政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

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太陽活動と地球への影響 私が感じること
2012年5月22日

 まず、何故私が太陽活動に強い興味を持つようになったかをお話しなければならない。それは、昨年8月末に私に起こった脳梗塞がキッカケだ。それまで、ここ数年、私はアフリカのドゴン族に強い興味を惹かれていた。ドゴン族は、簡単に言うとシリウス星から人間が地球に降り立ったと信じているアフリカの部族である。彼等は、シリウスを神と崇め、太古の昔から色々な言い伝えを部族に伝承してきた。その彼らの伝承していたシリウスに関する内容は、科学者も驚くようなもので、ここ十数年前にその事実が科学的に天文学者によって証明されたばかりだ。その事実から、彼らが出鱈目を言っていたのではなく、正しく科学的にシリウスという星の在り様を伝承してきたことも証明された。その核を為していた内容は、何故シリウスが定期的に光を強くして輝くかということであった。このことは、長年天文学者の中でも不思議の一つとして取り上げられていた。だが、その謎を太古の昔からドゴン族は岩絵にして伝承していた。不思議としか言いようがない。そんなドゴン族の話を私は、数年前に作家仲間から聞き、実際にアフリカのドゴン族を彼が訪ねた話を聞き、大いに興味をそそられ何冊もの本を買い漁った。それらの本をここ数年読みふけり、ドゴン族や地球の起源、人間の起源に思いを馳せていた。そんな状況下、私は昨年夏に脳梗塞を患った。

 二ヵ所の脳内出血と一か所の脳梗塞で倒れた私は、右半身に不自由を覚え、全ての数字と平仮名を失った。勿論、話すこともできなかった。必死に口から発していたのは二人の子供たちの名前と英数字で暗唱するアメリカ時代の認識番号であったと担当医に回復後告げられた。この時不思議なことを多々体験した。まず、言葉は発せられないが、私の頭の中では、言葉を発し、思考もしっかりとあった。だが、それが言葉という形で口から発することができなかった。頭の中では思考し、言葉を思うのだが、口から言葉を発することは、言葉自体が思い出せず発せられなかった。矛盾した話だが、それでも頭の中では言葉を発していた。そんな状態の間、私は不思議な空間に置かれているような気分であった。当然本も読めない。だが、言葉を回復させようと考えた息子が、当時読んでいた本能寺に関しての書籍を何冊か病床に持ってきてくれた。一人になった時、必死に読もうと試みた。だが、当然読むことはできない。しかし、それでも本も見つめていると、紙面に不思議な思考の世界が広がった。言葉ではとても表せない不思議な世界だ。後にも先に経験したことのない不思議な世界だ。まるで不思議の国を彷徨っているアリスにでもなった気分であった。文字が、まるで星のようにそれぞれ違った光で輝いていた。まるで、宇宙の中を彷徨っているような不思議な感覚であった。倒れた翌々日には、自力でリハビリを始めたが、リハビリを進めるのに比例して、その不思議な世界は遠のいていった。話は違うが、言葉を失った植物人間化した人々も、多分口では表現できないが頭の中では全て解っているのであろうとその時私は感じた。話を戻す、だがこの時何故か、理由はわからないが太陽を強く意識するようになった。宇宙の中で、太陽系に帰属する地球を、そしてその地球に帰属する存在として自分を言葉では表せないが、強く意識するようになった。それは理屈ではなく、神様か仏様かのような感覚で、何故か太陽が私に語りかけてくるような感覚に近い印象であった。以来、私は、それまであまり深く興味を持ったこともなかった、太陽に深い関心を抱くようになった。その時強く感じたことは、所詮人間は地球に生を受け、その地球は太陽系に生を受け、その太陽系は太陽を中心に全てが動いているのだということであった。仏教でいえば、仏教自体が宇宙であり、太陽が大日如来で表されるようなことに類似しているのかもしれない。こんなことを言うと、何だかどこかの振興宗教と勘違いされそうだが、これは事実である。こんな体験をした私は、何だか今まで52年の人生で自分が為してきたことが、ちっぽけでつまらないことのようにさえ感じてしまった。やれ政治がなんだ、社会がなんだ、と屁理屈をいっても、この大宇宙にくらべれば、人間の存在などちっぽけなものであるように感じるようになってしまったのだ。それでも一つだけ、解ったことは、人間にとって子孫を残すこと、そして、その延長線上での育児、これが人間の生きる意味であるということだ。

