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「広瀬淡窓のこと」
儒学者・広瀬淡窓(1782〜1856)のことをお話します。
淡窓は幕府の天領であった豊後・日田の代官所の御用商人を父とする商家に生まれた。
彼は幼少の頃より神童と呼ばれ、その詩才と筆勢は周りの人々を驚嘆させたという。
しかし彼は幼少の頃から眼病を患うなど非常に病気がちな生活を送ったため、商家を継ぐことを断念せざるを得なくなり家業を弟に譲り、「咸宜園(かんぎえん)」という私塾を開きました。淡窓の言葉に、次のようなものがあります。
「人材を教育するのは、善の大なるものなり」
淡窓は、生涯を通じて、(後で述べますが)、この「善」という言葉に非常にこだわっています。
「咸宜」という言葉は、「ことごとくよろし」と読み、どんな階級の出身者でも学ぶことが出来るという意味を込めたと言われています。また学問というのは決して偏ってはならない、つまり「一つの学問に拘泥して、偏りがあってはいけない。広く様々な学問を学ぶべきである」という意味を、「咸宜」という言葉に込めたと言われています。さらに淡窓は塾生の個性を尊重する教育方針を持っていたことから「咸宜」と名を付けたと言われています。
「鋭きも鈍きも共に捨てがたし、錐と槌とに使いわけなば」
この淡窓の歌は個性尊重の一端を表している。
その独特の教育や学得が広く日本国中に知れ渡り、生涯に4600人以上の門弟を教えたということです。この門下生からは、幕末から明治時代にかけて活躍した、高野長英や大村益二郎らが羽ばたいていくことになります。
淡窓の残した日記は、『万善簿』と呼ばれています。淡窓は、自分の一日を振り返って、今日は善いことをしたと思える日には、白丸をつけ、そうでなければ黒丸をつけていったのです。
そして、この白丸と黒丸の差が1万個にしようという目標を立てていました。
それが『万善簿』の名前の由来です。ちょっと考えてみても、1万個といえば、仮に白丸ばかりをつけていったとしてもざっと28年はかかります。ましてや病弱の淡窓にとっては、さぞかし大変なことだっただろうと思われます。
淡窓が考えた善と悪との基準は、非常に厳しいもので、「怒ること」も悪行、「過食」つまり「食べ過ぎ」も悪行、「妄想する」ことでさえ悪行であり、はたまた「蚊を殺す」というようなことも、悪行として計算されています。現代の世の「悪」という基準とは、ほど遠いものであったと言えるでしょう。それほど、淡窓は己の生活態度を厳しく戒めていたのです。75歳で亡くなるまで1万6千個あまりの白丸が付いたという。
ときに私たちは、やってもみないうちから、「できるか、できないか」と悩むことがあります。どちらを選ぶこともできますが、「できる」を選べば、どんな大きな目標だって必ず到達できる確信が湧いてきますね。ともすればトライする前から「できやしない」と決め込んでしまいます。
きっと淡窓は、この世界を、「できる」という目でみていたのでしょうね。病弱な身体も、目標を持てばけっしてハンディとは見えませんから不思議です。いやむしろ励みになったに違いありません。目標を持つということは、すばらしいことですね。
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