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江戸時代の宿について

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「東海道五十三次・赤坂」(広重画)
ここに描かれている旅館は、現在も旅館を営業しています。昔は「鯉屋」という屋号だったというが今は「大橋屋」という。赤坂宿は豊橋(昔は吉田)の西にあります。享保18年(1733)に記録されたものに、町裏も合わせて家数は400軒で、その内、旅籠屋は83軒となっています。
左手は風呂から上がったばかりでしょうか、それに食事を終えた泊り客に按摩が呼ばれており、右手の布団部屋では飯盛女が化粧しています。中央の蘇鉄は、近くの浄泉寺に移されて今も繁っているという。  

江戸時代の宿について

江戸時代の庶民の宿には、木賃宿(きちんやど)と旅籠屋(はたごや)があり、旅籠屋には平旅籠と飯盛旅籠の二つがあった。
木賃宿というのは、米とか糒(ほしい)を持って旅する人に、薪代を払って煮炊きする宿のことで、江戸初期以前は、ほとんどこういった宿であったが、元禄時代(1688-1704)ともなると旅籠屋が宿屋の中心形態になっていったようです。
宿駅に遊女が存在したことは、平安時代の紀行文でもわかるが、幕府は島原や吉原といった公認遊廓以外の宿駅に、遊女を置くことは禁じていた。その抜け道が飯盛女である。本来は食事の給仕や雑務であるのだが、夜には客の求めにも応じた。
もっとも女性客でも安心して泊まれる平旅籠もあったようで、文政頃(1818-30)の旅籠代は2食付き150〜200文くらい。宿が混んでいれば相部屋となり、それも男女入れ込みで、旅人の勝手は許されなかったという。
東海道も中山道も江戸日本橋を起点に京三条大橋を上がりとする。東海道の500キロより中仙道のほうが40キロほど長く、道も大変だったが、東海道は大井川の増水でしばしば通行止めになったから確実に計算できる中山道を利用するのも多かった。昔の男は一日10里歩いたというから凄い。

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は享和2年(1802)から7年間にわたって書き継がれたベストセラーである。弥次郎兵衛、喜多八が愚行を繰り返して、読者が優越感に浸って部数を伸ばした。「膝栗毛」とは膝を栗毛馬の代わりとすること、すなわち徒歩の意味。
東海道53次、中仙道69次と、「宿」と呼ばないのは、宿場が公用の荷物の継ぎ立てを使命としたことによる。「直送」ではなく、次の宿場までの人馬の費用は各宿場に夫役として負わされていた。
「本陣」「脇本陣」は個人の屋敷で旅籠ではない。大名、旗本といった身分の高い者だけが利用する。本陣に宿場の名を冠するのは俗称で、例えば「草津本陣」ではなく「田中七左衛門本陣」というのが正しい。

庶民が旅に必ず所持しなければならないのが、檀那寺が発行する往来手形と、名主・大家などが出す関所手形である。身元保証でもあるから金のありそうもない者が申請して、気楽に物見遊山など出来るはずもなかった。

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宿場ごとに飯盛り女がいることは、男にとってすばらしいことですね。しかし、1日十里も歩いて旅したら女どころじゃありませんね。私なら宿に着くなり飯食ってすぐ熟睡です。そのことを思えば今の旅は快適ですね。 削除

2007/6/5(火) 午後 0:31 [ 出来損ないの後輩 ] 返信する

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おっしゃるとおりですね。私もたまに古城址や山寺を歩くと運動不足を痛感します。昔の人はたいした食事でもないのに、感心します。今の私なら10里どころか1里でダウンですね。

2007/6/5(火) 午後 7:19 勢蔵 返信する

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