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般若心経 2008年1月25日 「般若心経」を唱えている日本人は、非常に多い。宗派別で言うと、天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗などが、「般若心経」を唱えている。しかし、それだけではなく、「般若心経」は、広く一般にも親しまれている。多分、数ある仏教の「経」の中で、最も広く人々に認知されている「経」が、「般若心経」であろう。だが、その意味まで、理解している人となると、ぐっとその数は少なくなる。 一言でいってしまえば、「般若心経」とは「無」の教えである。解りやすく一言でいえば、そういうことになる。しかし、それでは、「無」とはどういう意味なのか、ということになる。簡単に「無」といっても、その意味を理解している人は少ないはずだ。多分、昨今、僧侶の中にも、意味を知らずにいる僧侶が多いのではないか。理解していても、実践できずにいる僧侶も多いように思う。 禅の世界でも、よく「無」とか「無の境地」とかいう。禅宗でいう悟りの境地とは、「無」を体得することである。「般若心経」が説いている「無」ということと、意味は同じであると考えて差し支えない。人によって、解釈のし方、捉え方も、当然のことながら十人十色違ってくる。したがて、解釈に多少の誤差は出るであろう。どれが正しい、どれが間違っているということはない。だが、お釈迦様が説こうとされていた「無」の意味は、一言でいえば「囚われない心」ということである。私は、そう思っている。 読んで字の如く、「囚われた心」とは、「人」が「口」のなかに囲い込まれ呪縛を受けているという意味である。このように心が何かに囚われていれば、悩みも、苦しみも多くなる。だから、心を呪縛から解く努力、即ち「囚われない心」を心掛けることが、人にとっての幸せの近道であり悟りなのだ、とお釈迦様は説いていたのであろう。 心が囚われるとは、例えば、お金に執着したり、異性に執着したり、物に執着したり、名誉に執着したり、色々な人により創造された物へ執着するということだ。それこそが、「煩悩」である。人には「108つの煩悩」がある、と仏教ではいわれている。よって、その厄を落とすために、大晦日には108回鐘を撞く。衆生の心身を煩わせ悩ませる一切の妄念、それが「煩悩」である。その煩悩を、鐘を撞くことによって断ち切るというのが、「除夜の鐘」の意味だ。それらの「煩悩」を断ち切ることによって、「無」の境地に至ることができ、囚われない自由な心を得ることができる。それこそが、人にとっての幸せということなのだ、とお釈迦様は説かれた。私は、そう信じている。 スポーツを極めた選手や武道を極めた師範、技能を極めた匠など、あらゆることを極めた人々は、黙々と修行を積むことで、それぞれ道は違っても、一心不乱に集中して打ち込み無心になり、「囚われない心」を得て、「無」を悟った人々である。禅宗では、座禅をして「無」の境地を極めようとしている。何かに対して無心に打ち込むということが、「無」を悟る一番の近道であり極意なのだ。 嘗て、ネパールという国に行った時、私はこんな経験をした。ネパールは、世界191カ国の内で、経済的には一番か二番目に貧しい国である。首都カトマンズとかポカラという一部の大都市を除いて、何処へいっても国中貧しさが溢れている。大都市のカトマンズやポカラでさえ、日本と比較すれば、戦後の瓦礫の山に埋もれた日本とさほど変わらない有様だ。人々の出で立ちを見ても、そのことは一目瞭然である。 ネパールに行って、一番驚かされたことは、やはりヒマラヤ山脈の雄大さだ。ネパールは、「神々の宿る国」と呼ばれている。そのことは、あの雄大なヒマラヤの山々を目の当たりにすれば、直ぐに理解できる。