政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)

若者達がジャパニーズ・ドリームを夢みれる国を願い、「政治をもっと身近に!」というスローガンのもと、日本人に愛国心を喚起する。

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脳梗塞顛末記 続編

脳梗塞顛末記 続編
2011年10月23日

 第二弾では、徐々にわかってきたことを記しておくこととする。部分的に、倒れた当日のことが記憶から消えていたが、当日会っていた人々と再会することで、当日の様子が解ってきた。自分の中でハッキリ覚えているのは、自宅を出発する直前、娘と泊りにきてくれていたお友達へ、「いってきます」と声を掛け出掛けたことだけだ。

 その後、都内で打ち合わせをした。二つ目の打ち合わせまでは記憶があるのだが、言葉がでなくなった瞬間までは覚えている。だが、その後の記憶はない。ただ、少しだけ病院に向かう車の運転中の記憶が残っている。それは、困ったことの記憶だ。

 まるでプッチっという音を立てて、まるで頭の中が切れたかのように、突然言葉がまったくでなくなった。頭の中では考えているのだが言葉がでない。後で周囲の人々に聞いたところ、言葉がでなくなっただけではなく、まったく表情がなくなったという。同時に、打ち合わせの最中であったが、冗談かと思うような不思議な動きをしたということだ。彼ら曰く、座っていた椅子の上から飛び上がるような、尋常ではない動きをしたらしい。その直後から、まったく動かなくなったそうだ。心配した、周囲の人々は、カウチで休むように促したそうだ。そうこうしている内に、勿論私自身の記憶はないのだが、小一時間すると突然飛び起き、皆が止める間もなくバックパックを肩にかけ、制止する間もなく飛び出していった。それからは、迷走の時間だ。いや迷走ではない。今から思い起こしてみると、過去に打ち合わせ中、二度脳梗塞を起こした相手を救急車で病院にまで同伴した経験があったが、二人とも病院がどこも満室で盥回しになっている間に手遅れになった。勿論、亡くなりはしなかったが、大きな後遺症が残った。その記憶が、普段から私の中に潜在的に残っていたのであろう。何としても、これは自力で以前に命を救われた防衛医大まで向かわなければと思ったようだ。

 本当なら、自殺行為とも思われる自力での運転で、病院まで向かった。正直に言えば、多分脳内出血量が少しずつ増えてきたのであろう。当初動いていた右半身に痺れがではじめ、段々と動かなくなってきた。それだけでなく、思考能力が著しく低下していた。普段当たり前で運転していた自分の車の操作が上手くできない。ハザードさえ止められない。ナビも操作できない。ただ、これはもう無意識というか潜在的記憶として、病院までの道程は覚えていたのであろう。アクセルを踏んで、赤信号で止まる。それだけで、病院まで辿り着いた。一生懸命言葉を出そうと一人格闘した。だが、言葉はでなかった。段々に右半身だけでなく、左半身にも痺れを感じてきた。そんな矢先、病院の救急救命センターよう入口前に車を乗り捨て、受付に向かった。まったく言葉がでなかった。後から聞けば、一目瞭然で様子がおかしく、受付の警備の人は直ぐにお医者を呼んでくれた。医者の姿を目の当たりしたら、安心したのか私は崩れ落ちた。同時に、「脳内出血か脳梗塞だ」という声がどこか遠い記憶の中で響いた。段々に、自分の周りで木霊している声が、遠くなってバリアに覆われたようになった。朦朧とした意識の中、ストレッチャーに乗せられCTやMRなどで多分検査されていたのであろう。その頃には、もうほぼ意識が薄れる寸前であった。その後、ハッキリと意識が戻ったのは、病院の廊下をストレッチャーにのせられあちらへこちらへと進んでいた時だ。気付けば、既に窓の外は真っ暗で静かな病室に到着した。

 目を覚まし意識が戻ってくると、看護婦さんたちがストレッチャーからベッドへ乗せ換えてくれていた。私は、必死に名前と住所などを言葉にしようとしていた。だが、言葉はまったくでない。辛うじて子供たちの名前だけ。自分の名前も苗字も言えない。生年月日も思い出せない。住所の数字も電話番号もでない。子供たち二人の名前だけを、何度も何度も口遊んでいた、と後に看護婦さんから言われた。

