピック日本代表チームが、北京オリンピック・アジア予選で無事勝ち残り優勝を決め、北京オリンピックへの出場を決めた。喜ばしいことだ。一時は、瞬間視聴率が40%を超えたということで、国民の期待も大きいことが窺える。 ただ、気になることが幾つかある。一つは、その出場資格の獲得方法である。前回のオリンピックを思い出してみると、オリンピック自体で、色々な国々と対戦していたように思う。ところが、今回の北京オリンピックでは、予選の段階で地区ごとの代表が決まってしまうという。単純に考えると、オリンピックでは決勝戦だけをするのではないかという風に感じてしまう。記憶が正しければ、前回のオリンピックでは、オリンピック自体で同地域の韓国やオーストラリアとも対戦していた。だが、今回は、もう同地区のチームとの対戦はないということのように思える。どうも腑に落ちず、調べてみた。すると、必ずしもそうでないことがわかった。 北京オリンピック出場枠は、8カ国だそうだ。予選7カ国と開催国中国の枠で、合計8カ国ということになっている。 まず、アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸、アジアの三地域で、それぞれの地区予選を開催し、それらの地区予選で優勝したチームが北京オリンピックへの出場権を獲得する。アメリカ大陸は、北と南に分かれているからか、何故か1位と2位が出場権を獲得できることになっている。それなら、北米、南米に分けたらよさそうな気がするが、野球母国アメリカは、優位にチャンスを持てるということなのかもしれない。少々不公平な気もするが。どちらにしても、これら地区予選によって、4チームが出場権を獲得することになる。ここまでが、既に終わっている。結果として、アメリカ、キューバ、オランダ、日本が、北京オリンピック出場権を逸早く獲得した。 それでは、中国を除いた残りの三枠は、どのようにして決めるのかということが、次なる疑問である。それは、アメリカ大陸地区予選での3位4位、それ以外の地区予選で2位3位のチームの6チームに加え、オセアニアから1カ国、アフリカから1カ国を加えた合計8カ国の8チームによって、世界最終予選が行われる。事実上の地区予選における敗者復活戦的な意味合いが濃い。この世界最終予選の上位1位2位3位が、残りの出場権を得るということのようだ。よって、北京オリンピックに於いても、前回のオリンピック同様、同地区同士の対決ということも有り得るということになる。 もう一つ、私には気になったことがあった。それは、ユニホームに貼られたパッチのことだ。日本のチームは、前回のオリンピックでも感じたのだが、ずば抜けて素敵なユニホームを身に着けている。デザインもさることながら、素材も、機能性も抜群である。ある意味、浮き立っている。だが、それだけではなく、日本代表チームのユニホームが浮き立っていることがある。それは、ユニホームのあちらこちらに貼られたスポンサーのパッチだ。確かに、国家の威信にかけ闘う日本代表チームを、スポンサー企業は資金的に支えているのであろう。だから、多少の宣伝になるパッチは当然といえば当然なのかもしれない。全日本野球会議も、支援企業獲得のためにパッチを商品にしているのかもしれない。 しかし、オリンピックはプロ野球ではない。また、他の国々のチームが同じように企業広告パッチを貼っているであろうか? 私が見ていた限りでは、他国のチームが企業広告パッチを貼っていることは確認できなかった。確かに、ロス・オリンピック以来、民営化されたオリンピックは、それまでのオリンピックとは異なる変貌を遂げてきた。それでも、やはり行儀よく、ということは参加する全ての国々が心掛けるべきことではないか。 球場に広告を出すのはよい。テレビの宣伝で、オリンピック代表チームの映像を出すのも構わない。また、スポンサーをしていることを大々的に宣伝するのも構わない。だが、アマチュア・スポーツの祭典、オリンピックの代表チームのユニホームに、企業広告パッチを貼るのは如何なものか? お金を出せば、その代価として宣伝が許されることは、資本主義社会では当たり前のことである。