政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

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ジャネット・ジャクソンの素顔
2008年4月10日

 現在、私が編集長をさせてもらっている会社が経営するダンス・スタジオに、昨晩ジャネット・ジャクソンがやってきた。担当する広告代理店クオラスは、弊社のメイン担当代理店でもあり、1ヶ月前位より先方の音源局というわれる部署の担当者と弊社の担当者とかなり神経質に綿密な打ち合わせが繰り返されていた。ところが、昨晩、ジャネット・ジャクソンの素顔に接してみれば、非常にシャイで、繊細で、素敵な女性であった。彼女を取り巻くスタッフ達も、アット・ホームな感じで非常に好感を持てる人々であった。やはり、世界のスーパースターともなると、本人達の意思に関わらず勝手にキャラクターが作り上げられ一人歩きしてしまうのだな、と実感させられた夜であった。兎に角、ジャネット・ジャクソンは、魅力的で素敵で可愛らしい女性でした。

江藤慎一先生逝去

江藤慎一先生急逝
2008年3月1日

 先日、親しくさせて頂いていた百瀬博教先生が急逝したばかりなのに、またも親しくさせて頂いていた江藤慎一先生が急逝されてしまった。私の結婚式の司会などもしてもらい、やはり親しくさせて頂いていた日本テレビの鈴木君江さんが昨年急逝されて以来、木原美知子先生、百瀬博教先生、そして、今度は江藤慎一先生が亡くなられてしまった。それ以外にも、昨今親戚や知人が多く亡くなっている。年齢的なこともあるのかもしれない。遡って考えれば、5年前に亡父が他界して以来、続いていることのような気もする。

 江藤先生とは、随分長いお付き合いであった。亡父と江藤先生が非常に親しくしていた関係で、私は、それこそ若年の頃からのお付き合いだ。数年前に脳梗塞をやられた後、「直ぐに会いたいから来てくれる?」という電話を貰った。相変わらず傍若無人な様子で、江藤先生がご指定された待ち合わせ場所であった、戸越銀座の踏み切り近くの喫茶店二階に杖をつきながらやってこられた。その生命力と気力みなぎる勢いには驚かされた。最後にお目に掛かったのは、多分、あの時であろう。その直後より、パッタリ連絡が取れなくなってしまった。心配していた。そして、今回の訃報である。

 それこそ、もう30年以上のお付き合いであった。色々なことがあった。江藤先生との想い出は沢山ある。球界を引退されてからは、伊豆の踊り子で有名な伊豆天城で少年野球のチームを運営されていた。野球を通じて、色々な問題を抱えた子供達を更正させるのだ、といわれ情熱を傾けられていた。声も大きく、勢いも凄い方だった。天城には、立派な野球場を構え、それこそ今ではすっかりポピュラーになってしまった温泉による足湯などの施設も併設されたりしていたことが、いつも前向きな江藤先生らしく印象に残っている。

 また、ある日、「物凄く良い土地があるんですよ。野球塾をやるには、最適な土地なので、一度見にきてくれない」と突然いわれ案内されたことがあった。「いや、最高の場所でね」と言いながら、車を降りた江藤先生は足取りも軽く歩きだされた。私達も江藤先生の後に続いた。ところが、なかなか目的地に着かない。それこそ、獣道のようなところを掻き分け、いつ猪や熊に襲われてもおかしくないというような山を登った。皆、汗をダラダラ流し、背広も革靴はボロボロであった。まさか山を登らされるとは思ってもいなかった。それでも山頂につくと、山頂からは伊豆が一望できた。確かに素晴らしいところであった。だが、ここに野球塾を作るには、まず道を作って、水をひかなければと進言すると江藤先生は、「道も水もないからいいんだよ。1からのスタートだよ」と言って伊豆天城中に木霊すのではないかというほどの大声で笑っていらっしゃった。何とも豪放磊落な方であった。

 また一人、昭和を駆け抜け、昭和の彩りであった素敵な人が天に召されてしまった。ご冥福をお祈り致します。合掌

三浦和義逮捕の真相

三浦和義逮捕の真相
2008年2月24日

 三浦和義逮捕のニュースが、緊急速報として流れた。多くの人は、狐に摘まれた思いであったに違いない。日本では、既に裁判も終わり、三浦和義氏の無罪が確定している事件である。「何故今?」というのが、多くの日本人の感想であろう。確かに、日本ではもう決着のついた事件である。しかし、アメリカ合衆国カリフォルニア州では、殺人事件に時効はない。しかも、三浦氏が逮捕されたサイパンは、アメリカの自治領である。法的には、何の問題もない逮捕劇である。