 その頃になると、酷い頭痛と眩暈、吐き気 が恐ろしい勢いで襲ってきていた。自分の身体がどうにもできず、もんどりうっていたようだ。単純な介護ベッドの操作さえできない。頭を上げたいのだが、自力でそんな簡単なこともできない。頭の違和感で、身体をクネクネとくねらせ、もだえまくっていた。気付くと、胴と手足が拘束きで完全に拘束されていた。一瞬、「精神科に入れられてしまったのか」と脳裏を霞めた。どこに自分がおり、自分が誰かも言えないのだ。それは精神科にいれられてもおかしくない。そんなことを思った。だが直ぐに、その不安は打ち消された。看護婦さんが、「ここは脳神経外科ですよ。名前や住所、わかりますか?」という声が響いてきた。「動いたらいけないので、身体拘束させてもらっていますよ」と優しい声が聞こえてきた。だが、どうにも頭に違和感があり、じっとしていられない。暫くすると、そんな私を察したかのように、点滴の中に多分寝る薬を投与してくれたのだろう。静かに眠りの世界に落ちて行った。

脳梗塞顛末記

脳梗塞顛末記
2011年10月1日

 約一か月前。八月下旬に、私は脳梗塞と脳内出血に倒れた。昼過ぎ仕事の打ち合わせを予定通りこなし、3時前に次のアポに移った。それまで何の異常もなかったのだが、3時過ぎ突然異変が訪れた。時間は3時10分過ぎ、突然言葉でなくなった。話そうとしても、まったく言葉が出てこない。だが、酷い頭痛があるわけでもなく、ただ言葉が出てこない。同席していた仕事の関係者が後に曰く、あの時、不思議な動きを私はしていたそうだ。何が起こったのかと思ったという。同時に、言葉が全く出てこなくなり、表情がなくなった。それだけでなく、こちらからの質問へもまったく答えなくなってしまた。その様子は、異常な感じであり、少々怖くなったという。間違いなく、何か身体的に異変ができたとわかったので、暫くカウチに静かにさせようとしたとのことだ。実際、小一時間カウチで寝ていた。

 ところが突然すっくと立ち上がり、言葉もなく部屋を出て車に乗り込んで去ってしまった。車の運転ができるのかと非常に心配であったという。3時過ぎからの記憶は、私自身はほとんど残っていない。ただ、自力で運転をしながら、防衛医大まで必死に向かった。そのことはよく覚えている。もう既に思考能力が低下し、自分の車でありながらハザードやウィンカー、ナビまで操作ができなくなっていた。後から考えると、操作方法等が、記憶からまったく消えてしまったということだ。頭の中では、言葉をしゃべっている。ところが、声として出ない。運転しながら、一生懸命話そうとしていた。同時に、時間と共に右半身がどんどん痺れおかしくなってきた。病院に着くころには、左手も痺れていた。

 そんな状況下でも、兎に角二年前に入院した防衛医大に向かわなければと、そればかりを思っていた。何故ならば、2年前の経験で、自分の中で最も信頼できる病院であったからだ。しかし、自分がいた場所は都内、約50キロ程度をかなり危険な状態で運転してきた。今考えると恐ろしいことだ。それでも、自分の中では、救急車で運ばれれば、知らない病院に入れられてしまう。それならば、防衛医大に入りたいと、思ったのであろう。

 よくも警察に止められることもなく、無事1時間たらずで防衛医大まで辿り着いたものだ。既に時間は、午後6時10分過ぎ。救命救急センター前に、迷惑な駐車の仕方で車を乗り捨てた。エンジンを止め、鍵を掛け、これはもう無意識であったに違いない。そのまま救命救急センター入り口の受付にヨタヨタと辿り着いた。誰の目にも、異常が理解できたのであろう。直ぐに、ERの先生方が現れた。私は崩れ落ちた。先生の「多分脳内出血」という声が聞こえた。意識が薄れた。気付けばストレッチに乗っていた。周囲の音や声は聞こえていた。慌ただしく、周りが動いていた。聞き覚えのあるCTの音がした。まるで、他人事のように、自分を中心に、バリアの中にいるようであった。自分のことでありながら、客観的に全てが見えていたような気がする。

