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岩手 石井農園
田舎暮らし日記

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昨日のnya*****さんからの質問「seizoさんは何故、農家の仕事を始めたのですか❓」「シティボーイから何故、岩手に行ったのですか❓」にお答えいたします。
 と言っても過去に作った『石井農園のホームページ』にそれらしき物が載っていたので再アップする事にしました。(やっぱり手抜き?)
『石井農園のホームページ』は2005年から2015年までの10年間作っていました。しかしプロバイダーのKDDIが一方的にホームページの提供サービスを打ち切ったため、ここyahooブログに移ってきた次第です。
昔は真面目に作っていたので(今は不真面目かっ!)結構為になる面白い記事もあったのですが、ほとんど残す事が出来ず消去してしまいました。
機会が有れば少しだけ残っている記事を再アップしていきたいと思います。
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お百姓さんになるには? 田舎暮らしをするには?
 
私の体験談でよろしければ、お教えしましょう

第一章・なぜ田舎暮らしを〜?
   東京で生まれ育った私が、都会暮らしに疑問や不安を感じるようになったのは、いつの頃からだったでしょうか。
 平凡に会社勤めをし、結婚をして子供もできた。そして独立(商売を始める)。他人から見れば、平凡かつ順調な人生に見えたことでしょう。
しかし30も後半に差しかかった頃、突然このまま人生終わりたくないという焦燥感にかられました。それは永年都会に住んでいることへの嫌悪感だったのでしょうか。
 
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 空気は汚れ、川はどぶ川と化し、交通事故で毎日人が亡くなっている。さらに校内暴力や犯罪の多発。都会に住んでいる限りは、それらとかかわらずには生活できないのです。
 私にとっても、愛する家族のためにも何かをしたかったのでしょうが、その何かがわからず焦りを感じていたのでしょう。

  私の母は宮城県の一迫町という所の出身で、実家は農家でした。子供の頃(昭和30年代)たまに母の里帰りで一緒に連れて行かれたのですが、ハッキリ言って嫌でした。
 家は茅葺き屋根でオンボロで、照明は薄暗く勿論テレビもない。晩飯は決まって煮物と山菜の天ぷらです。我がままな私は母にねだって、ウチからハムやソーセージを持って来てもらいました。イヤなガキでした。
 特に都会育ちの私にとって、一番我慢できないものは汲み取り便所でした。アノ臭いとアノ見た目で、出るものが出ない日が何日も続きました。
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 祖父も祖母も、行けば孫の私をそれは可愛がってくれたのですが、どうしても田舎というものが好きになれず、着いたその日から「お母さんいつ帰るの?早く帰ろうよ」と言っては母を困らせていました。オフクロすまん!ジーちゃんバーちゃんゴメン。

  やがて私も学校を卒業し社会に出てからは、殆ど田舎には行かず疎遠になってしまいました。
そんな私がふと久し振りに田舎に行ってみたくなったのは、下の子供が生まれて一年目の時でした。妻と五人の子供と母と愛犬、家族総出で行きました。
二十年振りに見る田舎は当時のままでしたが、あれほど大きく広く見えた家も庭も小川も、意外と小さく感じました。
 夕日の中で私の子供たちが、小川や田んぼのあぜ道や畑で遊び回っているのを見ると、急に懐かしさがこみ上げてきました。私もかつてアソコで遊んだのだ。嫌な思い出だけではなかったのだと・・・。 これが郷愁というものなのでしょう。 
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それからは毎年のように、皆で遊びに行かせてもらいました。爺ちゃん婆ちゃんは亡くなってはいましたが、伯父伯母がいつも温かくむかえてくれました。都会でのあくせくした生活を抜け出しての、ほんの数日の田舎暮らしが一服の清涼剤になっていたのでした。
  さらに年を経るにつれて、私は段々とその田舎暮らしを本当に自分のものにしたくなって来ました。
 若い頃には夢にも考えなかった、イヤ考えたくもなかった田舎暮らし、それにあこがれを持つようになって来たのです。「田舎に住みたい」「もうソロソロのんびり暮らしたい」「都会は飽きた」「澄んだきれいな空気の中で生活したい」と夢ばかりが膨らんできました。
 当時の私のあこがれは、ムツゴロウさんこと畑正憲さんです。北海道の大地に家族と移り住み、多くの動物達と触れ合い、大自然に親しむ。正に私の理想郷がそこに見えました。
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しかし残念ながら、夢と現実は違います。妻に相談しても一笑にふされました。当然のことでしょう。私には妻と5人の子供達そして母と、7人もの扶養家族がいるのです。しかもムツゴロウさんのようにテレビに出たり、本を書いたりすることは出来ません。
 田舎暮らしをする生活の手段、要するに収入源の見当が全く思い付かないのですから・・・。