ネパールにとっての、何よりの宝だ。だが、実際にネパールに行って見ると、何故ネパールが「神々の宿る国」と呼ばれるか、その本当の意味を知ることができる。それは、単にヒマラヤ山脈が雄大だからではない。 前述したように、ネパールは非常に貧しい国だ。だが、不思議と人々の目は、キラキラと輝いている。特に、子供達の目は、日本人の子供達と比較にならぬほどキラキラと輝いている。出で立ちは、まるで戦後直ぐの日本に溢れていた浮浪児のようである。しかし、子供達の目は輝き、よく笑う。真っ白い歯をむき出して屈託なく笑う。 何故、物質文明を謳歌し、モノが溢れている経済大国日本の子供達の瞳よりも、モノがなく貧しさが満ち溢れているネパールの子供達の瞳の方が輝いているのか? 答えは直ぐにわかった。それは、彼らが易しく生きているからだ。「易しく生きる」とは、どういうことか? それこそが、「囚われずに生きる」即ち「囚われない心」を持って生きるということなのだ。何も、彼らが「囚われない心」を得るために、大変な修行をした訳ではない。毎日、「経」を唱えているわけでもない。それでは何故、彼らは「囚われない心」を育み、「易しい生き方」をすることができているのであろうか。答えは、簡単だ。彼らには、選択肢がないのだ。選ぶ自由がないのである。貧しいが故に、モノの種類が豊富でない。 例えば、鉛筆が欲しいと思えば、一種類の鉛筆しかない。日本のように、トンボの鉛筆があったり、三菱の鉛筆があったり、キャラクターがプリントされた鉛筆があったり、シャープペンシルがあったりして、どれにしようかと心を悩ます必要もない。よって、悩むことも、迷うこともない。悲しくなる必要もない。ただ、欲しくとも、手に入れられないという究極の悲しみはある。だが、それは彼ら自身が、貧困という環境を享受して生きているので、物に翻弄されている日本人のような、贅沢からくる悩みや悲しみを感じることはない。現実を把握し、実在する物で満足する、という術を自然に身に付けている。そんな彼らの幸せは、贅沢を知らないことだ。知らないが故の幸せなのだ。鉛筆といえば、一種類しか知らない。だから不自由も感じない。他の種類が欲しいなどという欲も起こらない。一種類しかないのだから。 もし、彼らが、可愛い鉛筆を知れば、それは我々と同じ人間である。可愛い鉛筆が欲しいと思うはずだ。そうなれば、そこに悩みや悲しみが生まれる。鉛筆に限らずどんな物でも、同じことが言える。知らない幸せこそが、「易しい生き方」の極意であり、「囚われない心」を育む唯一の道である。そして、それが、お釈迦様が説かれた、「無」の境地ということだ。このことが、「神々が宿る国」とネパールが呼ばれる所以だ。私は、ヒマラヤ山脈の雄大さに圧倒されつつ、そんなことをネパールへの旅で実感させられた。 正に、このネパールの人々の生き方、即ち「易しく生きる」ということが「囚われない心」ということであり、「無」の境地。現世に存在する、「般若心経」が説いているような世界なのかもしれない。私は、そんな風に思った。特別なことではない。無心になり、一生懸命坦々と生きることこそが、「般若心経」の意味であり極意なのだ。 凱風
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小さな命 2007年1月10日 我が家では、昨年の夏初めより、クワガタを何匹か飼育していた。そのキッカケは、娘が、夏休みの課題で虫の身体の仕組みを観察し、標本もしくは写真や絵で描いて二学期に提出という宿題があったからだ。 長男は、友達と自転車で北海道旅行ということで、夏休みに入ったと同時に、分解した自転車を担いで、上野発の北斗星1号という夜行列車に乗って北海道へいってしまった。