 この不思議な体験を通じ、もう一つ不思議なことを感覚的に私は捉えていた。捉えたというか、何故かそう強く感じ思うようになった。それは、地球の全てが太陽の影響を受けており、その地球に住まう我々人間も大きな影響を太陽より受けているということだ。そして、その太陽の影響が、今色々な形で地球に変化を与えようとしているというようなことを感じたのだ。そして、退院後、調べていくと、今太陽は11年周期の真っ只中にあり、しかも55年周期の真っ只中にあるということであった。また、本来太陽は11年周期で活動しているにもかかわらず、その周期に大きなズレが生じているということ。そして、そのズレにともない、地球上では色々な天変地異が起こっていること。気象変化が起こっていること。その全てが太陽の影響であるということ、これらのことを何故か理屈ではなく体で感じるようになった。

 本来今11年周期のピークは一昨年であったらしい。ところが、NASAは何度かの修正の末、最終的には2013年5月にピークが訪れると予測している。これは、11年周期ではなく、13年周期に変わったような事態だ。だが、歴史を繙いてみると、13年周期の時期が、過去にも太陽にはあったことがわかった。その13年周期が起こった過去の歴史からすると、13年周期の直後、太陽活動が70年程度の極小期に入り、地球は寒冷期になっていたことがわかった。それは1645年から1715年の70年間に起こったマウンダー極小期に酷似している。この時期、地球は寒冷期に入り、歴史を繙くとロンドンのテームズ川が凍り、世界中で寒冷で雨の多い時期を送っていたことがわかる。

 このまま、今11年周期が13年周期に移行すると、その後にはマウンダー極小期に酷似した寒冷期が地球を襲うのではないかと根拠はないが私は感じている。これらのことが、気象や地球の自然活動にとどまらず、人間の経済活動にも大きな影響を及ぼすことも、歴史を繙くと理解できる。私は、経済学者でもなく、天文学者でもない。だが、太陽活動に何等かの変化が起こっていることを、身体で何故か感じてならない。幸い、今日の金環日食をみていると、大きな黒点を三つ確認することができた。そのことが何を意味するかは、私にはわからない。だが、私たち人間は、太陽系に帰属する地球に生を受けている以上、もっと太陽に関心を持ち、生きていく必要があるように思う。そうすれば、解決できない原発の問題やシーオーツーの問題、オゾンホールの問題など、色々な問題を解く鍵もみつかるのではないかと、そんな風に最近思うようになった。

泳ぐように生きてみりゃ
2012年3月18日

気付いてみれば、
いつ頃からか、
泳ぐように生きていた
思い起こせば、
昔はやたら手足ばたつかせ、
波に逆らい、
流れに逆らい、
溺れてばかりの日々だった
気付いてみれば、
いつの間にやら、
波乗りよろしく、
寄せ来る波に身を任せ、
泳ぐように生きていた
気付けば何とも気が楽だ
慌てず焦らず手足を無駄に動かさず、
波と流れに身を任せ
自由気儘に
波乗りよろしく生きていた
無理に波に乗らずとも
波を追いかけ齷齪(あくせく)せずとも
大波来るのを待てばいい
沈まぬように身を任せ、
波乗りよろしく前進あるのみ
泳ぎを止めれば
波から落ちて海の底
押し返されれば海の塵
難しきことなどなにもない
我欲思惑嫉妬を捨てて
ただ寄せ来る波に身を任せ
流れにのるだけ
沈まぬように
休まず泳いで生きるだけ
一生懸命泳いで生きるだけ
それが人生
楽しい人生
どうせ一度の人生だから、
楽しく明るく生きましょう
泳ぐように、
波乗りするように、
自由気儘に生きましょう
気付けば水平線に夕日が沈む
大きな赤い夕焼け空に、
一度の人生託してみよう
青空、雨空、曇り空、
夕立、夕焼け、雨上がり
虹が掛かれば言うことなし
ハワイの浜が懐かしい
泳ぐ自分はちっぽけな
大海原と大空の
ちっぽけすぎる存在だ
それでも流れに身を任せ、
泳いでいれば
今に幸せやってくる
今に大波訪れる
伝説夢みて泳いでりゃ
恐れも悩みも何処へやら
波間に浮かぶ我が身かな
泳ぐように生きてみりゃ、
案外楽しい人生だ
案外素敵な人生だ
波乗り人生絶好調

