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易しく生きる人々
2005年10月11日
人にとっての「幸せ」とは一体どういうことなのか? このことは、この世に生を受けた人間にとって、永遠のテーマであり疑問でもある。必ずしも物質的豊かさが、人間にとっての幸せとは限らない。貧しいからこそ感じられる「幸せ」、ということもある。こんなことを言うと、あなたは本当の貧しさを知らないから、そんな暢気なことを言えるのだ、と諸先輩方にお叱りを受けてしまうかもしれない。が、しかし、敢えて、「貧しさ故に贅沢を知らない幸せ」と「豊かさ故に贅沢を知ってしまった不幸」という、相反する「幸せ」の形を、いくつかの例を上げてお話することにする。
最初に、人が生きていく上で一番大切な事柄は、「愛」だと私は信じる。この世の全ては、「愛」という感情を原点に成り立っている。非常に大雑把な言い方かもしれないが、「愛」なくして「嫉妬」という感情も起こらないであろう。「争う」という感情も起こらないであろう。逆に、「守る」という感情も起こらないであろう。また、「想う」という感情も起こらないであろう。「労る」という感情も、「敬う」という感情も、そして、「憎む」という感情も起こらないであろう。
そんな「愛」という感情にも、色々な形がある。人を好きになり、想い、愛する「愛」。人を思い遣る「愛情」。純粋に人を思い、敬う「愛情」。このように、様々な感情が「愛」という言葉に集約されている。そして、そのような「愛」という感情も、「愛」を感じる相手によって、様々な形に変化する。
例えば、恋人へ対しての「愛」と、親や子供などの血縁に対する「愛」では、「愛」の形はまったく違う。些か理解しにくい、非常に抽象的な説明になってしまったことをご容赦願いたい。それほど、「愛」ということは、人間にとって必要不可欠でありながら、複雑怪奇で摩訶不思議な感情なのである。
極端なことを言えば、人間という生き物は、「愛」という感情を失ったら、「藻抜けの殻」同然である。何故ならば、「愛」という感情は、この世に生をうけた生き物の中で、唯一人間にだけ許されている感情だからである。そうは言っても、一部の動植物に、「愛」を感じ、彼らからの「愛」を感じるという現実もあるのだが。
文明が開花し、豊かさが満ちあふれる現代。物質的豊かさを得た欲深い我々人間は、その物質的豊かさに飽き足らず、いや本能的物足りなさに苛まれ、人が人として人らしく生きるとはどういうことか、という大きな疑問の壁にぶつかった。そして、心に隙間を感じる多くの現代人は、本来のあるべき人間の姿にできるだけ近付いた生き方をしたい、と思うようになった。最近よく耳にする、「スローライフ」などという言葉も、このような心満たされない人々によって作り出された言葉である。
それでは、人が人らしく生きるとは、どのような生き方なのであろうか? 当然のことながら、賛否両論ある。しかし、簡潔に言えば、人が人として本来のあるべき姿に回帰する、ということであろう。それでは、人が人として本来あるべき姿、とはどのような姿なのか? 非常に抽象的な説明になるが、余計な雑念を振払いありのままの姿で生きる、ということであろう。俗に言う、普通に生きる、ということである。それでは、「普通」とはどういうことか、ということにもなってしまう。理解り易く言えば、無理をしないということだ。案外、この「普通」ということが難しいのだ。普通に生きるということほど、物質文明花盛りの現代において、難しいことはない。何故ならば、物質文明下では、際限のない誘惑が、怒濤のごとく押し寄せるからである。このことが、「物質的豊かさを得てあらゆる意味での選択肢を知り過ぎたが故の不幸」ということになる。文明が溢れかえる現代では、普通に、自然に生きることの方が難しい。私は、「易しく生きる」と表現しているが、地球上には「生き易い」場所というのがある。それは、必ずしも物質的豊かさで溢れかえる先進国ではない。
私はよく、タイムマシーンに乗る、という表現をする。我々日本人にとっては、タイムマシーンに乗り過去に戻ることで、易しく生きている人々を見聞することが可能になる。どういうことかと言うと、自分の生きている国より先進国へ旅をすれば、未来を見聞することになる。その逆に、自分の生きている国よりも後進国へ旅をすれば、過去を見聞することができるということだ。
未来を見聞するのも、過去を見聞するのも、どちらも興味深く楽しいことである。私は、このように感じた。未来を見聞することにより堕落することへの恐怖感を感じ、過去を見聞することにより再生し甦る喜びを感じる。別な言い方をすれば、未来を見聞することは危機管理であり、過去を見聞することは心とマインドのリセットである。そして、過去へのタイムトリップは、人としての生き方を再確認することなのである。
そのことを、私はネパールを訪問した時に感じた。ネパールは、よく神々の宿る国と言われる。その反面、世界で一番経済的には貧しく発展していない、文明浸透度の低い国である。ところが、ネパールの子供達の目は、日本の子供達の目に比べると、輝き、美しく、純粋な光を持っている。いでたちは、日本にも戦後溢れかえっていた浮浪児のように貧しい。それだけに、子供達の美しい目は、印象的であり際立つ。
