政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

世界の中の日本と日本人

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易しく生きる人々

易しく生きる人々
2005年10月11日

 人にとっての「幸せ」とは一体どういうことなのか? このことは、この世に生を受けた人間にとって、永遠のテーマであり疑問でもある。必ずしも物質的豊かさが、人間にとっての幸せとは限らない。貧しいからこそ感じられる「幸せ」、ということもある。こんなことを言うと、あなたは本当の貧しさを知らないから、そんな暢気なことを言えるのだ、と諸先輩方にお叱りを受けてしまうかもしれない。が、しかし、敢えて、「貧しさ故に贅沢を知らない幸せ」と「豊かさ故に贅沢を知ってしまった不幸」という、相反する「幸せ」の形を、いくつかの例を上げてお話することにする。

 最初に、人が生きていく上で一番大切な事柄は、「愛」だと私は信じる。この世の全ては、「愛」という感情を原点に成り立っている。非常に大雑把な言い方かもしれないが、「愛」なくして「嫉妬」という感情も起こらないであろう。「争う」という感情も起こらないであろう。逆に、「守る」という感情も起こらないであろう。また、「想う」という感情も起こらないであろう。「労る」という感情も、「敬う」という感情も、そして、「憎む」という感情も起こらないであろう。
 そんな「愛」という感情にも、色々な形がある。人を好きになり、想い、愛する「愛」。人を思い遣る「愛情」。純粋に人を思い、敬う「愛情」。このように、様々な感情が「愛」という言葉に集約されている。そして、そのような「愛」という感情も、「愛」を感じる相手によって、様々な形に変化する。
 例えば、恋人へ対しての「愛」と、親や子供などの血縁に対する「愛」では、「愛」の形はまったく違う。些か理解しにくい、非常に抽象的な説明になってしまったことをご容赦願いたい。それほど、「愛」ということは、人間にとって必要不可欠でありながら、複雑怪奇で摩訶不思議な感情なのである。
 極端なことを言えば、人間という生き物は、「愛」という感情を失ったら、「藻抜けの殻」同然である。何故ならば、「愛」という感情は、この世に生をうけた生き物の中で、唯一人間にだけ許されている感情だからである。そうは言っても、一部の動植物に、「愛」を感じ、彼らからの「愛」を感じるという現実もあるのだが。

 文明が開花し、豊かさが満ちあふれる現代。物質的豊かさを得た欲深い我々人間は、その物質的豊かさに飽き足らず、いや本能的物足りなさに苛まれ、人が人として人らしく生きるとはどういうことか、という大きな疑問の壁にぶつかった。そして、心に隙間を感じる多くの現代人は、本来のあるべき人間の姿にできるだけ近付いた生き方をしたい、と思うようになった。最近よく耳にする、「スローライフ」などという言葉も、このような心満たされない人々によって作り出された言葉である。

 それでは、人が人らしく生きるとは、どのような生き方なのであろうか? 当然のことながら、賛否両論ある。しかし、簡潔に言えば、人が人として本来のあるべき姿に回帰する、ということであろう。それでは、人が人として本来あるべき姿、とはどのような姿なのか? 非常に抽象的な説明になるが、余計な雑念を振払いありのままの姿で生きる、ということであろう。俗に言う、普通に生きる、ということである。それでは、「普通」とはどういうことか、ということにもなってしまう。理解り易く言えば、無理をしないということだ。案外、この「普通」ということが難しいのだ。普通に生きるということほど、物質文明花盛りの現代において、難しいことはない。何故ならば、物質文明下では、際限のない誘惑が、怒濤のごとく押し寄せるからである。このことが、「物質的豊かさを得てあらゆる意味での選択肢を知り過ぎたが故の不幸」ということになる。文明が溢れかえる現代では、普通に、自然に生きることの方が難しい。私は、「易しく生きる」と表現しているが、地球上には「生き易い」場所というのがある。それは、必ずしも物質的豊かさで溢れかえる先進国ではない。
 私はよく、タイムマシーンに乗る、という表現をする。我々日本人にとっては、タイムマシーンに乗り過去に戻ることで、易しく生きている人々を見聞することが可能になる。どういうことかと言うと、自分の生きている国より先進国へ旅をすれば、未来を見聞することになる。その逆に、自分の生きている国よりも後進国へ旅をすれば、過去を見聞することができるということだ。
 未来を見聞するのも、過去を見聞するのも、どちらも興味深く楽しいことである。私は、このように感じた。未来を見聞することにより堕落することへの恐怖感を感じ、過去を見聞することにより再生し甦る喜びを感じる。別な言い方をすれば、未来を見聞することは危機管理であり、過去を見聞することは心とマインドのリセットである。そして、過去へのタイムトリップは、人としての生き方を再確認することなのである。