第2章・思いついたら実行だ!
  ムツゴロウさんの出ているテレビを見ては、羨ましさと焦りが募る日々が続きました。そんなある日、私は店で(当時、書店を経営していました)一冊の本に見入りました。
  「田舎暮らしの本」そのものズバリの題名ですが、中を見ると実際に都会から地方に移り住んだ人達の体験談で、僅かながら田舎の不動産物件も紹介されていました。
平成3年の秋頃でした。当時はバブルと言われた大型景気が破綻して世の中が騒がしい時代で、「地方の時代」とか「田舎暮らし」とかいう安らぎを求める言葉がようやく使われ始めた頃です。
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  さらに内容を詳しく読むと、農業をした場合、この作物で年間いくらの収入になり、田舎の生活費は年にどのくらい掛かる等々、かなり具体的に説明されていました。
  私の心は決まりました。「田舎へ行って農業をやろう!」 実に単純に決めてしまいました。不思議と何の迷いもためらいも無かったのです。扶養家族が7人もいるのに無責任な話でした。
  決心してから、先ず私がやったことは、家族の説得です。
  母は昔の人間です。嫁げば夫に従い、老いれば子に従う。特に問題はありませんでした。
  5人の子供達は「面白そう、行きたい」と変化と刺激を求める者。「どちらでも良い」と関心の無い者。「田舎なんて絶対イヤだ」と都会暮らしにドップリと浸かってしまった者。と、それこそ5人5様でした。しかし何と言おうが子供は親の付属品、親には黙って従うものです。これまた特に問題はありませんでした。
  最後に女房。これは手こずりました。女房も私と同じ、東京生まれの東京育ち。しかも一人っ子で身 寄りも少ない私と違って、親兄弟・親類縁者すべてが周辺にいます。特にお母さんとの別れが一番つらかったように思います。
 
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さすがに「黙って俺について来い」などという古臭いことは言えず困りました。
しかし気長に説得を続け、最後には私の男の夢を理解して同意してくれました。イヤ抵抗するだけ時間の無駄と諦めたのかもしれません。まずは第一関門突破です。
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第2章 思い付いたら実行だ! (その二)
   次は物件探しです。今でこそインターネットで様々な物件が紹介されていますが、まだそんな便利な ものは無く、片っ端から「田舎暮らし」関係の本を集めて読み漁りました。
   当時(平成3年)、田舎暮らしはブームになりかけていましたが、物件(田舎暮らし用の)は少なく、陶 芸家や画家などの手に職を持った人が、長野や首都圏に近い千葉などに移り住んでは「田舎暮らし」を謳歌しているのが実情のようでした。
しかし長年にわたる農業分野の不振、農家の高齢化や後継ぎ不足などで家や田畑を手放す人も多く、離農物件の数も徐々に増えてきたのです。
  とにかく、住居や店を処分して全く環境の違う新天地で、家族と共に生きて行こうとするのですから、失敗は許されません。知人や仕事仲間からも、あらゆる情報を得たり、モチロン実際に現地にも行き数々の物件も見ました。
 捜したのは殆どが東北方面でしたが、朝の5時にクルマで家を出て現地に向かい、そこでじっくりと物件を見て、家に帰るのは夜中の1時。ということも度々ありました。いやはや我ながら、若くてタフでした。仕事もこれだけ一生懸命やっていたら、もっと残せたでしょうに。
 
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  そして最終的に決めたのが、今居る岩手県紫波町。
なぜ東北にこだわったかと言うと、まず不動産が安いということ。同じ農業をするにしても、関東近郊や信州や西の方は価格がかなり高いのです。
 次に、雪が降り四季がハッキリと見てわかる。私には雪景色へのロマンが昔からあったようです。
そして一番の理由は私が暑がりであること。ホントはムツゴロウさんと同じ北海道も考えたのですが、女房に「そこまで遠くへ行くなら離婚する」と言われたのであきらめました。
 