だが、大きな利益を得ている大企業が、社会還元の一貫として、国の代表チームに資金援助するのは日本国に帰属する企業として当たり前のことである。どうも、品がない。折角、スポンサーをしているのなら、企業広告パッチなど貼らなくともよい。そんなことをしなくとも、そのことを国民には他の手段で認識させることはできる。その方がスマートであるし、より効果的であると私は思う。今の日本代表チームのユニホームは、どんなに高価で最先端の素材であっても、格好良さでは泥臭い他のチームのユニホームに負けている。モノが溢れる物質文明を文字通り突き進む日本らしい、という印象である。 お金を出せば、良いものが作れるのは当たり前。だからといって、その豊かな資金力を見せびらかすようなパッチ広告は、国際試合においては余りにも品がないような気がしてならない。皆さんは、どのようにお考えか。
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So do I 2007年11月22日 “So do I.”という英語の言葉をご存知であろうか? 「私も、そうする」とか「私も、貴方と同じようにします」というような意味である。この”So do I.”という言葉にまつわる面白い体験エピソードがある。思い出しただけでも笑いが込み上げてくる。 もう30年以上も前の話である。私が、大学入学直後か直前の話である。アメリカ人ホスト・ファミリーの家にホームステーをしていた頃の話だ。ご主人は、私がファミリーに加えて頂く数日前に急逝していた。奥様は、ローカル新聞の記者であった。私は今でも、「ママさん」と呼んでいる。ママさんは、辛辣な記事を書くことで、案外知られた女性記者であった。人間的にも、非常に素晴らしい方である。私は、色々な意味で彼女から、人間として大きな影響を受けた。非常に公平なモノの見方をしており、厳しさの中に驚くほどの温かさもお持ちの方でもある。彼女にハグされると、何もかにも解けてしまうのではないか、と錯覚してしまうほど人間的に温かい方だ。 そのママさん一家は、大変な親日家である。常に、日本人が数人ホームステーしている。広い庭には、神社も建ててあるほどだ。また、ママさん一家は、自然をこよなく愛し、亡くなられたご主人の骨も遺言に沿い、ヨセミテの山中とモントレーの海、そして、自宅の庭に散骨されたほどである。夏になると、家族皆で庭に寝袋を並べて、満天の星を眺めながら寝るなどということもしばしばであった。 しかし、大自然からは恩恵ばかりでなく、たまに災難を受けることもあった。ある日、庭で寝袋を並べて寝ていると、日本から留学して私同様ママさんの家にホームステーしていたショウという高校生が、背中に軽い痛みを覚えた。その時は、きっと何か虫に刺されたのだろうということになり、薬もつけずに皆眠りについた。ところが、翌朝、彼は寝袋の中で震えながら、痛みと闘っていた。顔色も悪く、額を触ってみると熱があった。皆、前夜ショウが背中の痛みを訴えたことは忘れていた。そんなこともあり、寝冷えでもして風邪でもひいたのだろうということになった。熱があったら、熱を下げなければとママさんは言い、ショウはブツブツ文句を言いながら傍らにあったプールに飛び込んだ。何だか驚くような荒療法である。だが、案外こんなワイルドな対処が効く場合も多かった。だが、この時は、少々様子が違った。 プールから上がったショウの右肩近くの背中に異変があることに、ママさんの長男ショーンが気付いた。大きく赤く腫れ上がっていた。その腫れをみて、皆少々真剣な面持ちに変わった。素人目にも、それはただ事でないことは一目瞭然であった。普通ではなかった。その赤く腫れあがった部分は、瞬く間に大きくなっていった。結局、ママさんが医者に連れていくことになった。その頃には、その腫れの中心に、裂け目ができていた。間違いなく何か生き物の毒にやられたことは、誰の目にも明らかであった。赤く染まった皮膚は、段々中心がドス黒くなってきていた。しかし、周囲は赤いままだった。ただ、腫れ上がった部分が、物凄く広まり大きくなっていた。触ってみると、まるで岩のように硬かった。 数時間後、ママさんは、毛布を被り熱に震えるショウを医者から連れて帰ってきた。