 問題は、何故25年以上も経った今なのか、ということだ。誰もが、興味津々である。私に、刑期を終えた三浦和義氏を紹介してくれた高須基仁氏のところには、昨日、今日と取材人が殺到している。携帯電話も繋がらない。三浦氏と夫人執筆による単行本を、高須氏の出版社で出版するほどの間柄であったからだ。やっと繋がった電話の向こうで、高須氏がテンヤワンヤの大騒ぎに巻き込まれている様子が伝わってきた。

 まだ、その真相は闇の中である。警察やマスコミも、まだ真相を掴んでいない。兎に角、アメリカでの出来事。さすがの彼らも、いつものようには情報収集が儘ならないないようだ。

 アメリカの司法関係者からの独自の情報によると、どうも三浦事件だけではなく、実行犯が複数の殺人事件に関わっている可能性が高い。その実行犯が、逮捕されたことによって、三浦事件を含め、ロスで起きた複数の事件を解決へ導こうというのが、ロス市警の狙いであるようだ。逮捕された実行犯による自白があり、三浦氏逮捕ということになった、と考えるのが自然であろう。しかし、厳しい緘口令が現在敷かれているので、今はこれだけしか申し上げられない。
「百瀬博教を偲ぶ会〜永遠の不良ノート〜」
2008年2月20日

 故百瀬博教先生を偲ぶ会が、昨日午後12時より2時まで、青山葬儀所でしめやかに行われた。派手すぎず、百瀬先生らしい渋くて格好の良い葬儀であった。中央祭壇には、花に囲まれ斜に構えた在りし日の百瀬先生のモノクローム写真が飾られていた。その両側には、大きな液晶テレビジョンが花の中に設置され、思い出深い百瀬先生の映像が流され続けていた。幼少期から晩年までの色々な写真は、非常に興味深いものばかりであった。故石原裕次郎や石原慎太郎をはじめ、故力道山、長島茂男、アントニオ猪木ほか各界著名人達との思い出のショットが次から次へと放映されていた。格好よく、ちょっとオチャメで、どこか寂しげな一面も覗かせる百瀬先生は、永遠のガキ大将だったのかもしれない。そんな風にあらためて思った。

 百瀬先生からは、色々なことを学ばせて頂いた。言葉にも、形にもならない、貴重なモノばかりだ。特別、言動で教えられたわけではない。ご一緒させて頂く度に、百瀬先生の立ち居振る舞いの全てから、「男とは」「男として」「男なら」ということを伝授して頂いたように思う。今思い起こすと、懐かしい思い出ばかりだ。祭壇で斜に構えたお洒落な百瀬先生の遺影を見つめていたら、そんな懐かしい思い出が、まるでコマ送りの活劇のように蘇ってきた。一輪のアイボリーの菊を遺影前に手向けた私は、手を合わせ「色々ご伝授頂き、ありがとうございました。感謝しております。ずっとずっと先生のことは忘れません。さようなら」と声を掛けさせて頂いた。私の胸は熱くなり、涙が込み上げ零れそうになった。その刹那、私は百瀬先生の気配を感じた。「男なら、涙を溢したら格好わるいぞ」と叱咤激励されたような気がした。私は、涙を零すことを堪えた。そんな思いを背負いながら深く一礼し、最後のお別れをした私は、発起人の方々が居並ぶ方へと歩を進めた。

 歳の所為か、昨今葬儀に参列することが多くなった。嬉しくないことである。変に心を乱さぬような癖がついたのか、皆黒い喪服を着装されているからか、斎場が薄暗いからか、その理由はわからない。だが、葬儀の際、親しい間柄の方と擦れ違っても気付かぬことが多い。歳はとりたくないものだ。

 百瀬先生が親しくされていた方々が、マガジンハウスの木滑氏を先頭に、イラストレーターの安西水丸さん、花田編集長、アルファキュービックの柴田会長、バーニングの周防社長、田辺エージェンシーの田辺社長、イーストの富永社長、エイベックスの松浦社長、周防監督など発起人として会葬者を送り出すため居並んでおられた。頭を下げながら進んだ私は、顔見知りの方々にも気付かず外へと導かれた。後で連れに、誰と誰がいた、と言われるまで気付かない痴態を演じてしまった。百瀬先生がご存命ならば、お叱りを受けるところであった。お詫び申し上げる。