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第2章 思い付いたら実行だ!(その3)
  実際に契約等の手続きを全て完了したのは、翌年の春でした。
その間、バブル景気が終わった後で自宅が中々売れずにヤキモキしたり、数々の小さな問題は生じましたが、のど元過ぎれば何とかです。
  準備を終え、友人や仕事仲間との別れの酒宴(塩原温泉において送別会。中央が私。埼玉古書組合の皆さん有難う)では、喜んで送ってくれる者、「行くな」と引き止める者と様々でした。
 
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 大体において年配者は「商売が順調なのに何故今さら冒険を〜」とか「何故不便な田舎暮らしなど〜」という理由で引き止めました。
 逆に私と同世代(40才代)の者は、10人中10人が「うらやましい、自分も自然の中で暮らしてみたい」と言います。
しかし「それでは一緒に行くか?」と私が言うと躊躇するのです。
 働き盛りで家族を抱えていては、先の見えない人生は避けるのが当たり前かもしれません。
  しかし、さらなる夢を実現するのは、行動するかしないかの決断だと思います。決断と実行力プラス家族の同意と協力、これさえあれば男は幾つになっても何に対してでもチャレンジ出来るでしょう。(あまりにカッコイイ、独りよがりな事を言ってスイマセン。現実の私は、これほど強い男ではありません)
  そして平成4年8月20日(出発当日、見送ってくれる埼玉県草加市の近所の皆さん。長い間お世話になりました)、
 
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男石井清蔵・42才、正に厄年となるのか?
 一抹の不安と大いなる希望を胸に「サァーーシュッパーツ」
 
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またまた古いネタで申し訳ない。                        
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第3章 資料・実践編
  8月20日、記念すべき田舎暮らし第一夜の記憶としては、とにかく暑い夜でした。
 北国岩手の夜がこれほど暑いとは思いませんでした。
 
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(岩手第一夜、家族で〜)                 
 
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(暑い暑い!)
 引っ越す前に、地元の人に「岩手は涼しいからクーラーなど必要ないよ」と言われていたのですが、暑がりの私は念のため一台だけクーラーを持って来ました。正解のようでした。
 東北も地球温暖化の影響で、段々と降雪量は減り気温も上昇しているのだそうです。私と同じ暑がりの人はクーラーは必需品かも。
 
 さてこの辺で、実際に私が田舎暮らしをするにあたり、どのように畑や住まいを探し、一体いくらお金が掛かって、どうやってお百姓さんになれたのか、具体的にお話し致しましょう。
 第2章でも書いた通り、現在は「田舎暮らしブーム」を反映してか、インターネットやそれ専門の本等で、田舎不動産物件が数多く流通しています。私もたまに広告に目を通すことがありますが、中にはうさんくさい物やべらぼうに高額な畑付き物件が載っており、体験者の私から見るとついつい首を傾げたくなったり、ブームに便乗した悪徳業者らしき不動産屋に腹立たしくなることがあります。
 
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 基本的に田舎の土地(山林・原野・農地)は驚くほど安いです。私の所で坪千円でした。ちなみにJR東北線の駅までクルマで14分、空港と新幹線まで各17分そして東北自動車道までは18分という便利さでです。それでも後で聞くと相場より若干高かったようです。
 田舎の土地の価格は殆ど変動がありません。私が購入した十数年前に、前の持ち主(現在友人の一人)もやはり十数年前に同じような価格で手に入れたと話してくれました。土地転がしで儲けられるような環境ではないのです。
つまり首都圏で30坪程の住居があれば、それを売って一万坪の土地付き住居に暮らせるのです。私がその通りでした。ただし問題はその後の生活ですが・・・。
  話を元に戻しますが、とにかく気に入った物件があれば必ず自分の足で見に行くこと。そして地元の人に環境を聞いてみること。特に現在と反対の季節のことを。夏と冬とでは環境が激変する場合があります。
 
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  結局私の場合は、本や新聞で物件を探し、さらに母方の実家(宮城)で紹介してもらったりして、興味のある物件に片っ端から電話しました。そして詳細を聞き良ければスグ現地に見に行きました。宮城県一件、岩手県三件、その最後の一件に今住んでいるわけです。
それから都会と違い、最寄り駅からは遠くても良いでしょう。鉄道もバスも一日に数本で当てになりません。田舎の生活者の足は軽自動車、それも四駆です。雪が降らずとも田舎道は脇にそれると悪路が多く、ぬかるみ等にもスグはまってしまいます。運転免許は家族全員必須。
  土地の契約は農地が入っている訳ですから農業委員会(農地売買を仲介する公的機関です)が仲介しますので、まず自分が物件に納得していれば安心して良いでしょう。さらに農業をするので農協に間に入っていてもらえば万全です。農家の味方、農協です。頼めば大概の事はしてくれるはずです。