 そのことを、私はネパールを訪問した時に感じた。ネパールは、よく神々の宿る国と言われる。その反面、世界で一番経済的には貧しく発展していない、文明浸透度の低い国である。ところが、ネパールの子供達の目は、日本の子供達の目に比べると、輝き、美しく、純粋な光を持っている。いでたちは、日本にも戦後溢れかえっていた浮浪児のように貧しい。それだけに、子供達の美しい目は、印象的であり際立つ。

 何故、貧しい生活の中で、彼らはそんなにも純粋で、美しく目を輝かせていられるのか。その答えは、簡単であった。彼らには、選択肢が少ないのだ。モノが溢れていない分、贅沢を知らない。
 例えば、鉛筆が欲しいと思えば、日本のように、トンボの鉛筆や三菱の鉛筆、あるいはポケモンやディズニーのキャラクターがプリントされた鉛筆、シャープペンなどという選択肢はないのだ。鉛筆が欲しいと思えば、一本の素朴な鉛筆しかない。これは、あくまで例であるが、何ごとにつけ選択肢がないのだ。そして、選択肢がないことが当たり前なのである。故に、迷うことも、悩むこともない。
 確かに、文明的には恵まれていないかもしれない。しかし、それは、端から見る私たちが勝手にそう思っていることなのだ。当事者である彼らは、それしか知らないのであるから、不自由であるとも感じていない。知らぬが故の「幸せ」である。
 文明的に恵まれていない分、純粋な、人間として素のままの本来の姿を保っていられる。豊かさを知らぬが故の「幸せ」、がネパールには未だ存在している。この素朴な姿こそが、本来の人間のあるべき姿なのかもしれない。他のモノを知らないので、他のモノと比較することもなく、現在自分達がある状況で満足できている。「知らない幸せ」ということが、「易しく生きる」ということの原点なのである。易しく生きている彼らは、より神々に近い存在で生きていられる、ということになるのかもしれない。
 再び鉛筆の例に戻るが、モノを書くということだけを考えれば、鉛筆はそんなに何種類も必要ないわけである。一種類、文字が書けるものがあればそれでよい。にもかかわらず、キャラクターのプリントしてあるものやシャープペンや、と確かに便利で華やかではある。が、しかし、必ずしも必要であるとは限らぬものが、この鉛筆の例のように現代社会には溢れかえっている。しかし、それらは、あくまで商業的な理由による存在でしかない。このような多くの選択肢が文明社会には存在し、それらの選択肢が人々を惑わし、悩ませているのである。