最近感じた素敵と驚き

最近感じた素敵と驚き
2011年8月7日

最近感じた素敵。
complexのコンサート。
吉川と布袋、
素敵に年取ったな。
メチャクチャ格好良かったぜ。
マジいかしてた。

棘を折らず、
妥協もせず、
媚びることもなく、
それぞれの個性が、
いい意味でコラボしていた。
絶妙な距離間を保ちながら、
お互いの個性が、
舞台の上で全開。
交わるのではなく、
素敵な距離間で爆発し合っていた。
最高に格好良いパフォーマンスであり、
音楽であった。

それぞれが成長した。
ただ尖ってぶつかり合うのではなく、
かといって妥協し合うのでもなく、
交わるのでもなく、
お互いの存在を無視するのでもなく、
尊重しながらも、
それぞれの個性を舞台の上で
爆発させていた。

もしかすると、
結婚し、
子供を得た布袋の包容力の深さと、
色々な経験をして得た吉川の思い遣りの深さが、
ぶつかり合うのではなく
相乗効果という化学変化を起こしたのかもしれない。
今まで見た日本のミュージシャンのパフォーマンスとしては、
最高であったかもしれない。
本当に素敵だった。
正直、
身体の芯から痺れた。

布袋のギターテクと見せるギター、
最高だった。


もう一つの驚きは、
森善朗元総理のご子息の死。
亡父は森元総理と非常に仲が良かった。
亡くなったご子息にも、
一度だけ私も会ったことがあった。

何が驚いたかというと、
私が二年前に患った病とまったく同じ病で亡くなったことだ。
私が救急車で運ばれた時の状態と、
故森さんが救急車で運ばれた時の状態は、
まったく同じ。
私も、
最初に運ばれた病院で、
膵臓が発端で多臓器不全を起こしており、
五分五分の非常に危険な状態と言われた。
だが、
彼と私の運命を分かったことは、
私は防衛医大病院へ直ぐに転院させられ、
直ぐに内視鏡手術を受け一命を取り留めたが、
残念ながら彼が運ばれた石川県の病院には、
その技術をもった医者がいなかったことだ。
人の命とは儚い。
一寸先は闇だ。
私が患った時は49歳。
病院で50歳の誕生日を迎えた。
彼は47歳。
何が一寸先に起きるか、
誰もわからない。
ご冥福をお祈りする。
合掌。

アンジェラ・アキというシンガーソングライター
2011年6月25日

皆さんご存知のように、アンジェラ・アキというシンガーソングライターがいる。非常に素敵な女性だ。彼女は、シンガーソングライターという枠では括りきれない存在だ。1人の女性、1人の人間として、非常に大きな存在である。そして、そんな彼女を歌の世界へと導いたのは、アメリカであった。アメリカには、人の感受性を磨き輝かせる不思議な力がある。私は、そう思っている。

国立近代美術館で9月5日まで行われる印象派絵画展の宣伝で、テレビ番組が放送されていた。アンジェラ・アキが番組のホステス(進行役)を務め、番組を進行し絵画展を宣伝していた。

その番組の中で、彼女がシンガーソングライターになった経緯、日本でのメジャーデビューに至る経緯を語っていた。あれだけの歌唱力があり、あれだけ人の心を揺さぶる歌声と詩を紡ぐ彼女でさえ、10年間の下積みがあったという。ハーフであるということで、理不尽な差別を受け挫けそうになったこともあるという。それでも、挫けずに夢を叶えた彼女は言う。「明確な目標設定することで、夢をは必ず叶う」と。そして、「夢は叶えるためにある」とも言っていた。

初めて彼女の歌声を耳にしたのは、何年前であっただろうか。もう思い出せない。まだ、彼女がメジャーデビューする前であった。車の中で、手に入れた彼女のインディーズ・レーベル時代のCDを初めて掛けた時、非常に大きな衝撃を受けた。そのことは、今でもハッキリと記憶に残っている。涙が止まらず、車を運転することができなくなった。道端に路上駐車して、溢れる涙を止めることができずに、曲を何度も聞いたことを覚えている。彼女の歌声は、詩と共に心を揺すぶった。そのことは、今でもまったく変わらない。

私は思う。彼女は、ただのシンガーソングライターではない。もっともっと、大きな意味ある何かを持ってこの世に降り立ち、歌と詩という手段を通じて、心を詠う稀有な存在であると。誰も真似できない、天使のような存在だと。