 家屋の建築は地元の業者に頼みました。後々クレームが付けられるので、やはり近い地元が良いでしょう。ちなみにこの業者、私としては特にクレームがあった訳ではないのですが、4〜5年前に倒産してしまいました。
そして引っ越し。我が家は大所帯でしかも遠距離、当然レンタカーです。田舎暮らしをしようという人間が普通トラックぐらい運転できなくてどうします。2トンのロングアルミボディを借りて、燃料高速代込み数万円で上がりました。
  ここで私が用意した資金や実際に掛かった出費をまとめて見ましょう。金額的には現在とそれ程の差は無いと思いますが、十数年前のことなので記憶が定かでなく、書き落としもあるでしょうが・・・。
  資金としては住居の土地家屋売却3800万、店舗権利(店を借りて商売をしてました)移譲及び餞別等700万の合計4500万円です。(恥ずかしながら貯金は殆どありませんでした。江戸っ子は宵越しの金は持たねェ)
 出費は土地一万坪で1000万、50坪の家屋2000万、納屋200万(農家にとって納屋は大事 です。本当は400万位かけて広くしっかりした物が欲しかったのですが)、トラクター・草刈機等の農業機械100万、軽トラック等の自動車2台で70万(田舎では足代わりのクルマは必ず一人一台は必要。税金、燃料等の維持費の掛からない中古の軽で十分)、それに引っ越し代及び諸雑費等々で合計3500万円。と、差し引き1000万は残すつもりでおりました。
 
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(山道雪道どこでもOK!お百姓さんの足、軽トラ4WD)  
畑や果樹園を購入しており一年目からも多少の収入はあるし、食費等の生活費もあまりかからない訳で すが、やはり2〜3年分の生活費は現金で持ってないと不安でした。
ところが予測外の出費は必ず出てくるもので、原野開墾費用・納屋の下屋・コンクリ舗装・井戸の再掘削・家具や備品の購入・妻の免許取得費用・税金等々〜アッと言う間に手元に残ったのは500万円。オイオイこれはまずいぞ・・・チョット焦りました。
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第3章 資料・実践編(その2) あいさつ回りと農業初体験
  資金不足による先行きの不安、その他予想外なトラブルも起こりましたが些細なことです。サイは投げられたのです。もう後戻りは出来ませんし、したくもありません。後ろを振り返らずに前進あるのみです。
 一応都会から田舎に移り住む事だけは出来ましたが『田舎暮らしをするには』『お百姓さんになるには』先ず、やらなければならない事が二つあります。
  一つめは当然ですが、近所へのあいさつ回りです。その地で生活していくのなら住民の人達と関わらずにはいられません。田舎に限らず都会でも、それは当たり前のことでしょう。
ただし近所付き合いが希薄になっている都会とは違い、田舎はまだまだ古く親密な交流があります。集落(地元では部落と言う)内は一通り挨拶はしておきましょう。此方も不安ですが、相手方も「どんな人が来たのだろう」と不安なものです。
 私の場合は隣(といっても2〜300mもありますが)に世話好きの奥さんがいて、集落全戸(15軒)案内してもらって挨拶してきました。あいさつ回りに関しては特に問題は無く、硬く考える必要はないでしょう。
 
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(上の写真は現在のわが部落の面々、人相が悪くてスイマセン。05年、花見会にて)
 
 二つめはこれも当然ながら、畑や作物を作ることです。遊びに来たわけではなく生きるためにきたのですから、労働をしなくてはいけません。
 私と同じ農業の初心者は農協へ行けばよいでしょう。モチロン組合に入るわけですが、指導員がいて親切に農業のイロハから教えてくれます。
 