 同じような経験を、バリ島を訪問した時にもした。昔のバリ島と今のバリ島の変化の中に、そのような物質文明によって人々を悩ませる「不幸」というものを見た。バリ島という所は、手を伸ばせばもぎ取れるほどの果物が、道端にたわわになっている。米をはじめ各種農業も二毛作、三毛作が当たり前の豊かな島だ。そういう自然の豊かさ故に、嘗てバリ島の人々にお金というものは必要なかった。生きるに必要な分だけでの物々交換で、全ては為されていた。何故なら、生きていくに必要なモノは島に満ち溢れ、あえてお金を使って何かを買う必要がなかったからである。お金が無くとも、自給自足で生活できたのだ。そのような豊かな自然環境が、こんなにも心美しい人々がこの地球上に未だいるのか、と思うほどにバリ島の人々を純粋培養していた。
 ところが、文明国の企業家達は、このバリ島の豊かな自然とバリの人々の美しさに魅了された。彼らは、文明をバリ島に持ち込むだけでは飽き足らず、観光開発まで始めてしまった。多くの観光客がバリ島を訪問するようになり、同時に文明がバリ島に入り込んできた。このことは、バリ島の人々の生活サイクルを狂わせてしまった。彼らは、お金を使って多くのモノを手に入れる事を知り、色々と便利なものに触れてしまった。より便利さを求めるようになってしまった。当然のことながら、少しでも多くのお金を手に入れ裕福になりたいと思うようになってしまった。そして、彼らが先祖から受け継いできた古き良き文化さえも、金銭を得るために利用するようになってしまった。彼らの光り輝く美しい目は、いつの間にか曇り失われてしまった。
 彼らは、便利な生活に惹かれた。しかし、我々にそのことを批判する権利はない。便利さや贅沢を知ってしまえば、もっと便利に、もっと贅沢に、と思うのは人の常である。そのために、より多くのお金が欲しいと思うのも人の常である。そのことは、誰も批判できることではない。私たちだって、そのような時代を経て今があるのだ。既に、便利さも、贅沢さも手にしている私たちが、彼らを批判することはできない。そんな権利はない。ただ、物質的豊かさに代え難い精神的豊かさを失ったことで、「豊かさ故の不幸」と「貧しさ故の幸せ」という考え方に、現代人は初めて気付いた。どちらが、正しいとは言えない。しかし、悲しむべき人間社会のジレンマであることだけは間違いない。
 バリ島の人々は、他のインドネシアの地域とは違い、ヒンドゥー教徒である。日本と同じく、万物に八百万の神々が宿っていると信じる人々だ。非常に美しい島、そして美しい心を持つ人々。そんなバリ島の人々が、物質文明に翻弄され、テロリズムの犠牲にまでなってしまったことは、非常に悲しむべきことである。しかし、文明開化という時代の流れを止める権利は、誰にもないのだ。