ショウは、顔中冷や汗をかいていた。直ぐに、ベッドに寝かせた。皆は、興味津々で、診断の結果をママさんに聞いた。ママさんは、言った。「ショウは、ブラック・ウィドーに噛まれたらしいわ」ブラック・ウィドーとは、まるで鋼鉄でできたロボットのように黒光りした蜘蛛のことである。ひっくり返すと、腹のところに、綺麗に光り輝く真っ赤な星印がある。それが、特徴だ。ガレージの隅などに、ヒッソリと生きている蜘蛛である。あまり活動的な蜘蛛ではない。こちらが、危害を加えない限り、攻撃してくることはない。多分、ガレージに置いてあった寝袋に付いてきたのだろう。そこにショウが寝るために潜り込み、押し潰されると驚いたブラック・ウィドーは、咄嗟にショウの背中を刺したのだろう。 カリフォルニアでは、年間死亡率のトップが、このブラック・ウィドーに刺されての死で、二番目がステーキを喉に詰まらせての死である。差し詰め日本で言えば、スズメバチに刺されての死や、餅を喉に詰まらせての死ということであろう。 結局、ショウは、その日から三日三晩高熱に浮かされた。一週間後、やっと立って歩けるまでに回復した。その頃には、背中のクレーターは、物凄く大きくなっており、中心の凹み部分は野球ボールほどの大きさにまで成長していた。触ると、ガチガチの溶岩のようで、色も溶岩のようになっていた。まるで焼けどの跡のケロイドのようであった。 ショウは、若く体力があったので命を取り留めた。しかし、もし、老人や子供の場合は、死に至るそうだ。ガラガラ蛇の毒よりも強いらしい。また、ガラガラ蛇の血清は、どこのコンビニでもレジ前で売っているが、ブラック・ウィドーの血清は打っていない。やはり毒をできるだけ早く吸い出して、医者にいくしか手当ての方法はないのだ。 話が随分横道に逸れてしまった。”So do I.”にまつわるエピソードとは、このショウが仕出かした事件である。 ショウは、血気盛んな高校生であった。簡単に言えば、熱しやすいタイプだ。年がら年中ケンカをし、ママさんを悩ませていた。根は良い子である。だが、ケンカが耐えない。少々、気が短い。よく人の話を聞かずに感情で突っ走るところがあった。まあ、高校生位の年齢だと、少々背伸びをしてそんな風になりがちではあるのだが。ショウの場合は、留学生という立場もあり、どうしてもアメリカ人の同窓生にからかわれることも多かった。そんな時、負けていては相手にされなくなってしまうので、猪突猛進してしまう癖がショウにはついていた。そんな思いの丈を消化するために、ショウはレスリング部に所属していた。体力をアメリカ人同窓生に負けないようにつける目的と、誰彼なくからかってこないように、レスリングをやって牽制する意味もあった。 その時の出来事の前後の流れは、ショウ自体興奮していたので、どうなっていたのかわからない。ただ、ショウは、またケンカをした。しかも、尋常ではなない様子であった。 ある日、ショウは血だらけで帰宅した。家族は皆、またケンカをしたかと呆れ顔で笑っていた。しかし、ショウはいつになく興奮していた。まだ、怒りが冷めやらない様子であった。何も訊けるような様子ではなかった。だが、ママさんは、何とかショウから事の次第を訊き出そうとしていた。そうこうしていると、家の電話がケタタマシク鳴った。ママさんは、「テレホ〜ン」と叫んで、誰か電話に出るように促した。二男のケーシーが電話にでた。 「マム、ショウの学校の先生から電話だよ。ショウは、レスリング部のコーチとケンカしたらしいよ」 驚いたママさんは、両掌を上に挙げ呆れた様子をボディーランゲージで表し、受話器をとった。暫く電話で詫びたり、笑ったり、何だか話をしてママさんが、やっと受話器を置いた。そして、彼女は、再びショウと対峙した。 「ショウ、何でコーチを殴ったの? コーチは、何故ショウが怒ったのか、まったく分からないと言っていたわ」 すると、ショウは興奮した様子で口を開いた。 「ママさん、あのコーチは、ふざけてる。この期に及んで、まだそんなこと言っているの。俺、今からあのコーチをもう一度殴りにいってくる」 「ショウ!」 ママさんは、大きな声でショウを窘めた。 「・・・・・」 ショウは、ちょっと驚いた様子でママさんをみつめた。