 もうこれ以上、無駄な言葉はいらない。本当に素敵な人が逝ってしまった。兎に角、心底よりご冥福をお祈り致します。ありがとうございました。合掌
作家の百瀬博教先生が急逝
2008年2月3日

 昨今、何故か親しい方々が急逝されることが多い。昨年は、やはり昔随分と親しくさせて頂いていた木原光知子先生が急逝され驚かされた。このような状況下、記事を書くか否か随分と迷った。しかし、やはり書かせて頂くことにした。それが故人へ対しての、何よりの弔いになるような気がしたからだ。

 丁度一週間前の1月27日日曜日午後3時半過ぎ、作家の百瀬博教先生が急逝された。同日、午前2時半頃、自宅湯船で意識を失っている百瀬先生を発見した知人の119番通報で病院に搬送された。だが、治療の甲斐もなく他界されたということだ。そのニュースが、翌28日一部中央紙や夕刊紙、そして、地方紙を中心に流れた。突然の訃報であった。

 百瀬先生とは、色々な思い出がある。ここ暫くは、少々お互いに距離をおいていた。しかし、2年ほど前までは、出版プロデューサーの高須基仁氏と共に随分と可愛がってもらっていた。私と高須氏の間で、金銭貸借に関する裁判等が勃発したりしたこともあり、最近は少々ご無沙汰を重ねてしまっていた。

 一言で百瀬先生のことを表現すれば、「オチャメな人」ではないかと私は思う。こんな言い方をしたら、百瀬先生に失礼ではあるが、私の目にはそんな風に映っていた。

 ご尊父は、柳橋の侠客百瀬梅太郎親分だ、と仰っていた。百瀬梅太郎親分といえば、無名時代の力道山などを面倒みていたことで知られる親分である。昔は、新橋辺りを縄張りにしていたが、何かの理由により柳橋へ移ったというようなことを説明していらっしゃったように記憶する。勿論、百瀬先生は、侠客ではなかった。しかし、その名残で、鳥越祭では、百瀬組のハッピを纏い、全身に刺青を入れた若衆に囲まれ、多くの芸能人や文化人を招き、祭りを盛り上げていた。秋元康氏をはじめ、安西水丸氏、見城徹氏、木滑良久氏、花田紀凱氏などは、常連でいつも顔を見せていた。

 私と百瀬先生の出会いは、随分前になる。弊社の先代の紹介であった。弊社では、毎年、今はなき東急キャピタル・ホテルやホテル・ニューオータニで、政財界や芸能関係者を招待し、1000人近くの人々が集う盛大なパーティーを催していた。その席に、いつも同じキャップを被った威勢のいい大男がいた。それが百瀬博教先生であった。パーティーの出し物である神輿や矢切などを仕切っておられた。雑誌創刊何周年か会社設立何周年かで、例年になく盛大なパーティーが催された年、そのパーティーの席で、俳優の安岡力也氏を従えた百瀬先生を、我が社の先代が私に紹介してくれた。滅茶苦茶明るくてナイスな人、というのが私の第一印象であった。それから、随分と可愛がってもらうようになった。百瀬先生の青山のペント・ハウスに伺わない週はないぐらい、一時は頻繁に先生宅を訪れていた。

 兎に角、物凄い蔵書である。よく床が抜けないな、と思うほどの本の数だ。それと、色々な珍しいコレクターズ・アイテムが家中に点在していた。コレクターが見たら、涎を垂らすに違いない。その種類も数も、半端ではなかった。中でも、スノードームの数は、群を抜いていた。スノードームのコレクターとして、百瀬先生は知る人ぞ知る世界的な第一人者であった。

 それだけではない、色々なモノが沢山あった。私が一番感激したのは、やはり石原裕次郎関連のグッズと、力道山関連のグッズであった。弊社で写真集をだそうという話があったので、隈なく見せて頂いた。兎に角、数も凄いが、その内容が凄かった。ただのコレクションではなく、それらのコレクションには、百瀬先生と石原裕次郎、そして、百瀬先生と力道山の歴史が刻まれているようなモノばかりであった。両者と百瀬先生の絆の深さを感じさせる貴重なアイテムばかりであった。

 百瀬邸に、所狭し、と点在する膨大な数のコレクターズ・アイテムは、それ自身が、「百瀬博教」という男を表現しているように私には思えた。何とも、素敵な感じであった。特別な装飾がされているわけではない。雑然とあちらこちらに置かれているだけである。ところが、それぞれのアイテムが、ちゃんと主張していた。何とも、可愛くて、格好よく、素敵なのである。そして、百瀬先生自体、「素敵」という言葉が大好きであった。そんなところにも、百瀬先生の繊細な感性を私は感じていた。