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今農協はテレビや新聞で、組合員の金の使い道や運営方法等色々問題が取り沙汰されていますが、入っておいて損はありません。それに農協は、農業のことはモチロン田舎における生活の情報源です。先ずは利用すべきです。
 本で勉強するのも良いでしょう。百姓をやろうと言う人間です。初心者と言っても予備知識ぐらいは勉強していなければいけません。
そうこうしているうちに近所の人が、とっておきの秘訣を教えてくれるようになります。同じ作物でも土や環境・風土によって出来るものは違ってくるのです。地元の人の話が一番参考になりました。
ということで、これも特に問題はありません。農業は人間の仕事の基本です。誰にでも出来るはずです。
それよりも注意することは、農薬はモチロン、トラクター等農業機械や刃物類の農具は大変危険です。
 毎年必ずと言ってよいほど、数十件にも及ぶ事故や死亡者が出ています。かく言う私も鍬を始めて握った際に、土を掘らずにつま先を掘ってしまいました。くれぐれも農業を舐めない事。
 
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第3章 資料・実践編(その3) 楽しく農業しよう・村社会との付き合い
    私の場合ぶどう園はそのまま譲り受けましたが、他の果樹と野菜畑は開墾しなければなりませんでした。未開の原野を重機を借りて掘り起こし、堆肥をまいて苗を植え・・・。
きつい労働でしたが、毎日 楽しくて仕方ありませんでした。広大な自分の土地に自分の好きな物を植え、どんどん夢が広がっていくような気がしました。田舎暮らしの醍醐味です。
 農協や農業指導員は一つの作物を専門に作ることを勧めます。その方が安定した収入を得ることができて且つ指導する側も楽だからです。しかし農業は単純作業の繰り返し、色々やった方が面白く退屈しないでしょう。
 折角田舎に住んだのです。収入は二の次にしたいものです(実際問題、今の生活は楽ではないのですが)。それに自分の土地で自分の畑です。自分の好きな作物を植えればよいのです。
 種をまき、発芽して実が成り、そしてソレを収穫する喜びは何物にも代えがたいものです。お百姓さんの醍醐味です。
 
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(写真上・バックホーで開墾中。こんな機械初めていじりましたが、やれば出来るもんですね。面白かったですよ。下・ぶどうの初収穫) 
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  よく「田舎は古い風習やしきたりがまだ残っていて、都会から来た人は生活し難いのでは?」と質問されます。
ここは21世紀の日本です。そんな事はありません。確かに冠婚葬祭や様々な習慣において都会とは全く異なり、驚いたり納得できない事もありますが、慣れてしまえばどうと言う事はありません。
 『田舎暮らし』が本格的なブームになり始めた頃本で読んだのですが、都会から移り住んだ人が失敗する一番の原因は何か?ということが、事細かに描いてありました。
 折角理想郷(ユートピア)を夢見て移り住んだものの、現実とのギャップに悩み苦しんで出て行ってしまうという話も多く聞かれます。
ソノ本にはこう書かれていました。
 都会で生まれ育った者が、田舎暮らしで失敗するのは「キツイ野良仕事をする体力ではなく、当然減るであろう収入を持ちこたえる資金力でもなく、村社会での付き合い方だ」と。
 確かに都会の喧騒を離れ静かな生活を求めて来たのに、田舎は交流の場が異常に多い。部落の集会、農協、婦人会、ナントカ部会に協議会・協会・総会等々・・・特に酒席が多いのです。
 集まっては酒、話し終えては酒です。それでも一昔前に比べたら回数は相当減ってきたそうです。理由としては農家より勤め人が増えたのと、足代わりにクルマを利用するようになったからですが、それよりも若い者がそういう慣習を敬遠し始めているのが現実のようです。
  しかしながら私の場合は、ソノ一昔前の田舎を求めてやって来たような所がありまして・・・実は私はお酒が大好きで、男のクセにおしゃべりも好きだったのです。
 
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(何かにつけては、お酒お酒お酒・・・ また今日も「かんぱーい」)

第3章 資料実践編(その4) 村社会との付き合い②
           〜生きていくのに田舎も都会もない〜
  お酒が好きで結構強いという私の特技というか趣味というか、ソレが此処へ来て活かされるとは思いもよりませんでした。
 実際どこへ行ってもノンベエはいるもので、生まれも育ちも異なり年齢や言葉さえも違う者同士が、酒好きという唯一の共通点で打ち解けあい心を通わす。
 私がこの村に馴染んでいくのにそう時間はかかりませんでした。
 