都会のどこでクワガタをみつけたらよいのか、訊く暇もなく息子が出掛けてしまったので、娘と二人で、頭を悩ませた。何故か、クワガタを観察すると決めた娘に、「クワガタいないからゴキブリでは?」と冗談をいったら、冗談が通じずえらく怒られた。 そうこうしている内に、二学期に裁縫の時間でブラウスを二枚作るということで、その布を選び買いたいということになり、祖母に同行してもらい蒲田駅前のユザワヤへ娘と出掛けることになった。ユザワヤで無事布を買った後、ふと気付くとユザワヤでは、布屋さんであるにもかかわらず花や植木までも売っていた。祖母が、花を買って帰るということになり、花を選びだした。そうこうする内に、「もしや、ここでクワガタも売っているのでは」と私は何故か思いついた。一か八かで、店員さんに、「まさかクワガタは売っていないですよね?」と訊ねてみた。みると驚くことに、「クワガタは、6階の玩具売り場で売っております」という答えが返ってきた。私は、二度驚かされた。まず、布屋さんでクワガタが売っていることに。そして、クワガタが玩具売り場で売られていることにも。 娘を連れて、すぐさま6階の玩具売り場に駆け上がった。6階に着いた私と娘は、モデルガン売り場横のロボット玩具売り場の片隅で売られている、小さなプラスチック製の水槽のような虫ケースをみつけた。中を覗き込んでみると、黄緑色の蓋の小さな虫ケースの中には、少しだけ土が入っていた。その狭い虫ケースは、セルロイドの薄い板で、真ん中の所が仕切られていた。そして、その仕切られた両側に、可愛いノコギリ・クワガタが入れられていた。あまりにも狭すぎて、2匹のノコギリ・クワガタは、それぞれその場で回転して方向転換することしかできないほどであった。 娘は、6ケースほど展示されている虫ケースの一つずつを一生懸命観察し、どのクワガタにするかを選んでいた。「こっちのこれと、あっちのこれがいいけど困ったな」と呟きながら物色している娘を見た私は、店員さんに訊ねてみた。「好みのクワガタと入れ替えて買ってもいいですか?」と。すると、その粋な店員さんは、「相性があるでしょうから、いいですよ」と快く答えてくれた。娘は、嬉しそうに気に入った1匹を選び、1つの虫ケースへ入れ替え、レジへ持っていった。以来、我が家では、クワガタ君達との共同生活が始まった。 クワガタ達と共に帰宅した娘は、まず記念撮影と言って写真を大量に撮っていた。そして、宿題で必要な観察を始めた。そんなこんなで、我が家の夏休みは始まった。二匹のノコギリ・クワガタは元気であった。毎日観察していると、クワガタにもそれぞれ性格があることがわかった。片方は、あまり激しく動かない。まるで、陸イグアナのようだ。しかし、いざとなるとえらく力持ちで、喧嘩も滅法強い。もう1匹の方は、休む暇なく、四六時中動き回っている。兎に角、チョコマカ動き回っていて、隙あらば逃げ出そうという意欲満々である。だが、喧嘩は至って弱い。最初から逃げ腰で、直ぐに投げ飛ばされてしまう。「触らぬ神に祟りなし」とばかりに喧嘩を避け、無駄な摩擦を起こさぬように逃げ出してしまう。 そんな2匹のクワガタ達の様子を毎日観察していると、いつの間にか何だか情が移ってしまった。四六時中気になって仕方がない。年がら年中、虫ケースを覗き込む。そうこうしている内に、どうも彼らの居住環境が気になりだした。もう少し、広いところに入れてやらなければ、可愛そうだなということになり、二周りほど大きい虫ケースを買ってきて入れ替えた。しかし、その後、2匹で一緒だと喧嘩をしたり、エサの取り合いをしたりしてしまうし、やはり狭すぎるような思いに駆られ、結局、一番大きな虫ケースを購入し引越ししてもらった。だが、暫くすると、2匹の喧嘩が絶えなくなったため、結局別々の虫ケースに再度引越ししてもらった。クワガタ様、様である。 