何故、貧しい生活の中で、彼らはそんなにも純粋で、美しく目を輝かせていられるのか。その答えは、簡単であった。彼らには、選択肢が少ないのだ。モノが溢れていない分、贅沢を知らない。
例えば、鉛筆が欲しいと思えば、日本のように、トンボの鉛筆や三菱の鉛筆、あるいはポケモンやディズニーのキャラクターがプリントされた鉛筆、シャープペンなどという選択肢はないのだ。鉛筆が欲しいと思えば、一本の素朴な鉛筆しかない。これは、あくまで例であるが、何ごとにつけ選択肢がないのだ。そして、選択肢がないことが当たり前なのである。故に、迷うことも、悩むこともない。
確かに、文明的には恵まれていないかもしれない。しかし、それは、端から見る私たちが勝手にそう思っていることなのだ。当事者である彼らは、それしか知らないのであるから、不自由であるとも感じていない。知らぬが故の「幸せ」である。
文明的に恵まれていない分、純粋な、人間として素のままの本来の姿を保っていられる。豊かさを知らぬが故の「幸せ」、がネパールには未だ存在している。この素朴な姿こそが、本来の人間のあるべき姿なのかもしれない。他のモノを知らないので、他のモノと比較することもなく、現在自分達がある状況で満足できている。「知らない幸せ」ということが、「易しく生きる」ということの原点なのである。易しく生きている彼らは、より神々に近い存在で生きていられる、ということになるのかもしれない。
再び鉛筆の例に戻るが、モノを書くということだけを考えれば、鉛筆はそんなに何種類も必要ないわけである。一種類、文字が書けるものがあればそれでよい。にもかかわらず、キャラクターのプリントしてあるものやシャープペンや、と確かに便利で華やかではある。が、しかし、必ずしも必要であるとは限らぬものが、この鉛筆の例のように現代社会には溢れかえっている。しかし、それらは、あくまで商業的な理由による存在でしかない。このような多くの選択肢が文明社会には存在し、それらの選択肢が人々を惑わし、悩ませているのである。
同じような経験を、バリ島を訪問した時にもした。昔のバリ島と今のバリ島の変化の中に、そのような物質文明によって人々を悩ませる「不幸」というものを見た。バリ島という所は、手を伸ばせばもぎ取れるほどの果物が、道端にたわわになっている。米をはじめ各種農業も二毛作、三毛作が当たり前の豊かな島だ。そういう自然の豊かさ故に、嘗てバリ島の人々にお金というものは必要なかった。生きるに必要な分だけでの物々交換で、全ては為されていた。何故なら、生きていくに必要なモノは島に満ち溢れ、あえてお金を使って何かを買う必要がなかったからである。お金が無くとも、自給自足で生活できたのだ。そのような豊かな自然環境が、こんなにも心美しい人々がこの地球上に未だいるのか、と思うほどにバリ島の人々を純粋培養していた。
ところが、文明国の企業家達は、このバリ島の豊かな自然とバリの人々の美しさに魅了された。彼らは、文明をバリ島に持ち込むだけでは飽き足らず、観光開発まで始めてしまった。多くの観光客がバリ島を訪問するようになり、同時に文明がバリ島に入り込んできた。このことは、バリ島の人々の生活サイクルを狂わせてしまった。彼らは、お金を使って多くのモノを手に入れる事を知り、色々と便利なものに触れてしまった。より便利さを求めるようになってしまった。当然のことながら、少しでも多くのお金を手に入れ裕福になりたいと思うようになってしまった。そして、彼らが先祖から受け継いできた古き良き文化さえも、金銭を得るために利用するようになってしまった。彼らの光り輝く美しい目は、いつの間にか曇り失われてしまった。
彼らは、便利な生活に惹かれた。しかし、我々にそのことを批判する権利はない。便利さや贅沢を知ってしまえば、もっと便利に、もっと贅沢に、と思うのは人の常である。そのために、より多くのお金が欲しいと思うのも人の常である。そのことは、誰も批判できることではない。私たちだって、そのような時代を経て今があるのだ。既に、便利さも、贅沢さも手にしている私たちが、彼らを批判することはできない。そんな権利はない。ただ、物質的豊かさに代え難い精神的豊かさを失ったことで、「豊かさ故の不幸」と「貧しさ故の幸せ」という考え方に、現代人は初めて気付いた。どちらが、正しいとは言えない。しかし、悲しむべき人間社会のジレンマであることだけは間違いない。
バリ島の人々は、他のインドネシアの地域とは違い、ヒンドゥー教徒である。日本と同じく、万物に八百万の神々が宿っていると信じる人々だ。非常に美しい島、そして美しい心を持つ人々。そんなバリ島の人々が、物質文明に翻弄され、テロリズムの犠牲にまでなってしまったことは、非常に悲しむべきことである。しかし、文明開化という時代の流れを止める権利は、誰にもないのだ。
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