そんな彼女が、昨年「ANSWER」というアルバムを発表した。その中の「卒業〜十五の君へ〜」という曲が、話題を呼んだ。同年代の若者たちが共感を覚えたのだろう。キッカケは、NHK全国学校音楽コンクールであった。そのアルバムに同包されたDVDの「手紙」ドキュメンタリー・バージョンに映し出されていた映像は、私の子供たちが通う学校のキャンパスの四季であった。非常に嬉しく思った。何故なら、私は父子家庭で、子供たちと肩を寄せ合って18年間生きてきた。常に心掛けてきたことは、「心で感じ、愛を忘れない」ということである。そして、子供たちが通う学校は、そのことを大切にし、押し付けではなく子供たちに沢山の選択肢を与えてくれる素敵な学校だ。

片親での18年間は、紆余曲折色々なことがあった。だが、辛かったことや、苦労など負の感情全てが、アンジェラ・アキの歌声のバックで流れる子供たちが通う学校のキャンパスの四季の映像を見ることで、跡形もなく流された。まるで、アンジェラ・アキから「頑張りました」という花丸を貰ったような嬉しい気分であった。彼女の歌声と詩は、何度聞いても涙が止まらなくなる。何故なら、彼女には愛が溢れていて、綺麗な心を持っているからであろう。だから、皆の心が、彼女の歌声を通じ共振するのだと、私は思っている。本当に素敵な女性である。これからも、ずっと素敵な詩を素敵な歌声で皆に伝え、世界中の人々の心を共振させて欲しい。ありがとう。感謝。

出会いと別れ、そして、人間には愛
2011年6月21日

思い起こしてみると、たった51年の人生だが、多くの出会いと別れがあった。どの出会いも、どの別れも、深く印象に残り、私の人生の彩となっている。中でも、最も大きな出会いは、両親との出会いであろう。そして、最も悲しむべき別離は、亡父との死別である。生前は、ぶつかり合うことも多かった。だが、亡くなってみると、その大きさに気付かされ、日に日に亡父への思いは募る。そうしながら、私自身、「男とは」ということを学んできたような気がする。

次に大きな出会いと別れは、アメリカ時代の日系二世Kiyoshi Mizuno(水野清)との出会いと死別だ。渡米して直ぐ、私たちは出会った。私が通った最初の大学の留学生担当者が、偶然ベシー・ホリタという日系二世であった。皆から怖がられている女性であった。両親のお陰で礼儀作法を厳格に育てられた私は、礼儀正くしくベシーにも接していた。そのお陰で、皆が怖がるベシーさんは、私のことを非常に気に入ってくれ、色々面倒うを見てくれた。キヨシを紹介してくれたのもこのベシーであった。彼女の口癖は、「日本からの留学生は、日本人の礼儀正しい良いところを忘れている」ということであった。確かに、納得できる言葉である。アメリカに憧れ、渡米している日本人留学生の多くが、ある意味勘違いしているところがあった。日本人でありながら、アメリカ人振っているとでも言うのか。そんなところが、ベシーさんたち日系二世の鼻についていたのかもしれない。だが、彼らは、そんな日本からの来た日本人のことも助けてくれた。日本人同士が足の引っ張りあいばかりしていたが、日系人たちは、そんな了見の狭いことは決してしない。どんな状況かでも、日本人を助けてくれた。ある意味、日系人の方々は、渡米された当時のままで時間が止まり、日本人が本来持っていたが忘却してしまっている仁義忠孝礼の精神を、大切に守り継承している。

キヨシのことは、「ビック・ブラザー」と呼んで、兄弟のようにしていた。彼は、加州住友バンクの最後はバイス・プレジデントまでになった。歳は、私の母と同い年だった。だが、気が合って兄弟のようにしていた。何故なら、彼は彼の死の二年前に亡くなられたお母様を守り、ずっと独身を続けていたからだ。元々はシアトルの出身で、兄弟はシアトルのボーイング社で飛行機のエンジニアをしていた。他の兄弟姉妹は、ロスにいたようだ。そんな訳で、歳は離れていたが、彼は未だ青春の真っ只中で、私と気が合ったというわけだ。しかし、思い返してみると、彼はそういう風に振る舞い、私に気を遣わせないようにして、私の面倒を見てくれていたのだなと今は思っている。

彼は、日系人二世。彼の親は、名古屋からシアトルに移民したそうだ。そんな訳で、名古屋に今でもお母様のご兄弟姉妹がおり、2~3年に一度、お母様を伴って里帰りされていた。勿論、彼は戦争中マンザナ・キャンプ(日系人収容所)にいた。そして、親兄弟を守るために、忠誠書にサインをし、志願して軍隊に入った。終戦と同時に、通訳として日本に赴任していたと言っていた。キャンプのことや、戦争中のことに関しては、口が重かったのだが、私にはポロポロと色々話してくれた。貧しく、辛く、ひもじい時を過ごしていたようで、一緒にメキシカン料理を食べに行くと、いつもその頃のことを話してくれた。白いご飯なんか食べられず、藁のようなタマリが主食だったという話から、キャンプでの話をよくしてくれた。