話が前後するが、息子が北海道から帰ってくると、夏当番で学校へ出掛けた息子が、キャンパス内のクヌギの木の根元から、数匹のコクワガタを見つけて連れ帰ってきた。3匹のオスと1匹のメスであった。最初は、4匹一緒に狭い虫ケースに入れていたが、どうも緊張感がただよってきて、こちらもオチオチ寝ていられぬ。そこで、可愛そうだが、勝手に一番大きく強そうなコクワガタとメスを夫婦にして、一番大きな虫ケースへ移した。娘が、1匹ずつでは寂しそうで可愛そうだというので、当初、残りの2匹のオスを少し広めの虫ケースに一緒に入れていた。しかし、やはり緊張感が絶えないので、結局、残った2匹のオスも、別々の虫ケースに移ってもらうことにした。これで、ノコギリ用の2つの大きな虫ケース、コクワガタ夫婦用の大きな虫ケース1つ、そして、コクワガタのオス用の中型虫ケースが2つ、計6匹のクワガタと5つの虫ケースが家族の仲間入りをした。以来、旅行に行く時も、クワガタ達も一緒に連れて行くことになった。 そんなクワガタ達との生活も、二学期が始まり、娘が寮に戻ると、家の片隅へと追いやられていった。別に追いやったわけではないのだが、秋が深まり寒さが日に日に増していくと、いくら家の中に虫ケースを置いていても、朝晩の冷え込みが窓越しにクワガタ達を直撃した。なので、外からは離れた所へ移動したのだ。それでも、10月下旬から11月上旬頃までは、皆元気にしていた。ところが、11月に入って直ぐ、ノコギリ・クワガタの1匹の動きが俄かにおかしくなった。えらくスローモーで、どうも半身不随のような動きをしている。自分の足が自分の足に絡まるような動きをしていた。それから数日後、気付くとその1匹は動かなくなっていた。最初のころ茶色かったノコギリ達も、大分黒光りし大きく成長していた。しかし、また、最初の頃のように茶色く小さくなって帰らぬノコギリ・クワガタになっていた。私は、思わず手を合わせた。週末娘が帰宅するのを待って、住んでいた虫ケースの土や愛用の切り株と一緒に、自宅マンション敷地内の土に埋めてやった。すると、娘の帰りを待っていたかのように、元気だったもう1匹も、急に動きが鈍くなり、アッと言う間に相方の後を追って逝ってしまった。結局、1日違いで、側に埋めてやった。別々の虫ケースに入れていても、最初は一緒にいて、いつも隣り合わせていた仲間が逝ってしまったことで、生きる気力を失ったのか、寿命なのかノコギリの2匹は天国へ召されてしまった。 コクワガタの4匹は、どういうわけやらえらく元気であった。寒さをものともせずに、相変わらず動き回っていた。いや、夏ほど活発には動いてはいなかった。だが、まだまだ俊敏で元気であった。夫婦のところでは、子供が生まれているのでは、と切り株を割ってみたり、土を新聞紙の上に広げてみたりしてみた。しかし、残念ながら彼らの子孫を発見することはできなかった。 ところが、そのコクワガタも、突然相次いでこの世を去った。まず、独身のオス2匹が、急に元気をなくした。そして、続けて逝ってしまった。ノコギリのときと同様、並べて埋葬してやった。それでも、夫婦のコクワガタは元気にしていた。やはり、どんな生き物も異性が必要なのだ。異性がいることで、力強く生きる活力を得ているのだ、とそんなことを子供達と冗談交じりで話していた。娘が冬休みで戻った時も、前ほど活発ではなく土に潜っていることが多くなったが、エサを入れ替えると元気に土の中から2匹とも出てきていた。年を越そうというのに、未だ元気にしているコクワガタに驚かされた。 だが、元旦の朝、突然不幸は訪れた。新年の挨拶とばかりにコクワガタの虫ケースを娘と見てみると、あんなに元気だったメスがひっくり返って、六本の足を丸めて動かなくなっていた。何故だか理由がわからない。確かに寒くはなった。しかし、突然急激な温度差があったとも思えない。やはり寿命なのか。