蒙古斑と月の中の餅搗き兎
2005年10月6日

 20年以上も前の大学在学中知った話だが、未だに強く印象に残っているのでお話する。ハンガリーから大戦末期に政治亡命し、アメリカの大学で美術の教授をしていた恩師から聞いた話である。この教授夫妻とは、非常に親しくさせて頂き、色々貴重な話をうかがった。奥様はオランダ人で、元スパイであった。旦那様は、ユダヤ系ハンガリー人であった。旦那様がスペインの美術大学に在学中、仕事でスペインに行った奥様と知り合い恋に落ちた。そして、奥様は、迫害を受け辛い経験をする旦那様をアメリカへ亡命させ、自分もスパイの仕事を止め亡命した、とも言っていた。この夫妻からは、非常に興味深い話を色々うかがったので、追々お話することにする。今日は、この旦那様が話してくれた、「蒙古斑と月の中の餅搗き兎」の話をさせて頂くことにする。
 日本には、月の中で兎が餅を臼と杵で搗いているという伝説がある。私はてっきり、これは日本だけに伝わる伝説だと思っていた。確かに、私達日本人の目から見ると、満月の中で兎が餅を搗いているように見えないこともない。だが、その頃の私は、餅自体が日本のモノだし、まあ中国や韓国に餅があったとしても、臼と杵を使って餅を搗くなどという行為は、日本独特の行為であると思い込んでいた。ところが、この教授曰く、ハンガリーでも月の中で兎が餅を搗いているという伝説があるというのだ。それどころか、ハンガリー人にも生まれた直後蒙古斑がるとまで言い出した。蒙古斑に関しても、当時の私の認識では、日本人を含め日本周辺の韓国やモンゴルのごく一部の民族のみにあるものだと思っていた。よって、この話を聞いた時には、かなり大きな驚きを覚えた。
 ところがどっこい、話はそれで終わらなかった。その教授は自慢げに続けた。私達は、同じ伝説を信じ、同じ蒙古斑を持つ兄弟のような民族なのだよ。フムフム、と驚きを隠せずに放心状態で頷く私に、もっと衝撃的なことを説明しだした。それは、こうであった。
 兄弟はね、日本人とハンガリー人だけではないんだよ。もっと沢山いて、その兄弟達の道があるんだ、と何だか咄嗟には理解できない話をしだした。続けて耳を傾けてみると、その教授曰く、その道は、ハンガリーからアジアを通り抜け、アラスカを経てアメリカ大陸にまで続いていると言うのだ。要約して説明すると、ハンガリー人も、モンゴル人も、朝鮮人も、日本人も、アラスカの原住民も、カナディアン・インディアンも、アメリカン・インディアンも、そして、メキシコ人も、皆共通の宝物を持っているというのだ。それが、蒙古斑と月の中で兎が餅を搗いているという伝説だと。確かに、そう言われてみれば、兎が月の中で餅を搗いている杵は、日本風のトンカチ型の杵ではなく、韓国風の縦長の杵だ。日本でも、絵本などで月の中の餅搗き兎が描かれる時は、この杵で描かれていることが多い。そして、この杵と同じ形のものが、ハンガリー人、モンゴル人、カナディアン・インディアン、アメリカン・インディアン、メキシコ人などによって使われている。用途は、トウモロコシや小麦粉を潰したり、挽いたり、と地域によって多少違うが。形は同じで、使用法もほぼ同じである。
 同時に、その教授は付け加えた。中国人は同じ東洋人で、私たち欧米人から見たら日本人も朝鮮人も中国人も非常に似ていて見分けがつきにくい。が、しかし、中国人には蒙古斑もなければ、兎が月の中で餅を搗くという伝説もない。同じことが、アイヌの人々にもいえる、というのだ。アイヌの人々のアートは、カナディアン・インディアンのアートと非常に酷似するし共通点も多くあるが、アイヌの人々にも蒙古斑はなく、月の中で兎が餅搗きをしているという伝説もないという。
 この教授はアートの教授であったので、そういう観点から研究していく内、本来人類学の分野に入るのではと思うような事実を発見したのであろう。
 確かに、これらの人々の顔つきを見ていると、他人とは思えぬ感じもしていた。特に、メキシコ人などは、遠く日本から離れているが日本人と似ているな、と昔から私は思っていた。また、ミャンマーの一部の部族にも、蒙古斑と月の中で兎が餅を搗くという伝説があるらしい。そして、それらの民族には、似たような食習慣や食物もあるというから驚きだ。
 こういう観点で見ていくと、地球上での人間の歩みや歴史が見えるようで非常に面白い。我々の先祖は、どういう思いでハンガリーからメキシコまで歩んでいったのであろうか? 不思議な話だ。
 ハンガリーに関しては、アジアの騎馬民族が移り住んだという流れもあるようだ。そう言われてみれば、ハンガリーの民族衣装とミャンマーの一部山岳民族の民族衣装は酷似している。そのような類似点は、伝説や食文化にとどまることはない。例えば、ハンガリー人は、昔から温泉好きな民族でも知られている。公衆浴場という、日本や韓国にある風呂文化が、形を変えて存在するのだ。他にも、言語にも似通ったところが多いのが特徴かもしれない。
 兎に角、人類皆兄弟ではないが、こうやって歴史を紐解いていってみると、案外兄弟が多いことに気付く。と同時に、生まれ育ちが違って、価値観も考え方も違っても、遠い先祖を辿っていけば同じ血が流れているということもあり得るのだ。そうやって考えると、案外地球はスモール・ワールドなのである。なのに何故、こんなにも紛争が耐えないであろうか。人間の業の深さを感じざるを得ない。

主張できない日本人から主張できる日本人に
国際社会で大切なこと、それは「主張」するということ
2005年6月21日

 昨日、渡韓した小泉首相は、盧武鉉(ノムヒョン)大統領と会談を持った。会談後の記者会見は、異例の対応となった。記者からの質問は一切受け付けず、一方的に結果発表をするというものであった。一昨年来続いていた民間レベルでの「冬ソナ」ブームに触発された韓流ブームとは裏腹に、ここ数ヶ月、「竹島問題」「教科書問題」「靖国参拝問題」再燃により、日韓関係は非常にセンシティブな状況にあった。そんな微妙な状況を反映してか、盧武鉉大統領は、でだしより緊張した面持ちで会談に臨んでいた。

