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「大津事件の烈女」
(続きです)大津での事件は日本中を震撼させた。人々は何よりもロシアの報復を恐れた。明治天皇みずから西下され、神戸港に停泊中のロシア軍艦に見舞いに赴いた。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。
それでもロシア皇太子は次の予定である東京訪問するつもりであったが、父のロシア皇帝の命により、一週間後、神戸を出港して帰国した。
出港した翌日、京都府庁門前で、東京から来た女性がカミソリによって腹とのどを切り裂いて自殺した。彼女の名は畠山勇子(25歳)。千葉県鴨川生まれ、日本橋の魚商で住込み女中をしていた離婚歴のある女性である。
「・・日本国人の思ふ事少女に同じ故に、日本帝国へこの心をあらはす為、此度に至り候間、御察し下されたく候 内外の御方様 」というのが遺書の末尾である。
彼女は、父や伯父の影響で政治や歴史に興味を持ち、漢文の素養もあり、新聞は毎日全文に目を通していたという。奉公人にしてはインテリでまわりには政治の話する相手がおらず、煙たがられていたようです。実家の畠山家は資産家であったが、彼女が10歳の時に父が亡くなり、零落したのだという。
ロシア皇太子が、神戸港から帰国の途につくことになったと知った勇子は、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。「このまま帰られたのでは、わざわざ神戸まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と説いたという。伯父は「一介の平民のおなごが国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまい」と諫めたが、思い詰めた勇子は、奉公先を帰郷すると言って辞すると、汽車で京都へ旅立った。
小泉八雲とモラエス(元ポルトガル領事)の二人の外国人が彼女を絶賛する。ヨーロッパの個人主義とは逆の美を見せつけられて感動するわけです。
八雲は、サムライ女のあり方と、日本精神の発露を見たと「勇子追憶記」に書いた。モラエスもリスボンの雑誌に「是れ烈女の烈女たる所以(ゆえん)であって、勇子の霊魂の内に日本国民の大和魂と称する精華を生じたのである」と絶賛した。
彼女の墓は京都下京区・末慶寺にある。見上げるばかりの巨石に「烈女・畠山勇子の墓」と彫ってある。
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これは初耳
僕は大阪に住んでいるので
いつか行ってみます
2008/8/1(金) 午後 11:04
さも私も末慶寺にある墓に行ったかのようですが、行ってはいません。小泉八雲とモラエスは、末慶寺に足を運んでいます。
大東亜戦争までは学校生徒達が団体で墓にお参りしたそうですが、戦後は、ぱったりと途絶えたようです。
2008/8/2(土) 午前 0:44