仕方なく、正月早々埋葬してやり手を合わせた。 そうこうしていると、生き残ったオスのコクワガタの動きも、俄かにおかしくなった。あきらかにスローモーな動きになっていた。自分の足を自分の足に絡ませ躓いてしまう。それでも、切り株の下に入ろうとするので、切り株を持ち上げて付けてやるのだが、力がなく落っこちてしまう。どうにもこうにも尋常ではない。 蜜をやったり、床暖房の上に乗せてやったり、栄養剤入りの水を吹きかけてやったりするが、ドンドン弱る一方である。やはり寿命なのか。でも、頑張ってほしい。娘は、必死で最後のコクワガタを見守っていた。転ぶたびに、起こしてやり、お正月中見守っていた。三が日は越えた。そして、五日の日、私が仕事で出掛けていて帰宅すると、娘も息子もニコニコ笑っていた。どうしたものかと訊いてみると、ネットでコクワガタの寿命を調べたそうだ。「彼らは、長ければ二〜三年生きるらしい。そして、冬場は、冬眠するので、足が縺れたりひっくり返ったりするらしい」と嬉しそうに私に告げた。娘は、これは寿命ではなく、冬眠だと信じたいようであった。その娘は、すぐひっくり返ってしまうコクワガタを虫ケースの中の少し掘った土の上に置いてやり、その上からそっと土を少しかけてやったという。心配して起こしてやったりしていたことが、コクワガタにとっては有難迷惑であったのだ、と娘は言い張った。正直私は、少々心配であった。自分で潜ったならともかく、埋めてやったのでは生き埋めになってはいないかと。しかし、土は、そっとかけただけだというので見守ることにした。 そうこうして、娘が帰寮する前夜になった。私は、コクワガタの様子を観たほうがよいのでは、と娘に告げた。娘は、そっと土を取り除き、土の中のコクワガタを探した。暫くすると、娘の瞳から、大きな涙の雫が虫ケースの中に落ちた。そして、その涙は、足を丸めて動かなくなったコクワガタのオスの上に落ちた。私は、娘に告げた。「大丈夫だよ。これだけ一生懸命世話をして上げたのだから、きっと喜んでくれているよ」と。クワガタ達との半年間、アッと言う間に過ぎ去った。最期のお別れであった。小さな命を通じ、子供達が命の重さを知った、大切な出来事であった。
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●謹賀新年 2008年 元旦 ◆乾坤一擲 一生懸命 一心不乱 悪戦苦闘◆ 亥年というのは、天変地異が起こる年回りらしい。今年こそ関東大震災かと思いきや、地震はなかったものの永田町は大揺れであった。私事でいえば、一生懸命に為したことが全て裏目にでた。亥年男の宿命か。 昨今、どうも世の中が尋常でない。理不尽なことが多すぎる。年甲斐もなく声を荒げることが多かった。喧嘩ワースト3の内、1位、2位の相手は警察官だった。血が頭に昇ると、理不尽な相手が例え警察官だろうが容赦しない。困ったものだ。 1位は、羽田の国際線ターミナルでのこと。ここは、常々問題が多いところだ。都知事や都庁にも何度となくクレームを入れている。国際線ターミナルだというのに、駐車場はいつも満杯、一部の関係者が独占し、荷物の乗せ降ろしも儘ならない。都知事の意向を踏みにじる暴挙がまかり通っている。空港警察も事情を分かっている。だが、何もできずに、目先の取り締まりに精を出す。さすがに、堪忍袋の緒が切れた。「指一本でも触れたら公務執行妨害だぞ」と忠告されても怒りはおさまらず、警察官の眼前1センチのところで怒鳴り散らした。 2位は、六本木ヒルズ近くの交差点でのこと。三度信号が変わっても車が進めなかった。タクシーは無神経に駐停車、外交官ナンバーのアメリカ人運転の車は、その後ろでノンビリ歓談しながら待っている。他の車は、二進も三進もいかずイライラただ待たされた。交通整理をするでもなく、ボケッと突っ立っている若い警察官。