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『忠臣蔵七段目謀酔之段』
「仮名手本忠臣蔵」の七段目が演じられている芝居小屋の内景(鳥居清忠・筆) 客の多くが舞台を観ていないですが、これは客の様相を描いたものなのでしょうね。リアルに描いたら後姿ばかりになってしまいます。 「芝居見学」
江戸時代の人々にとって、様々な娯楽がある現代とは異なり、芝居見物(歌舞伎)は想像以上に大きな楽しみであったようです。 幕府の奧医師で蘭方医だった桂川甫周の二女・今泉みね(1855〜1937)の、晩年の昔語りを記録した『名ごりの夢』(東洋文庫)の中には、「あのころの芝居見物」として、若い頃の芝居見物の楽しさが記されています。年齢からすると彼女の娘時代は明治の初めでしょうが、江戸時代を通して女性の芝居見物に対する思い、あこがれは共通のものだったと思われます。(余談ですが、福沢諭吉は、甫周の紹介文を持って、軍艦奉行並の木村喜毅を訪ねて、咸臨丸の一員になっています) 「お芝居といえばずいぶんたのしみなもので、その前夜などはほとんど眠られませんでした。一度は床に入ってみますけれど、いつの間にかそうっと起き出して化粧部屋にゆきます。百目蝋燭の灯もゆらゆらと、七へんも十ぺんもふいてはまたつけ、ふいてはまたつけ大へんです。やがて七ツどき(午前4時頃)にもなりましょうか。みんなを起こしてそれからが公然のお支度になります。それ着物それ帶といったように、皆の者はあちらにゆき、こちらにゆき、立ったりすわったりにぎやかなこと、にぎやかなこと。そのうち供まわりの方の支度もできまして、いよいよ浅草へ参ります。大勢の時は屋形舟でございます。船つき場へはちゃんときまった茶屋から出迎えがありますが、手に手に屋号の紋入り提灯を持って「ごきげんよう、いらっしゃいませ」といかにも丁寧に、手を添えて船から上げてくれます。またさじきの中におすもじ(お寿司)やお菓子や水菓子(果物)などが運ばれてみんなで賑やかにいただきましたが、上気して喉がかわいた時の水菓子のおいしさは今もおぼえています。(以下略)」 芝居見物そのものの楽しみは勿論ですが、それに付帯する楽しみが多いから芝居行きは一大イベントとなる。おしゃれする楽しみ、舟で行く楽しみ、茶屋のサービス、食べ物の期待、客のファンションをながめる楽しみなど。
江戸での芝居興行は、明け六ツ(午前6時ごろ)から、暮七ツ半(午後5時ごろ)までが原則でした。といいますのは火事を恐れて、灯火は使わなかったからです。 ですから芝居見物に行く日は一日がかりだったようです。早い時間の舞台は、相撲同様に下位の役者による出し物でした。(ちなみに、相撲興行に女性の見物が許されるようになったのは明治になってからです) 女性の好きなものに、「芝居、こんにゃく、芋、カボチャ」と、筆頭に挙げられるから、芝居見物は女性にとって、とても大きな娯楽であり、楽しみであったのでしょう。 下位の役者の出し物が終えると、それから上位の役者の二部構成の芝居で、一番目が時代物、二番目が世話物と決まっていたという。前者が江戸時代以前の公卿あるいは武家物、後者が現代劇つまり町人の世界の物語。 く 見物客には芝居茶屋を通して入る上級の客と、木戸から入る一般の客があり、上級客の見物席は棧敷(さじき)で、一般客は土間が普通でした。大入りの時の大衆席はすし詰めで、客の入りが悪いと毎日料金が下がっていったという。ちなみに木戸銭ですが、立見席が16文、土間席(下席)が100文、土間席の上席が132文、茶屋を通す桟敷席(女性だけなら6人くらい入る)は 銀25匁(60匁で1両)で、さすがに高い。 棧敷の桝の客には茶菓や食事がでるのは、大相撲と同じ。更に最上級の客は芝居がはねると、茶屋の二階座敷で、夕食、酒宴が待っている。
江戸歌舞伎の特色は荒事。武勇の荒々しさを表現するために扮装と演技とを誇張し、様式化されていった。いかにも武家の都にふさわしいが、これに対して京・大坂の上方歌舞伎は、男女間の色事を写実的に表現した。もちろん今では両者が合わさったものになっている。 |

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