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この世の不思議(喪服の脱げぬ日々) |
人
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歴史は繰り返される 2007年2月9日 早いもので、新年が明けて既に一月(ひとつき)以上の月日が流れ去った。今年は、年男ということもあり、新年早々鼻息荒く、褌の紐を締め直し、一歩を踏み出した。確かに、色々な変化が表れている。自分の意識の元に為される変化もあるが、見えない力によって導かれる変化もある。不思議な気がしてならない。 今まで、亡父が他界して以来四年間、どうもがいても、どうにもならなかったことが、自然と解決の方向に向かったり、本当に不思議である。自分では、自然と解決された、と思っているが、実は、自分を取り巻く人々の力によって動かしてもらい、変化させてもらっているのだろう。私は、そう思っている。人は、本当に一人きりでは生きていけない生き物なのかもしれないな、などと最近は思うようになった。元来、独りで妄想に耽るようなことも厭わない性格ではあるのだが、そんな性質とは関係なく、やはり人というのは、人によって生かしてもらっているのかもしれない。 よく、「歴史は繰り返す」といわれるが、正にその通りだと思う。国の歴史は勿論、一個人や家族、一族の歴史も然り。おやの代で経験したこと、自分の子には同じ思いをさせぬよう意識して頑張っても、結局同じようなことが繰り返される。ある意味、それぞれの血の中に、それぞれの学びとしての試練がDNAとして生まれながらに組み込まれているのかもしれない、などと最近は思うようになった。少々抽象的な説明しか、この場ではできぬが、要は、好い事も、嫌な事も、不思議なぐらい自然に繰り返されるということだ。 私が中学の頃、人一倍ガンバリ屋の亡父であったが、亡父の力の及ばぬ見えざる力に翻弄され、倒産、差し押さえ、家の占拠、競売、と色々なことを経験した。しかし、今から思い返してみると、亡父を恨んだりしたことは一度もなかった。何とか、亡父の足手まといにならぬよう、そうして一助にならなければと若輩ながら思ったものだ。そして、そこには、案外、運命に翻弄されながら常軌を逸した経験を多々することに、不思議な興奮さえ覚えていたような気がする。「こんな経験は、お金を払ってもできない」「世の中、こんなことか」などなど、色々なことを思ったことが、鮮明に蘇ってきた。 私は、そんな一般に言われる嫌な経験からも、色々なことを学んでいたような気がする。間違いなく、学校の勉強よりは、そのような経験をすることを好んでいたような気がする。劣等感や、辛かったがそんな経験をすることが嫌であったという記憶はない。まあ、亡父が、そんな気持にさせないよう、陰ながら頑張っていたのかもしれない。お陰で、それらの経験は、私の血の中に、「勇気」という形で、亡父から継承されたような気さえしている。 ところが、そんな私でさえも、自分の子供達には、絶対同じような経験はさせまい、と自分の経験に照らし合わせずっと思いながら生きてきた。特に、子供達が中学になる頃は、気をつけなければ、とずっと思って生きてきた。何故なら、運命論者ではないが、昔から、歴史とは小さなことも、大きなことも、繰り返される、と私は心中思ってきたからだ。だが、そんな思いも虚しく、やはり歴史は繰り返された。 しかし、この歴史が繰り返されるということには、天の大きな力が働いているような気がしてならない。それぞれの人間に与えられた性質と運命により、天がそれぞれの人間に相応したそれぞれ違った試練を与えているのかもしれない。そんなことを最近思う。 私の経験とは少々違うが、やはり中学になった子供達に、同じような経験をさせることになってしまった。楽天的な私は、人生とは波乗りのようなもの、高波もあれば、凪もあり、波間に落ち込むこともある、などと暢気なことを思って生きている。だが、果たして我が子達は、今経験していることを、どのように捉え、どのように自分達の血肉にするのであろうか。申し訳ない気持と楽しみな気持が、私の中で複雑に錯綜している。
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