さすがに、業を煮やした私は、怒鳴り散らしながら車の運転席から飛び出した。一台一台問題の車の運転手を怒鳴り散らし、挙句の果てに交通整理。お陰で、直ぐに渋滞は解消され車は流れた。若い警察官は、それでも知らん顔。タクシーは、連なり逃げ去った。アメリカ人達は、何故か拍手と歓声を浴びせかけてきた。何と日本は平和ボケした国に成り下がってしまったのか。 3位は、高井戸の交差点でのこと。赤信号で停車していると、真横で自転車同士がぶつかった。初老の男性が横転し、その男性は額を石段に殴打し血を流した。ところが、メールを打ちながら自転車を走らせ事故の原因を作った二人組みの女子高生は、そのままメールを打ちながら知らん顔で逃走。さすがにブチキレた私は、車から飛び出し二人の女子高生を連れ戻した。ブウブウ文句をいう子豚のような女子高生を怒鳴りつけ、救急車と警察を呼んで引き渡した。全く以って世も末である。 運転していても、車も、歩行者も、オートバイも、自転車も、誰一人として譲り合いなどしない。皆、我先にとばかり「自己中」丸出しの浅ましさだ。本当に、日本という国は一体どうなってしまうのか? 憂いているのは、私だけなのか? それとも、私がお節介なのか? 何だか日本は、豪く住みにくい国になってしまった。 ◆今年こそは、乾坤一擲、一生懸命仕事に励み、一心不乱に悪戦苦闘し、少しだけ頭を擡げるつもりです。宜しくお願い致します。
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サンタへの手紙 2007年12月19日 以前にも、記事で書いたことがあるが、我が家では、子供達が15歳になるまで、サンタクロースが本当にいると信じられるように、様々な演出をしてクリスマスを迎えることにしている。サンタクロースの存在を信じることで、心に「信じる」という小部屋を作ることができるからだ。我が家の子供達が通っていた幼稚園の牧師先生が、「心の小部屋」という話をしてくれ、その話に感銘を受け実践してきた。無事、長男は15歳を迎え卒業した。今年のクリスマスは、長女にとって15歳になるまで最後のクリスマスだ。 こんな話をすると、大抵の人がそんなことをいくらなんでも中学生にもなる子供達が信じているわけはない、と言われる。しかし、不思議なことに、子供達は、疑心暗鬼ながら信じてくれている。その証拠に、毎年、一生懸命サンタクロースへ手紙を書く。 ハラハラしたことも何度となくあった。何故なら、周りのお友達が、「サンタなんかいるわけないじゃない。サンタは、お父さんやお母さんだよ」と余計なことを言う。かなり疑ってかかった頃もあった。しかし、今はまた落ち着いている。周囲の言葉に惑わされなくなった。ある意味、知ってはいるが、信じてくれているのかもしれない。 親の私は、それなりの努力をこの15年間してきた。サンタへの手紙に書かれている望みのモノとは別に、私自身からのクリスマス・プレゼントをそろえることは勿論、クリスマス・イブには、ツリーの根元に温かい紅茶とクッキーを用意する。子供達を早く寝かしつけ、寝息を確認するや、眠りの記憶に残るようにトナカイの鈴の音を微かに響かせる。そして、そそくさと隠してあったプレゼントをツリーの下に並べる。早朝、大抵は日の出の頃、5時30分から6時過ぎぐらいを狙って、「今年も、サンタ来てくれたみたいだよ」と目を擦りながら、子供達を起こす。寝ぼけ眼でツリーの元へと子供達が向かうと、彼らの目にプレゼントが飛び込んでくる。これが、我が家の恒例行事だ。クリスマス・イブには、私は徹夜。サンタの宿命だ。 今年は、少々問題が発生した。例年通り、子供達はサンタへ手紙を書いてくれた。ところが、我が家のツリーには、息子の手紙しか飾られていなかった。驚いた私は、娘に直ぐ電話をした。