 暫くすると、名前や生年月日、住所など訊かれた。ところが、言葉がでない。必死に、言葉にしようとするのだが、言葉にならない。必死に、子供たちの名前だけ繰り返してたそうだ。特に、数字が全く出てこない。住所の数字、生年月日の数字、数字が頭の中からどこかに消え去ってしまったようだ。またしばらくして気付くと、ストレッチに乗せられ、長く暗い廊下を進んでいた。エレベーターをいくつか乗り継ぎ、気付けば病室に辿り着いた。動けないようにベッドに拘束具で、両腕と腰を拘束された。頭が激しく痛み、横に寝ていることが辛かった。吐きそうである。頭を一杯に上げてもらい、アイスノンをいくつか頭の下に敷いた。どれだけ時間が経ったのであろうか。窓際のベッドで、窓の外が漆黒の闇に包まれていた。自分の頭の中のようで、暗闇の迷路を彷徨っているような気持ちであった。

 翌日の朝目を覚ますと、右半身が依然痺れていた。だが、手も足も動く。必死に動かしてみようと試みた。左手の痺れはすっかり取れていた。窓の外に網が貼ってあり、その網にセミが何匹も留まっていた。ところが、「セミ」という言葉がでなかった。いや、声自体がでない。それでも、前夜よりもましになっていた。自分の名前が言える。生年月日は言えないし、住所の番地等も言えなかったが、住所なども言えるようになった。30分掛かって、「セミ」という単語を探し出した。平仮名が、バラバラに飛び回っていた。身動きできない中、暫く眠りに落ちると、息子の姿が目の前にあった。胸を撫で下ろした。見回してみると、妹や母、それと友達が集まってくれていた。救命救急センター前に駐車した車を、友達に任せ自宅に持ち帰ってもらった。もしかすると、この二日目の記憶は実際には三日目であったのかもしれない。この辺の記憶は、私の中にはない。

 三日目には、担当医も驚くほどに、右半身不随は元に戻り、言葉も戻りだした。「100−7=」からずっと引き算を繰り返された。だが、暗算がまったくできない。元来数字には弱い私にとって、引き算は苦戦した。だが、平仮名は直ぐに再学習した。担当医にも、前向きでリハビリ意識が非常に高いと褒められた。だが、一度死んでしまった細胞は戻らない旨を知らされた。再学習、リハビルしか方法はないと宣告された。だが、落ち込むことはなかった。兎に角、どんどん再学習(リハビリ)するしかない。時間は十分にあった。兎に角、必死で再学習した。みるみる言葉も戻りだした。

 息子が持ってきてくれた「本能寺の変 四十七年目の真実」という本を読んでみた。読める。だが、1ページを読むのに1時間掛かった。まるで、左側と右側で、まったく別の世界が広がっているようだ。左側で認識できる単語は、今まで通り目に入る。だが、右側で認識できる単語は、例えひらがなでも未知の世界のようだ。グルグルと目が回るように、行がグルグルと回っていた。

 そうこうしていると、担当医から病状の説明があった。三か所の脳梗塞と脳内出血を起こした。一番大きな脳内出血は、脳の「角回」という認知を司る部分で起こっているとのことであった。驚かされたのは、今回以外に、若い頃に交通事故で患ったであろう古い梗塞を含め、全部で六ヶ所の梗塞か所が確認できるとのことであった。今まで、障害が出ていなかったことが不思議だという。確かに、担当医に言われてみると、兆候があったのかもしれない。ただ、自分で気付いていなかっただけだ。1年以上前より、酷い後頭部の頭痛に苦しんでいた。ロキソニンを常用していた。また、3時間以上眠れなかった。「あの」「その」というようなことが多かった。物忘れが多かったし、ここ数カ月は、洗い物で兎に角よく食器を落として割っていた。バックの際に、ハンドルを非常に重たく感じていた。どれも、兆候であったのであろう。