 もともと反米・反日色の強い政治家として知られていた盧武鉉大統領が、ここにきてその本性を出してきたというのは言葉が悪いが、本来の姿に戻ったといってよいであろう。親北朝鮮色を打ち出し、同時に反米・反日色を露にしだした。
 それはそれぞれの思想の問題であるから、とやかく言うつもりはない。また、韓国国内の政治的な駆け引きもあり、反日色を露にしてきたということが言えるので、そのこと自体に対して日本も過剰に反応する必要はないと思う。
ただ、注目すべき点は、会談後の盧武鉉大統領の様子である。会談前以上に、緊張し興奮した様子であった。あの表情が全てを物語っているのではないか。それは、今回の日韓首脳会談が、如何に真剣に率直に議論されたかが、あの盧武鉉大統領の表情を見れば一目瞭然である。対照的に、小泉首相は、冷静沈着に会談の内容を話していた。あの小泉首相の言葉が、事実なのであろう。故に、盧武鉉大統領の顔は強張っていたのだ。予想外に、一歩も譲らず日本の立場を主張した小泉首相に、為す術がなかったということであろう。その証拠が、盧武鉉大統領の会談後の記者会見での「低レベルでの二つの合意にとどまった」という言葉である。今までの日本の首相であれば、ニコニコと笑みを浮かべ、取り留めのないことばかりを話し、日本の首相に対しては高圧的に出れば、かなりの効果を得ることができた。ところが、小泉首相は違ったということであろう。
 しかし、普通の政治家であれば、その辺のことを鬼の首でもとったかのように自慢するであろうが、小泉という人の感性には、そのような自己を過大評価するような性質はないのだ。事実を事実として、淡々と伝える合理主義的発言が、あの記者会見後のコメントにも窺えた。そういうところが、小泉首相の長所でもあり短所でもある。そして、誤解されるところでもあるのではないか。決して自分のことを自慢するようなことはないのだ。それが、彼の美意識なのかもしれない。潔いのである。
 ある小泉首相と親しい人が、次のように言っていた。「多分、首相の職から外れた時は、未練たらしく政治家でいることはないであろう。彼は、潔く引退すると思いますよ」 普段からの小泉さんの言動を見ていると、なるほどと思えるような気がする。

 アメリカの政府関係者は、口を揃えてこのように言う。「小泉首相は、歴代の日本の首相の中で、もっとも明確に、そして的確に主張できる首相である。国際会議の場でも、臆することなく、ハッキリと自分の主張をする」また、在米の日本人ジャーナリストの多くも、アメリカをはじめ日本の国外では小泉首相は非常に評価されている、ということを言う。
 以前、ある小泉首相と非常に親しい政治家にインタビューをした際、雑談で小泉首相のことを訊いてみたことがある。その時、その政治家も言っていた。「彼は、余計なことは一切しゃべらない。例えば、三人で酒を飲みながら議論を闘わせていても、彼はマイペースで一人酒を飲んでおり、議論の矛先を向けても、まあ思う存分やってくれ、とういようなスタンスだね。だけど、自分の言うべきことは、単刀直入にハッキリと言う人だよ。決して臆することも、遠慮することもないね。ただ、政治家だから、国民にはもっと説明する義務があるとは思うけどね」こんな言葉を私は思い出した。

 日本人がどのように小泉首相を捉えているのかは、少々心配なところもある。しかし、小泉純一郎という人は、口数は少ないが、明確に主張はできる人であると私は思っている。その証拠に、海外の政治家は、口を揃えて「小泉は主張できる日本で初めての首相だ」と言うではないか。それなのに、何故、あんなにもダメ首相のように、日本のマスコミも政治家達も騒ぐのか。答えは簡単である。小泉首相の一挙手一投足が、日本風ではないからである。と同時に、自分達には真似のできない「行動力」と「実行力」を兼ね備えているからにほかならない。
 小泉首相の特徴は他にもある。彼の言動は、極めて合理的である。余計なことは、面倒くさいと思っているのではと思ってしまうほど為さない。それでは、何もしないかというとそんなことはない。誰もが予想もしないような言動をする。それらの言動が、時として誤解されることも多々ある。しかし、総じて言えば、間違いなく「不言実行の人」である。また、同時に「有言実行の人」でもあるのではないか。
 それは、政治の世界で、公言したこと全てを実現すること自体、夢のような話である。そんなことができた政治家は、地球上どこを探してもいないであろう。何故ならば、政治というのは、賛成派もあり、反対派もあって、その議論によって成り立っているのであるから。全部が全部思い通り、言った通りになっていたら、それは独裁政治か共産主義政治としか言えない。