 百瀬先生の格好良さは、前述したような繊細さやオチャメな一面が、彼のキャラクターでありながら、実は非常に侠気(おとこぎ)が強く、仁義忠孝礼を重んじる昔気質(むかしかたぎ)な部分を併せ持つギャップであったように、私は思っている。少なくとも、私は、百瀬先生のそんなところが、凄く好きであったし、格好良くも思っていた。自分も、あんな風に在りたいな、と思っていた。

 ある意味、その昔気質(むかしかたぎ)な部分は、周囲の人間達からは強面な部分と受け止められていたのかもしれない。しかし、それは、百瀬先生自身が、上手く使い分けていたに違いない。そのバランスによって、人々を惹き寄せていたと私は思っている。その辺のバランス感覚も、非常に繊細で優れていた人のように思う。ただ、そんな強面な一面を持ちながら、あれほど用心深く慎重な人を、私は他に知らない。玄関の扉に取り付けられた内鍵の多さには、誰もが驚かされたはずである。内側からしか、施錠できない鍵が少なくとも10個はあった。在宅時は、その全てを必ず施錠していた。また、電話も、ファックスしかできない。ファックス後、百瀬先生の方から電話があるというのが唯一許されたパターンであった。例外として、直接電話をさせてもらうこともあったが、ごく限られた人々だけに許されていたことであったように思う。

 芸能界や出版界、そして、マスコミというのは、ある意味、綱渡り産業である。表の顔と裏の顔を上手に使い分け、奈落の底には落ちぬようバランスを取りながら綱の上を巧みに渡っているような業種である。そんな業界の微妙な隙間を上手に縫って、独特な居場所を確立した百瀬先生は、独自の百瀬人脈を作り上げ、百瀬流を通していた。来る者は拒まず、去るものは追わず。だが、そこにはちゃんと、百瀬先生なりの基軸が存在していた。それも、多分、百瀬先生自身の感性によるところが大きかったように思う。唯一弱点は、名声に少々弱かったというところかもしれない。有名人が好きであったし、有名人は優先されていた。

 百瀬先生は、人を喜ばすことが好きであった。私は、そんな風に思っている。私も、大分ご馳走になった。何気ないのだが、そのご馳走のしてくれかたも凄くお洒落であった。それなりのコダワリがあり、何とも素敵であった。そして、その作法も、やはりオチャメで格好良かった。当然、連れて行ってくれる店にも、コダワリがあったようだ。そして、必ず、何処へ行っても百瀬先生は人気者であった。人を分け隔てせず、気さくに誰とでも接する、百瀬先生の人徳を垣間見ることができた。ただ、中々策士な部分もあった。人と人を無闇に混ぜ合わせることはしなかった。ちゃんと、全て彼の頭の中で考え、仕切って、先を考えて人と人を結び付けていたように私は感じている。

 最後に、百瀬先生のトレード・マークといえば、ご承知の通り、やはり「Forever young at heart」と刺繍されたキャップである。先生は、いつでもあのキャップを被っていた。人前で、あのキャップを脱ぐことはなかった。誰もが、あのキャップの内側を見てみたいと思っていたに違いない。多分、キャップの内側を目撃している人間は、そう多くないはずだ。光栄にも、私と高須基仁氏は、その数少ない人間である。元々非常に仲良くしていた私と高須氏の間で勃発したトラブルを解決してくださろうと、奔走してくださった時のことであったように記憶している。作家の大下英治氏に紹介され以前より高須氏のことは知っていた。だが、それほど親しくもなかった。しかし、百瀬先生の紹介で高須氏と再会し、先生の指示で急接近したという経緯があった。そんなこともあり、百瀬先生も、二人の間の問題には、頭を悩ませて下さっていた。見方を変えれば、二人の前で帽子を脱いだということは、そこまでしても私と高須氏の二人を仲直りさせたかったのかもしれない。そんな百瀬先生の気も知らず、二人に気を許してくださっていたのだな、と私は勝手に喜んでいた。だが、その実、先生としては、いい加減、呆れ果ててキャップを脱いだ、という意味であったのかもしれない。いずれにしても、帽子の中身に関しては、永久に封印することとする。それが、百瀬先生への礼儀であると、私は思っている。それぐらいしか、百瀬先生が他界してしまった今となっては、百瀬先生へ対してできることはない。謹んでご冥福をお祈りする。合掌

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