しかし、それでも怒りが収まらぬ様子のショウは、早口でママさんに説明しだした。 「だって、ママさん、あのコーチは、俺が真面目に話をしているのに、いきなり”So do I”って言ったんだよ・・・・・」 「それが、何で問題なの? 貴方は、何を怒っているの? 私にもわからないわ?」 「俺が、今度の試合のことで少し緊張してるって言ったら、ヤツはいきなり”So do I”だよママさん」 「それがどうして悪いの? 何で、貴方は怒るの?」 「日本で、あんな風に“それがどうした”なんて言ったら、殴られただけじゃすまないよ。ママさん、きっとあのコーチは殺されてたよ」 日本語が分かる二男のケーシーと私は、思わずふきだしてしまった。すると、ショウは、目を真っ赤にさせて我々とママさんに、今にも殴りかかってきそうな形相をした。 「だから、何で貴方は怒るの?」 ママさんは、冷静にショウをなだめながら言った。 「いいよ。あんたらは、皆、そうやって俺を馬鹿にして・・・」 とショウは怒鳴って、ママさんを振り払おうとした。すると、見かねたママさんの二男ケーシーが口を開いた。 「ショウ」 「何だよ? ケーシー」 「あのね、”So do I”は、“それがどうした”って意味じゃないよ。響きは確かに似ているけど、意味は“私も貴方に同感とか同じようにするよ”だよ。コーチも、ショウ同様緊張してたんだろ。だから、”So do I”ってきっと言ったんだよ。ちゃんと言葉の意味を勉強しなきゃ、響きが似ていても意味は全然違うんだよ」 ショウは、上を向いて自分で、思い切り自分の額を叩いた。そして、その場に跪いた。そして、笑いだした。同時に、恥ずかしそうにモジモジとしだした。 「どうしよう、ママさん?」 ママさんは、冷静にショウを追い立てた。 「ほら、立ちなさいショウ。そして、さっさとコーチに謝罪しにいきなさい。貴方が間違えたのよ。それから、もっと勉強しなさい。いいわね?」 そう言って、ママさんはショウのお尻を叩いた。 「ママさん、一緒に来てくれない?」 ショウは甘え声で、ママさんに懇願した。しかし、ママさんは、そんなショウの甘えを取り合わず玄関から追い出した。 血の気は多く、短気なショウではあったが、案外正直者でもある。彼は、直ぐにコーチの所に飛んでいった。そして、土下座して侘び、怒った理由を説明したそうだ。この出来事がキッカケで、コーチとショウは、今まで以上に親しくなった。 他国の人々との交流とは、こんな誤解も生じるものなのだ。個人レベルで、こんなことが起こることもあるが、同じようなことが国レベルで起こることも当然ある。だからこそ、国際関係というのは、非常にセンシティブで大切な事柄なのだ。生まれも育ちも文化も違えば、誤解を生じて当たり前、と思って掛からなければ、誤解が誤解をよび、必要以上に複雑に糸がこんがらがってしまうこともある。まずは、相手を理解しようという気持が大切である。私は、そんな風に思っている。
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下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり 2007年4月2日 最近、あまり記事を書いたりブログを更新したりしていない。読者の皆様には、申し訳なく思っている。だが、筆が進まない。いや、正直に言えば、自分のケツに火がついており、原稿を書いているどころではないというところか(笑)。 まあ、冗談はさておき、正確に言えば、筆が進まないのでも、ケツに火がついているからでもない。どうも、世相を論評すること自体に大きな疑問を感じているというところだ。所詮、私の書く文章など、私の個人的な考え方でしかなく、それを書いたからといって、己自身の自己満足、マスターベーションでしかあり得ない。そんなことを考えると虚しさを何故か感じてしまった。それと、あまりにも、今の日本の社会全体、日本人の多くの価値観が堕落しているように思えてならないからだ。 多くの日本人の価値観が堕落している、などと私が言える立場ではない。しかし、日々ニュースで流れる事件や事象をはじめ、身の回りで見聞する多くの事柄が、あまりにも虚しい価値観に根ざしている気がしてならない。