 私が、どうしても納得いかないことがある。それは、政治家達も、拉致被害者の遺族会の人達も、やたら小泉首相を非難する。何故であろうか? 歴代の日本の首相で、拉致問題を真剣に取り上げた首相が、小泉首相以外にいたであろうか? 歴代の政府で、拉致問題を正式に認め、政府として実際に北朝鮮と交渉に臨んだことがあったであろうか? 何十年も拉致された事実さえ、見て見ぬ振りをしてきたのが、既存の政治家達であり政府ではなかったのか。小泉首相になって初めて、それも非常に速やかに拉致問題を実際に認めたではないか。しかも、それだけではなく、北朝鮮にまで自ら飛んで、金正日と会談を持ち、全員取り戻すことはできなかったにしても、多くの家族を連れ帰ったではないか。違いますか?
 にもかかわらず、小泉首相の言動に対して文句を言う政治家も国民も多い。非難するのは簡単である。しかし、実行するのは難しい。そういう方々には、ご自分達は同じことをできるのですか? と訊ねたくなってしまう。非常に大きな疑問を感じる。非難する前に協力するということ、評価するということも必要なのではないか。実現されたことを評価されることはなく、非難されてばかりいたら、誰だって嫌になってしまうのは当然である。やる気もうせる。そうではないか。それでも、そんな感情は一切見せずに行動している小泉という人は、非常に偉い。政治家としての資質の高い方だと私は思う。

 靖国の問題にしても、寄って集って非難する。ちょっと待って頂きたい。それでは、国のために亡くなっていった人々は無駄死にだったと言うのですか? 今の日本の平和は、先人の犠牲の上になりたっているのではないのですか? 「小泉は首相なのだから参拝するべきではない」と多くのコメンテーターが、まるで自分が全て正しいというような顔をしてテレビでの給う。そうです。首相になった瞬間から、私人の部分はないのです。首相を辞めるまで、公人なのです。公人として、小泉首相は靖国神社を参拝しているのです。それが、小泉首相の海外へ向けての主張なのです。日本は外圧や内政干渉をされ屈する国ではない、という主張であり、日本の国のために亡くなられた先人達へ礼を尽くす、という主張なのです。そのことが、国際社会で日本の国益を損なう行為だ、と多くのコメンテーターや反小泉の政治家達はおっしゃるが、それこそまったく逆である。もし、ここで、外圧に屈したならば、日本は外圧に弱い、内政干渉さえ受け入れてしまう弱腰な国、という印象がついてしまう。それこそ、今後の日本の立場を悪くすることは一目瞭然である。にもかかわらず、日本は隣国にもっと配慮しなければ、と中国の肩ばかりもつ人々こそ、日本の国益を無視しているとしか思えない。
 脅されたら、言うことを聞けというのですか? 戦争にまけたら永久に奴隷のように小さくなっていなければならないのですか? こういうことをヌケヌケと偉そうにテレビで言う人々の思考回路は、どうなっているのであろうか。「愛国心」というものは、ひとかけらもないのであろうか。大きな疑問を感じざるを得ない。

 どちらにしても、小泉首相という人は、歴代のどの首相よりも、どんな場に於いてもハッキリと「主張」のできる首相であることだけは間違いない。そして、日本人の最も不得手とする「主張」ということが、国際社会に於いてはどれだけ大切なことか。そのカルチャーショックが、小泉首相の言動を目の当たりにすることによって、マスコミをはじめ国民に起こっているのかもしれない。

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