 不思議なことがある。それは、ぐっすり眠れるようになった。溶けるように眠ることができるようになった。これは、非常に大きい。まるで何年振りかに本当の眠りにつけるようになったような気持ちだ。リハビリによる再学習を続けながら、右腿の付け根より、カテーテルを脳まで入れ治療を行った。そうこうしている内に、退院を迎えた。そして、昨日1ヵ月検診まで辿り着いた。

 死んでしまった脳細胞は元に戻らないそうだ。そこにあった記憶も元には戻らない。再学習、リハビリしかない。昨日の検診では、脳に傷があるので癲癇発作が起こる確率もあるとのこと。半年間は、運動を控え運転なども控えた方がよいとのこと。そうはいっても、生活をしていかなければならない。まあ、これが自分の運命なのであろう。身体は実年齢より元気だが、脳年齢は実年齢より酷く老化しており、何時死んでもおかしくないとのこと。無理して生きてきたツケが回ってきたのかもしれない。だが、それでも家族を守り、生きていかなければならない。これが、人間の運命というものだ。甘えるのではなく、生きていかなければならない。二年前の入院、そして、今回の入院。天にもちびかれて、生かされていることを実感させられた出来事であった。

政府関係者も東電役員も御用学者も政治家たちも「学問のすすめ」読むべし
2011年5月13日

文字は学問をするための道具にて、例えば家を建てるに槌・鋸の入用なるがごとし。槌・鋸は普請に欠くべからざる道具なれども、その道具の名前を知るのみにて家を建つることを知らざるものはこれを大工と言うべからず。まさしくこのわけにて、文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者というべからず。いわゆる「論語よみの論語しらず」とはすなわちこれなり。(福沢諭吉著「学問のすすめ」二編 端書より)

福島原発事故以来、多くの御用学者たちがメディアに登場し、安心だ安心だと連呼している。これまさに、「原発本よみの原発しらず」なり。そう思えてならぬのは私だけか。

復興への足音が聞こえ出した三度目の被災地取材
2011年4月15日

 昨日、三度目の被災地取材に赴いた。被災からどういう風に変化していくかを見たく、同間隔で10日ごとに被災地を訪問している。そして、昨日は愚息を同伴した。愚息は、この3月に高等科を卒業し同学内で進学した。だが、地震の影響で、卒業に当たっての予定が大幅に変更された。彼にとって、きっとこの大震災は記憶に残る出来事であったはずと私は思った。人生に於いて、この時期の体験は一生心に残り、その後の人生を左右するようなインパクトを持つ。特に、良いことばかりでなく、このような悲惨な状況を目の当たりにすることにより、人間は心を動かすことができるようになり、大きな学びを得ることになる。そんな期待感を抱きつつ、取材に愚息を同伴することを決めた。幸い仕事仲間が賛同してくれ、快く同伴を許可してくれた。感謝する。

 愚息は、赤ん坊の頃、大きな天災を経験している。彼自身は覚えていないだろうが、18年前鹿児島を襲った水害で、海に流され多くの犠牲者をだした電車の一本前の電車に、籠に愚息を入れて私は元妻と共に乗車していたのだ。一瞬の機転で、下車後側にあったホテルの三階に避難し九死に一生を得た。あと5分遅かったら、多分流されていただろう。ホテルの三階から襲い来る大量の水を眺め、背筋に寒い物を感じた記憶は、今でもハッキリと私の身体に刻み込まれている。申し訳ない。話が逸れてしまった。東日本大震災被災地の話に戻す。

 被災地は、間違いなく一歩一歩歩みを進めている。あんなに悲惨な状況にある地獄のような津波被災地が、復興できるのであろうかと当初は心配した。正直、私自身、シャッターを押すことにも躊躇い、ペンを走らせることもできなかった。涙と嗚咽が、止めようとしても止まらなかった。それほど、酷かった。地震の被災地というよりも、嘗てスリランカの内戦取材で見た、戦場のような光景であった。だが、10日前に訪問した二回目の取材では、震災被災地で復興が進み正直驚かされた。それでも、津波被災地はまだ行方不明者の捜索段階を脱しておらず、復興には程遠いという印象を受けて帰路についた。どんよりと曇った津波被災地は、別世界のように感じた。震災被災地と津波被災地では明暗を分け、天国と地獄のようであった。勿論震災被災地の被災者たちも、悲しみや苦しみを背負っていた。しかし、津波被災地はそういう域ではなかった。正に奈落の底に突き落とされたような感じであった。そんな厳しい状況下でも、人々は落胆の色を払拭しようと必死に前を向いていたことが非常に印象的であった。人間とは何と強い存在なのだ、と驚かされた。