私自身、そんな偉そうなことを言えるような人間ではない。人様にも多大なるご迷惑をかけ続けている。だが、今の日本人の在り様は、あまりにも情けない。そんな気がしてならない。 日々報道される、政治家達の言動にも、いい加減呆れ返って言葉もない。公人としての自覚も、我々国民の代表としての自覚もまったくない。それどころか、政治家としての本分する自覚していない。まるで、政治家とは聖職ではなく、生活の糧のための職業であるかのように勘違いしているとしか思えない言動の数々、我々国民が彼ら政治家を信用も信頼もできなくなって当たり前である。 また、我々国民も、自分達が帰属するこの国のことに関してあまりにも無関心過ぎる。国なんかどうでもよい、それよりも自分のことが最優先、自分さえ良ければそれでいい。そんな考えの日本人が溢れている。車を運転していると、我先に、法律など関係ないとばかりに、滅茶苦茶な運転をしている輩が多くいる。オートバイは、人の危険など関係なく、自分達のことばかりを優先した無謀な運転を繰り返し、歩行者達は、歩行者が最優先とばかりに、肩で風を切って闊歩している。街に溢れる日本人達は、「ゆずる」という日本人が嘗て持ち合わせていた美徳を忘れ去り、我先にと血相を変え人を掻き分けている。そんな浅ましき日本人達は、市井で火花を散らし、怒鳴り合いを繰り返す。まるで、不良のごとくに怒鳴り散らす。普通の人々が、まるで傍若無人な輩のごとくに暴れまわる。それでも、周囲の人は、知らん顔で通り過ぎる。面倒なことには関わりたくないとばかりに。 先日、こんな風景を目にした。交差点で、信号が変わるのを待っていた。そこは、別にスクランブル交差点でも何でもない。ところが、一人の中年女性が、乳母車をまるで盾のようにしながら、その交差点を斜めに横断してきた。歩行者の信号は、どの向きも既に青信号から赤信号に変わっていた。にもかかわらず、当たり前のように堂々とした顔つきで渡っていた。一台の車が、クラクションを鳴らした。するとその女性は、その車に向かって睨み返し罵声を吐いた。とても、赤子を乗せた乳母車を押している女性とは思えなかった。彼女が、乳母車の中の赤子を気遣っているようにも見えなかった。寧ろ、乳母車も、乳母車の中の赤子も、彼女が優先権を得るための道具に使っているとしか思えなかった。何とも嘆かわしい光景であった。世も末である。まるで、それは地獄絵のようでさえあった。私には、そのように見えた。 企業は、金にまかせて政治家を抱きこみ、自分達の都合のよい法律ばかりを作り上げる。そして、都合の悪いことは、まるでトカゲの尻尾切りのように闇から闇へと葬りさる。しかし、自分の手は汚さない。汚れた手は、法律を使って社会から抹殺する。例え、冤罪をでっち上げてでも。地中に有害物質を埋め知らん顔。原発では、臨界状態に陥っても隠蔽する。消費者を騙して掻き集めた保険料は、網の目に張り巡らされたファイン・プリントを使って払わない。綱渡りの商売をして、金儲けに奔走する。国民のことも、国益なども関係ない。自社の利益を追求するためには、自国の魂までもかなぐり捨てる。そんな大人達の浅ましい姿を見ている子供達が、大人達の言うことを聞くはずもない。金にまかせて、少女達を買春する大人達の後姿を見た子供達は、当たり前のごとくに我欲に任せて女性達を襲う。そんなジャングルに生を受けた女性達は、平気で男達を弄ぶ。 企業は、際限なく自動車を売りまくる。しかし、庶民は、道交法で雁字搦め。それどころか、まるで商売のごとくに取り締まられ罰金を払わされる。にもかかわらず、自動車を後先考えず売りまくる企業は、まったく罰せられない。駐車場の数以上に自動車を売らせておいて、駐車場に駐車しないからと捕まえて、罰金ばかりを払わせるというのは如何なものか? まず、販売された自動車の台数に見合った比率の駐車場を確保して、はじめて取り締まりができるのではないか。駐車する駐車場がないにも関わらず、道交法は改正し、自動車を売ることは規制しない、そんな企業のご都合主義ばかりを優先した片手間な政治はあるであろうか。 時の首相はおっしゃる。