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(上の写真は消防団の連中と〜また彼らが飲むんだこれが・・・左端がわたくし)
  しかし本当に静かな田舎暮らしを求めて来たのなら、村の人達とは一線を置いて生活するのも良いと思いますし、実際にそうしている人もいます。
よく「郷に入らば郷に従え」と言いますが(私もここへ来て言われた事があります。あんまり態度がデカイから)自分の人生です。自分と愛する家族を第一に考えて行動するべきです。もちろん他人に迷惑をかけない範囲でですが。

 田舎の人が一番恐れるのは村八分、いわゆる仲間はずれです。
 
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 (村八分=仲間はずれ即ち葬式と火事しか村の人達から手を貸してもらえない)
 村社会は相互依存型社会で、仕事も生活も全て依存し合います。お互い助け合って生きているのです。
それゆえ一人だけ違う言動を取れば、和を乱すという事になるのでしょう。
 何をするにも部落単位「赤信号皆で渡れば怖くない」ということで個人行動を嫌います。その方が責任 の所在がウヤムヤになりますからね。
 
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しかし、逆に行政側もソレを見越して農家を“いっぱひとからげ”で見て利用したりします。
まァこれも一昔前の体質で世代交代とともに変わっていくと思います。モチロンどちらが良いのかは一概には言えませんが・・・。
いずれにしろ個人主義の都会育ちには影響も無く、特に不自由は感じないと思います。付き合いも無理をせず、楽しくマイペースで暮らせば良いのです。
マイペースと簡単に言ってしまいましたが意外と難しいもので、何しろ相手がいるわけですから当然相手もマイペースかもしれません。
でも全く異なる地で生きて行こうと決心して来たわけですから精神的にもタフでなければダメです。それは都会で生きて行くのとそれほど変わらないはずですが・・・。
 
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 「男はタフでなければ生きて行けない やさしくなければ生きる資格が無い」    F・マーロー
         <未完>
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けっこう昔の文書なので拙い個所もありますが、原文のまま載せました。(書き換えるのも面倒なので)
田舎暮らしを始めるきっかけや実践編など参考になりましたでしょうか?
またnya*****さんの質問への回答にもなりましたでしょうか?
結局未完という中途半端な結末になったのも私らしいでしょ。ちなみに続編を書くつもりは全くありません・・・
 

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北国岩手も暖かくなり山々の新緑がまぶしい季節になって来ました。 
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それに連れて野良作業も忙しくなり、連日野菜苗の定植に掛かりっきりです。(と言いながら適当に息は抜いていますが)
近所では田植えも始まったようですよ。 
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私は田んぼはやっていませんが、今の時季岩手のお百姓さんは大忙しです。

午前中、果樹園に苦土石灰をまきました。
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 まくと言っても土ではなく、木そのものにまくのです。
なるべく化学農薬は控えたいので、あらゆる自然の防除法を試しているのです。
ホームセンターでも一袋(20kg)400円くらいで売っていますよ。これを一反歩(300坪)に二袋ほど葉に叩き付けるようにまきます。
大体花の開花時期と落下時期が良いようですが、私は忙しくて(面倒で)落下時しか使わない場合が多いです。
ここ2〜3年ほど使っているのですが、殺菌剤を全く使わなくてもほとんど病気は出ないようです。ただし私の果樹園には、山ブドウや病気に強い梨や果樹の品種が多いのですが・・・。
梨の葉っぱが真っ白になる位まきます。
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 今の所薬害もありません。
ブドウも真っ白に・・・ 
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ブドウは面積が少ないので、開花前と落花後の2回まいています。

本やネットで色々調べて実践していますが、あくまでも自己流なので専業農家の方は参考程度にして下さい。私も一応専業農家の端くれですが、産直のみ出荷の小面積多品目農家なので、一つ失敗しても被害は少ないのです。
家庭菜園で無農薬実践派の人は是非一度お試しあれ。
ただし万一不具合が起きても当方は一切責任を負いません。何しろ私は日本一の無責任農家ですからね・・・

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6本あるカラタチに一輪だけ花が咲きました。 
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植えて3年くらい経ったでしょうか、6本もあるのにたった一輪です。柑橘類は成長が遅いと聞いていましたが、これほど遅いとは思いませんでした。
これでは実が成るのはいつの事やら。せめてあの世に行く前には成って欲しいもんですが・・・。
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 カラタチは北限の柑橘と言われており、近所にも植えている人がいました。しかし苦味が有りとても食用にはならないそうです。
かなり鋭く強いトゲがあるので、昔は生垣にして獣や敵の侵入を防いだとも聞きました。

さあ今日は目の手術以降ようやくアルコールの解禁日です。
静岡の娘が気を利かしてカニをこんなに送ってくれました。
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 カニを腹いっぱい食べられるなんて何十年ぶりでしょう。目の手術をして良かったなぁ?
持つべきものはやはり娘ですね。息子たちはダメです、気が利かなくて・・・

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これでいいのだ!