娘は、私立中学の寮に入っている。寮に入ってはいるが、ほとんど毎週末帰宅する。というか、私が土曜日の午後の授業後迎えに行き、翌日曜日の夕方の門限には寮へ連れて帰る。それはどうでもよいのだが、娘のサンタへの手紙がない。私にとっては一大事である。何故なら、娘が何をサンタへ頼んでいるかわからないからだ。その上、今年は、終業式まで3週間は寮で友達と過ごすから帰らないという。終業式は、22日の土曜日。それからでは、とてもではないがプレゼントが間に合わない。私は慌てた。 電話の向こうの娘に、「サンタへの手紙はまだかな?」と冷静を装って訊いてみた。すると娘は、「大丈夫だよパパ、サンタへの手紙は寮のツリーに飾っておいたから」と何事もないように答えた。私は、「えっ、何で?」と動揺した。「何でって、寮にいるから」と娘は、当たり前という様子で言い放った。「あっ、そうか。だけど、サンタわかるかな?」と、私はかなり動揺した。すると娘は、「サンタは空飛んでくるのに、大丈夫に決まってるでしょ」と言う。私は焦った。そして、挙句の果てこう切り出した。「そりゃ、そうだよな。だけどね、サンタは手紙が置いてあった場所にプレゼントを持ってくるらしいよ」そう私が言うと、「ウソ」と今度は娘が動揺した。「クリスマスの時は、冬休みだから寮は閉まってるよな。困ったな」と私が続けると、娘は間髪を入れずこう言った。「明日一番で、サンタへの手紙送るから、忘れずにお家のツリーに飾っといてよ」私は胸を撫で下ろし、「わかった。パパにまかせとき」と、娘を安心させた。実は、私の方が一安心であった。 一件落着である。正直、一時はどうなるかと思った。しかし、嬉しかった。やはり、娘は、まだサンタクロースを信じてくれている。14歳になっても、サンタが来ることを信じてくれている。これほど、嬉しいクリスマス・プレゼントはない。思わず15年間のクリスマスの思い出が蘇ってきた。長かった。でも、よかった。素敵なクリスマスばかりだった。これからもずっとそうであってほしい、と心底より思った。Merry Christmas!!
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ムカデの巣窟 2007年3月25日 昨日は、学期末の恒例行事、息子の通う学校で、委員による厨房の大掃除があった。以前にも何かの折に書いたと思うが、この学校の男子部では、最低月に1回の割合で、食事当番というのが回ってくる。生徒達は全国から集まり寮もある。学校自体は、東京のはずれに位置している。当然のことながら、地方生の父母は参加できないが、学校近郊、即ち東京を中心に近隣地域に居住する父母によって、子どもたちや先生方の昼食が、毎日作られる。大きな厨房で食事当番の父母が、栄養士の先生の指導のもと料理するのだ。それこそ、石川五右衛門の釜ゆでを彷彿とさせるような大釜がいくつもあり、料理というよりは、カンフー映画でよく目にする修行のような賄い作業である。お茶ひとつ沸かすにしても、市中のラーメン屋の寸胴の何倍もある大きな寸胴と格闘する、というような少々やり応えのある作業内容だ。 余談だが、女子部では、ご飯も薪を使った二つの大釜で炊く。一度、経験させてもらったが、これは非常に勉強になる。思っているよりも、薪の場合短時間で炊きあがる。一瞬の油断が、焦げを作ったり、芯のあるご飯を炊いてしまったりということになりかねない。真剣勝負である。一生懸命、火と格闘しないと美味しいご飯はたけないのである。 二年前、息子が入学した後、初めての食事当番の際は、勝手もわからぬため、まだ寒さも残っていたので、少々防寒を考えた服装で当番に臨んだ。しかし、大きな間違いであった。暑くて暑くて、汗をかきながらの作業。結局、脱水症状のようになり、折角作った昼食を、味わう余裕さえなかった。