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ジョン万次郎

ジョン万次郎の波乱の人生をなるべく短くまとめました。
 
天保12年(1841)、万次郎達5人の土佐の漁師は嵐にあって遭難、黒潮に流され五日半、太平洋に浮かぶ無人島・鳥島に漂着して、かもめや海草を食し143日間生活した。そしてアメリカの捕鯨船・ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。このとき万次郎、14歳であった。当時の捕鯨は鯨の肉は捨てられて(もったいないなあ)、皮だけが引き揚げられる。この皮を熱湯で煮て鯨油をとり、樽詰めにされて陸揚げした後にロウソクや石鹸、灯油に加工される。この年に全世界で操業していた捕鯨船は882隻、うちアメリカ船が652隻で、最盛期には年間1万頭も捕獲していた。
 ホイットフィールド船長は万次郎の利発さを気に入り、夕食後に読み書きを教えてくれるようになった。他の4人の漁師はホノルルで船を降ろされたが、船長は万次郎を養子にして、マサチューセッツ・フェアヘブンに連れて行く決心をしたのでした。
 万次郎はホイットフィールドの家から子供たちのための小さな学校に通うようになった。午前中は子供たちとともに学び、午後は家の内外の片づけや薪割りをする。万次郎の骨身を惜しまない働きぶりと、手際の良さは近所でも評判となった。
 1844年1月、万次郎はホイットフィールドに勧められて、バートレット・アカデミーの入学試験に挑戦し合格した。この学校は、捕鯨の操船に必要な高等数学、測量術、航海術などを教えていた。ここを卒業したら、航海士となり、船長になるのも夢ではないと、ホイットフィールドは説いた。
 土佐では寺小屋さえ通わせてもらえなかった万次郎だが、日が経つにつれ、万次郎は頭角をあらわしていき、皆は彼に一目置くようになった。校長は授業中に言った。このクラスでいちばん学業の進歩がめざましいのはジョン・マンだよ。皆、彼を見習うがいい。彼は英語を覚えてから3年経っていないんだ。君たちはまもなく、彼に学問のうえで追いついていけなくなるよ。 校長の予言通り、万次郎は翌年3月に、首席でバートレット校を卒業した。万次郎の腕はすぐに評価され、航海士として雇われた。1846年から数年間は、捕鯨船員として生活していたが、望郷の気持ち抑えがたく日本に帰る事を決意する。
 (津本陽氏の『椿と花水木』(新潮文庫)には、「万次郎にキャサリンという婚約者がいたが彼の留守中に亡くなり、これが日本への帰国を決意させた一因」と書かれているが、それが事実か否かは不明)
 帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアへ渡り、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た資金を持ってハワイに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。そして上海行きの商船に彼等と共に乗り込み、嘉永4年(1851)、琉球に上陸を図った。長期間尋問を受けたが、当時ペリーの来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ軍艦教授所教授に任命された。
 万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するためのに咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどく、まともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた。このときは西海岸まで。
 明治3年、普仏戦争視察団として大山巌らに同行し、アメリカ経由で欧州へ派遣されるため、一行がニューヨークに滞在したとき、フェアヘブンまで足を延ばして恩人のホイットフィールド船長と感激の再会を果たした。この時、万次郎は43歳、アメリカを出てから20年以上も経っていた。万次郎がホイットフィールド家のドアを叩くと、65歳になっていた老船長は、「俺の息子だ。ジョン・マンが帰ってきてくれたか」と言って、万次郎を抱きしめ、頬ずりをした。万次郎はあふれる涙を抑えることが出来なかった。
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人の運命は何処で変わるか解らないですね
万次郎が、日本にいた時から骨身を惜しまなく働く事を常にしていた事が
彼に新しい道を次々と開かせたのでしょう
私もこれをきっかけによりいっそう精進してみます

2011/2/7(月) 午前 10:03 [ 迷人 ]

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万次郎の帰国は時代が彼を必要としていたので、幸運な面もありました。もう少し時代がさかのぼっていれば国禁を犯したとして処罰されるか、生涯幽閉されたことでしょう。
ペリーの来航の大きな目的は、捕鯨船が水や食料を求めていたからなんですね。
彼の生まれた土佐の中浜を訪れたことがありますが、小さな漁港です。嵐に遭って遭難しなければ、貧乏漁師として名も知られぬ人生を終えたのでしょうが、運命とは奇々怪々、面白いものです。彼の努力精進もまた運命に組み込まれていたのでしょう。

2011/2/7(月) 午後 6:14 勢蔵

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ジョン万次郎物語は当方のブログにも、記事にしたことがあります。
日米開国の祖であり、彼の帰国後の活躍は明治維新後の活躍からも、充分に納得させられます。
今日でも日米両家のお付き合いが、ある事の事実ははなはだ愉快であり、お孫さん同士ニュースも微笑ましい限りです。

2011/2/8(火) 午前 3:38 [ - ]

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長くならないように、はしょってまとめたので言い足りない部分がいっぱいあります。
そのひとつ、ホイットフィールド家と中浜家の子孫の方のお付き合いは心温まるものがあります。
咸臨丸には日本人だけではなく米国軍人1人と米人熟練水夫10人も乗り込んでいて、サンフランシスコまでの航海は、彼らに負うところが大きいですが、万次郎は彼らから大きい評価を受けていますね。言葉はネイティブの発音ですし、操船もプロですから当然ですね。ですから彼は他の日本人乗組員の妬みを受けないようにとても神経を配ったんだそうです。
土佐の河田小龍が、万次郎からの取り調べ報告書をまとめています。
この河田という人は竜馬と近いですから、竜馬の世界観というのは万次郎の影響が実に大きいと思いますね。

2011/2/8(火) 午前 6:28 勢蔵

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本で読んだことがあります、いいときにいい人物が現れたのですね、彼の才能は日本のためになりましたが、彼が本当に幸せだったか、そんな思いも時として考えたことがあります。

2011/2/12(土) 午前 8:30 [ medaka842 ]

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当時の農民や漁民は、ワルで勘当でもされなければ郷里を離れることはありませんが、彼は懸命に運命を切り開いていったと思います。「幸せ」は自分が思うもの、苦労しても振り返った人生に充実感があれば、幸せだったと思いますが、彼の胸の内まではわかりません。

2011/2/12(土) 午後 5:52 勢蔵

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