全ての人々に平等に、再起できるチャンスがある社会にと。しかし、現実はどうだ。日本の社会でも、欧米よろしく管理社会に移行しつつある。全てが番号で管理され、一挙手一投足まで管理されている。市中には防犯の名の下に監視カメラが張り巡らされ、電車に乗るにも、電話を掛けるにも、クレジットカードなしには儘ならない世の中になりだした。その反面、格差社会の狭間で、自己破産を余儀なくされる人々も多く出ている。自己破産をしても、7年で元通りの生活に戻れると法律家達は軽く言う。しかし、実際には、何をするにもクレジットカードが必要な時代になりつつある。自己破産した人間は、隅へと追いやられ、人間以下の生活を強いられるのが現実だ。「再起のチャンス」などという綺麗事は、結局のところ絵空事でしかない。 選挙をみても、今の日本人の程度の低さを感じる。立候補者を見てみれば、誰が本物で誰が偽者かは一目瞭然である。しかし、そんなことさえ見極める目さえ失ってしまっている日本人。借金塗れで、債権者から逃げるために立候補している人間。売名行為で立候補している人間。世の中を転覆せんと邪な思いで立候補している人間。その多くが、国や、国民のために立候補するのではなく、自分の私利私欲思惑で立候補している。まったく嘆かわしい。冗談でも、市中に張り出された立候補者のボードに、政府転覆、国家転覆などという文字を並べたポスターを張り出すことなど許すべきではない。そんなふざけた立候補者を受け入れるこの国の感性を疑う。自由を履き違えているにも程がある。 マスコミも、真実、事実を報道するというよりも、如何に視聴率を集め、如何に発行部数を上げるかしか考えていない。何でもかんでも面白おかしく読者や視聴者が喜べば、多少捏造しようがガセネタでも構わない、などという非常にレベルが低い考え方が蔓延している。事象を真に掘り下げるのではなく、足の引っ張りあいにばかり終始する。本当に嘆かわしい。人の揚げ足をとることばかりを考えている。真っ直ぐに物事を捉える目を失っている。偏向したご都合主義で、歪んだ目で世の中を見つめている。嘘が本当になり、不実が真実になってしまう。恐ろしい世の中である。それどころか、自分と意見を異にしたものは、全て抹殺し抹消してしまおう、というような了見の狭い人間が大手を振ってこの国を牛耳っている。嘘八百をネットに流し、さも真実のごとくに吹聴し、例え真実であっても自分にとってマイナスと思えば、容赦なく葬り去る。自分勝手な輩が横行している。しかし、多くの人々は、見聞するものを本当だと思い込んでしまう。嘆かわしい限りである。偽善者が大手を振って、好き勝手をするのが今の日本である。 あまりにもネガティブで後ろ向きなことばかり書き綴ってしまった。しかし、正直に感じていることを書き綴ったつもりだ。私たち人間社会は迷走しだしている。そして、その迷走する我々人間が生活をしているこの地球は、悲鳴を上げている。温暖化は進み、地震があちらこちらで頻発し、人間が為した歪をリセットしようとしているかのように。今こそ、真剣に我々の子孫のために、この地球の、我々人間界の未来を考えなければならない時は既にきている。もう、躊躇する暇はない。そんな気がしてならない。
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嘗てセレベス島と呼ばれたスラウェシ島で昨夜大地震が! 2007年1月22日 昨晩、現地時間の午後6時27分(日本時間同午後8時27分)、インドネシアのスラウェシ島(インドネシア語:Sulawesi)で、マグニチュード7.3の大地震があった。今年、二本目の記事でも書いたのだが、このスラウェシ島とは、嘗てセレベス島と呼ばれた、日本とも所縁の深い島である。 雑煮に入れるセレベスという里芋から、何故か年始より、このセレベス島のことが気になり、色々と調べて記事にした矢先のニュースであった。正直、驚いている。やはり、セレベスで命を落とした先人達が、何かを伝えようとしているのかもしれない。そんなことを思った。それほど、地球は病んでいるのかもしれない。
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