以来、真冬でも、半袖姿の上に、割烹着を纏うというスタイルが、私の中で定着した。 その厨房を、学期末と学期始めに、委員が総出で大掃除をするのだ。隅から隅まで、これでもかというほどに奇麗に掃除する。案外、力仕事である。しかし、こんな努力が代々受け継がれてきたからこそ、80年という歴史が積み重ねられてきたのであろう。そして、その結果が、国や都の重要文化財として、校舎も含め保存され続けられてきているのであろう。これ以上の宝はない。 そんな大切な厨房の外側、食材を受取り洗う洗い場の壁を洗っていたら、どこからともなく中型のムカデが現れた。私がかける水に驚き慌てて飛び出してきたらしい。ヒヨロヒョロと壁を逃げ惑うムカデ。どことなくぎこちなく、水をかけたら瞬く間に地面に落ちた。後はまるで波乗りをするがごとくに、水に流されていった。大事な厨房に、不届き千万、と憤りを覚えつつ壁掃除を続けた。すると、それどころではない騒ぎへと発展してしまった。 壁際に、嘗て食材置きに利用されていたと思われる古い木製の棚が置かれていた。既に使用されていないことは一目瞭然であった。が、しかし、そこにあるからには掃除をしなければ、と水をかけた。そこからが大変である。さっき波乗りよろしく流されたムカデの仲間とおぼしきムカデの大軍が、あふれ出てきたのだ。これでもか、という勢いで何百匹ものムカデ諸君があふれ出てきた。都会暮らしで、ムカデの姿を拝むこともめっきり少なくなった昨今、さすがの私も正直少々驚かされた。 女子部の寮に、ムカデが出るという話は娘から聞いたことがあった。しかし、男子部の方で、ムカデを見たという話を、私は聞いたことがなかった。帰宅後、息子にも訊いてみたが、息子も厨房近くでムカデを見たことはないといっていた。あんなにも大量のムカデがいるにもかかわらず、一度も目撃されたことがなかったとは、敵もさるもの、なかなかシタタカなムカデどもめ、と思いつつ水で全てのムカデを流し去った。 しかし、ムカデ達、なかなかシタタカで、流しても流しても、また舞い戻ってきてしまう。側溝に流しても、また泳いで戻ってくる。結局、木製の棚を処分し、かわいそうだが側溝に消毒液を流し、成仏してもらう作戦をとった。騒動は、治まった。幸い、戻ってくるムカデもいなくなった。 全ての作業を終わり、一部始終を反省会の場で報告した。だが、後になってよく考えてみると、あのムカデ達も、姿一つ現さず、生徒や我々に危害を加えることもなく、ひっそりとキャンパスの片隅で、生きてきたのかもしれない。たまたま、大掃除で、私が彼らの住処に水をかけたが故に、不本意ながらも私達の前に姿を現す羽目になり、結局退治されてしまった。 確かに、子供たちの日々の生活を考えると、毒を持つムカデを放置することは考えものだ。しかし、ムカデの立場になって考えてみれば、余計な御世話で、人間の勝手だったのかもしれない。一事が万事、自然界は、こんな風に、人間様のご都合主義で乱されているのかもしれない。目先の問題として、対処したことが、実は自然界の大きな長きにわたる流れにおいては、とても大きなことで、そのような人間様のご都合主義による勝手の積み重ねが、地球が病んでいる今のような状態を生みだしてしまったのかもしれない。 一匹のムカデから、何だか壮大な話へと思いが巡ってしまったが、こういう目先の小さなことを大切にしていくことの積み重ねこそが、地球を救うことに繋がるのでは、と実感させられた出来事であった。 「地球を救う」などという言い方自体が、人間の勝手な言い分なのかもしれない。「こんな地球にしたのは、他でもない人間、お前達だぞ」という地球の憤怒の叫びが、地底から轟き聞こえたような気がした。ごめんなさい。
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