彼らの中には、日系人の信頼をアメリカ社会の中でも確立しなければという意識が強かったようで、その気持ちが日系人442部隊を最強で最も信頼できる部隊にまで押し上げたようだ。そんな彼らの強い思いと、背水の陣で、「Go for broke」を合言葉に、ヨーロッパ戦線で窮地に陥ったテキサス連隊救出作戦を成功させ、アメリカ社会での信用を勝ち取った。勝ち取ったとは言っても、全てのアメリカ人が彼ら日系人を認めていた訳ではなく、差別は続いていた。だが、彼らは、差別を差別として口にだすことはなく、兎に角、直向きに、一生懸命汗水を流し、信用を一つ一つ積み上げていた。本当に頭の下がる思いで一杯だ。私の人生の中で、亡父とMr. Mizunoは、最も尊敬に値する存在である。このことは、永遠に変わらないだろう。キヨシは、私に、特別なことをするのではなく、一生懸命、地に足を付け、一歩一歩歩みを進めることの大切さを身をもって教えてくれた。感謝しても、しきれない思いで一杯だ。そんなキヨシは、私の家族と一緒にクリスマスを過ごした直後、自宅でひっそりと息を引き取っていた。正月明けから、人工透析が始まることになっていた。ところが、間に合わなかったのだ。生牡蠣を食べたのが、悪かったのではと今でも後悔している。

次に大きな別れは、やはり妻との離婚であろう。子供たちのことを考えると、この罪の重さからは、一緒に死ぬまで逃れることはできないと思っている。勿論、子供たちは素直に育ってくれており、そのことで私を責めるようなことはない。だが、私の中では、この罪は非常に大きいと思っている。子供たちへ対しても、別れた妻に対しても、理由はどうあれ、男の私が全てを受け止めるべきであったと、今は深く反省いしている。結局は、男として私自身が青かったということだ。

順序は付けられないが、三番目に今回別離した、10年付き合った韓国人ガールフレンドとの別れが上がる。今回の震災や儒教の問題などが複雑に絡まり、私の思いだけではどうにもならない。しかも、今は日本にいない。遠いオーストラリアでは、どうにもしようがない。昔なら、オーストラリアだろうがどこだろうが、飛んでいったであろうが、今そこまでの力も気力もない。結局は、双方の愛が足りなかったのであろう。まあ、このことは、まだ湯気がでている状態なので、この場で語ることは控える。

次は、母方の叔母との死別だ。この叔母は、キヨシと同じく祖母を最期まで結婚せず守ってくれた叔母だ。だが、何があったかは知らないが、母たち姉妹はこの叔母が亡くなるまで縁を切っていた。最期は餓死のような状態で亡くなったらしい。心が痛む。何もできなかった私の罪は、これまた一生拭えないであろう。子供の頃、一番仲良くしていた叔母だけに、心が非常に痛む。例え何があろうとも、血を分けた姉妹ではないか。私には理解できない。亡父は、密かにこの叔母の面倒をみていたようだ。だが、亡父が亡くなり、叔母は兵糧攻めにあったような状態で旅立った。本当に申し訳ない。

まだまだ多くの出会いと別れがある。だが、若くして癌に倒れた、アメリカ時代の友人、日系三世のボブとの死別が次に入るであろう。ある日突然、私よりも若いボブから「もうこれが最後になると思う」と電話が入った。若かったので大腸癌から全身への転移も早く、どうしようもない状態だと彼は打ち明けた。まだ、子供が小さかった。だが、彼は言った。「手術を何回かしたが、もう楽になりたい。次の手術は拒絶する。だから、これが最期のお別れだ」と。彼は、ロックンローラーらしく潔かった。葬式でも、大好きなローリングストンーンズが流されていた。随分と働きかけたが、彼と一番仲が良かった友2人は、葬式に来なかった。無理矢理にでも連れてくるべきであった。悔いが残る。

いくつかの出会いと別れを、ここに記載したが、結局のところ、「人間には愛」これしかないという結論に、私なりに至った。まだまだ、多くの出会いと別れが、今後も私の人生で続くのであろう。だが、これが人間の宿命なのかもしれない。そんな風に思う、今日この頃である。

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