 そして、今回の取材で、その思いをより強く感じた。震災被災地、特に仙台市内などは、ほとんど震災前と同じ状態に戻っていた。勿論、まだまだ不自由も多々あるのだろうが、表面的には平常に戻っていた。一番驚かされたことは、この10日間で、津波被災地も復興へ向かって、前を向き大きな一歩を確実に踏み出していたことだ。もう、行方不明者捜索段階ではない。復興へ向けての動きにかわりつつあった。勿論、まだまだ瓦礫の山はある。だが、不思議なことに、気候が移ろい温かくなったことで、溜まり水が大分引いた。その結果、重機が瓦礫の荒れ野に入れるようになり、瓦礫を撤去できるようになっている。その結果、至る所に散在していた被災車が撤去され、多くの瓦礫が運び出されていた。人々も、流されずに残った数少ない家々に何とか戻ろうと汗と泥にまみれながら、必死に希望の光を追いかけていた。彼らの姿には、最初の取材で流した涙とは違う涙が零れた。本当に人間の強さを実感させられた。人間とは、如何なる状況に突き落とされても、必ず這い上がってくる。絶対に負けない強靭な精神と肉体を持っているのだな、と強く実感させられた。このことは、大きな変化の1つだと思った。

 変化という意味では、被災地の管理体制なども含め、雰囲気が大いに変わっていた。10日前の取材の際は、タクシーで乗り付ける見物人までいた。被災住民と心無い野次馬との間に、無言だが重たい空気が充満していた。だが、今回は、空気が晴々していた。それには二つの理由がある。1つは、津波被災地へ繋がる道の全てに警察の検問が置かれ、復興作業に携わるトラック、警察官、消防士、多くの自衛隊と米軍、許可されたボランティア、そして、身分証ならびに取材許可を受けている我々報道関係者以外の人間を津波被災地からシャットアウトしたことだ。そうすることで空気が大幅に変わった。もう1つは、被災者の方々の意識が、絶望から小さいながら希望に向かって動き出したことではないかと私は思った。その心の変化が非常に大きいのではと感じた。その結果、心の余裕が多少なりともできてきたのではないか。例えば、前二回の取材では見ることができなかった、献花が至る所で見られた。花を手向けるということは、小さなことに感じるが非常に大きなことであると私は思う。心の持ち様で、花を綺麗と感じられる余裕が心にできる。ということは、被災者の方々や被災地復興に携わる人々に、花を手向ける心のゆとりができてきたということである。そういう気持ちこそが、絶望感から前向きの心持ちに変わり復興の速度を速めると信じる。本当に人間とは素晴らしい力を持った生き物だ。今更ながら実感させられる。

 それにしても、水の力とは恐ろしい。津波という水の力によって、人も街も押し流され一瞬にして地獄と化した。震災後は、溜まってしまった津波による水溜りにより、瓦礫の処理を困難にし、人々を奈落の底に突き落とし涙まで枯らせてしまった。にもかかわらず、津波被災地の海岸線から眺める海は、嘘のように静かで、穏やかで、心を和ませてくれる。今回はもう、前回依然浮遊していた瓦礫など一つもない。同じ海なのに、今は美しく静かに輝いている。そんな状況下、津波によって全てを流され身内まで亡くしてしまった漁師の1人が、それでも「海は宝だ」と言った言葉が非常に印象的であった。自然は時として途轍もない大きな力で、人間を翻弄する。だが、そんな理不尽な力の犠牲になり翻弄されながらも、めげることなく前を向いて生きる人間の強さと素晴らしさを目の当たりにした三度目の取材であった。感謝。