眼の手術も無事終わり、ブログをお休みしている間に梅も桜も散ってしまいました。
岩手も一瞬で春を通り越してもう初夏の趣です。何しろ昨日今日の日中の気温は25度を超えて夏日ですからね。
今我が農園に咲いているのは
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 果樹園の梨の花と・・・
タンポポです・・・
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タンポポは農家にとっては雑草の部類に入るのでしょうが、草刈り機で刈ってしまうにはチョット忍びない気がしますね。

さてハウスで育苗中の花や野菜も大きく育ち、そろそろ畑に定植の時期となりました。
ちなみにハウス内はほとんど女房の仕事なので、目の手術は私にとって良い休養でした。
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眼医者からは「出来るだけ仕事は控えるように」と言われているのですが、現実にはそうは行きませんよね。
他に「運転も控えろ」「重たい物を持つな」「酒は飲むな」「温泉は入るな」などと言われていますが、本当に医者なんてのは勝手なことを言うもんです。患者の生活を考えていませんからね。
でもその中で「酒は飲むな」「温泉は入るな」の二つは実行しているのです。
共に私の大きな楽しみの一つなのですが、酒は手術後半月、温泉は一月入ってはいけないそうです。
温泉はともかく禁酒は続かないかと思っていたのですが、意外と平気でしたね。毎晩欠かさず呑(や)っていたのに、何と手術後今日まで一滴も飲まずしかも手も震えませんでした。私はアル中ではなかったと改めて実感した次第です。
しかしそれも5月5日には解禁で、今からその日を心待ちにしている今日この頃なのでした。

最後になりますが、この間に瀕死状態だった猫のチビがとうとう逝っちゃいました。 
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古いアルバムを引っ張り出して見ると、なんと1996年に拾われて我が家に来ていました。世紀を跨いで長生きしたのです。
女房は泣いていましたが、私は「22年間もず〜っと幸せな人生?が送れて良かったな」といった思いで悲哀の気持ちは無いですね。ウチに拾われて来て愛情いっぱいに育てられ、絶対に幸福に違いないですもの。
猫も人もソコソコに老いたら酷くならない内に死ぬ・・・これでイイのだ!

という事でまた『人物オーライ』のホームページからの再アップです。
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これでいいのだ!
手塚治虫・横山光輝・石森章太郎に続き、私の少年時代に夢と希望?を与え続けてくれた赤塚不二夫が亡くなったのは3年ほど前だったでしょうか。
黄金の30年代(西暦ではない、明治でもない)まだ幼なかった私の楽しみは、映画好きの母に連れられて見に行った映画それに漫画でした。
それまでの『少年』や『少年画報』『おもしろクラブ』などの月刊誌から、『少年サンデー』『少年マガジン」の週刊誌に時代は変わろうとしていた頃の事でした。
赤塚不二夫が『おそ松くん』で鮮烈にメジャーデビューしたのです。
六つ子の主人公と多彩な登場人物とそこから生れる流行語は、子供たちの人気を独占しました。とくに脇役イヤミの「シェーーッ」は大人の世界にも蔓延し、社会現象にまでなりました。
晩年はアル中になり新しい作品も書かずダラダラと余生を送っていたようですが、それで良かったような気がします。
過去の印税で生活には困らなかったでしょうし、好きなお酒を毎日飲みながら面倒な仕事はせず、好きな事だけやって自由に生きて死んだ。うらやましい人生でしたね。これでイイのだ!
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2010年6月に載せた物を原文のまま掲載しました。
なんだか死んだチビと赤塚不二夫がダブって見えて、私の死生観が垣間見えますね。

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突然ですが、少しの間ブログを休止します。
明日目の手術をして、10日後に2回目の手術です。
(大した手術ではないのでお気遣いや心配ご無用!)

5月には復帰できると思います。

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