十日目の被災地

十日目の被災地
2011年4月3日

 昨日午前5時出発で、再度被災地取材に出かけた。この10日間での変化はめざましい。津波被災地以外の震災被災地での復興速度は速い。これは、やはり震災に対する対応策を日本は持っていることの表れであると思った。

 そもそも、阪神大震災などと比較しても、地震被災地としては阪神大震災の方が酷いなという印象であった。これは、揺れが阪神大震災よりも小さかったという意味ではなく、揺れのタイプが違ったことと震源が直下であったか、少し離れた海の下であったことが影響しているのだろうなと想像した。今回の揺れは、非常に長かった分、力は分散されたのかもしれない。また、直下と違い、瞬間の破壊力に差があったのではと思われる。

 津波被災地を見てみると、第一印象は一変された。津波被災地の状況は目を疑う悲惨なものであった。阪神大震災では、津波被害はなかった。被災者には申し訳ないが、一言でいえば地獄絵である。地震被災地というよりも、戦場という印象だ。

 この10日間で、震災だけの地域と津波被害のある地域での大きな違いは、復興速度といえる。震災被災地の復興は目覚ましい。それに引き替え、津波被災地の復興速度は遅々として進まない。勿論、自衛隊を筆頭に、各地の消防士、警察官たちが弛まぬ努力が継続してくれている。だが、正直に言えば、津波被災地は、まだ復興という段階ではなく依然捜索段階だ。地獄絵のままだ。見渡せば、静かに凪いだ海が広がっている。この海があんな大暴れをしたとは信じられない。海辺の堤防の上から振り返れば、そこには地獄絵が広がっている。その大きく長い防波堤も、地面のアスファルトから離れ海側へ移動している。引き波に流されたのか、地殻変動で押し戻されたのかそれは不明だ。

 津波被災地域の被災状況は、段々に明らかになってきた。今回は前回の取材とは違い、詳細まで見聞ことができた。よく見ると、津波被災地の多くの地面は、砂地を土台とした地面を固め、その上をアスファルトやコンクリートで固めた「砂上の楼閣」的な建築物が多い。そのため、津波の威力だけでなく地表ごと津波に押し流されたという印象だ。津波にとって、津波被災地を総なめすることは容易かったのであろう。被災地の中に、ポツンポツンと流されずに残っている建造物がある。これらの建物は、土台となる鉄骨が地面深く打ち込まれている建物であることが分かった。そもそも、電柱はグニャグニャに折れ曲がり、深く打ち込まれていない鉄骨は、針金のように酷く折れ曲がっている。大きな石でできた記念碑が、根元からポッキリと折れて流されている。本当に、人間の想像を絶する光景だ。まだ、海上にも多くの浮遊物がある。復興という状態までに進めるまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。現状、まだ捜査を続けなければならないことは一目瞭然である。しかし、一日も早く復興へ一歩を踏み出せるよう、心の底から祈る。そして、命を落とされた被災者の皆様のご冥福をお祈りさせて頂く。

 最後に追記しておくが、震災地域で目立ったことは、大きなガラス作りの自動車販売店店舗などは、ことごとくガラスが割れてしまって営業ができない状態が続いている。また、パチンコ屋やゲームセンターなどの巨大娯楽施設の多くが大きな被害を受けていることも特徴といえる。きっと、これらの娯楽施設は、天井が高く作ってある所為であるのだろうと感じた。多分、建造物の建築状態によって、このようなことが起きているのだと思う。建物が新しい古いは関係ない。古い建物でもビクともせずに残っている建物は多い。手抜き工事をした建物などは、大きな被害を受けている。一目瞭然である。ブロック塀などは、手抜きか否かが一目瞭然。鉄骨を入れていなかったり、半分しか入れていなかったり、スカスカで入れていたり、一面構造のようなブロック塀は、見事に全て倒れている。それに引き替え、しっかりと鉄骨がはいり、二辺、三辺、四辺構造にしてあるブロック塀は、ビクともしていない。驚いたことは、阪神大震災の時もそうであったが、昨今流行っているパナソニック住宅や三沢ハウスなどのような、組み立て住宅は全てビクともせずに残っている。このことは、阪神大震災の時にも特徴として記述したが今回も記載しておく。

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