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フジテレビ系列で3月に放映された『大奥 最終章』の豪華絢爛たる衣装は1億円を超えるという。もっとも、私はチラッと観ただけなんですが・・・。 「大奥」について調べてみました。 江戸本丸御殿は幕府の政庁に当たる「表」、将軍が執務を行ない普段の生活空間でもある「中奥」、将軍の正妻や側室、女中たちのいる「大奥」の三つに別れていました。更に大奥は本丸、二の丸、西の丸にあり、基本的に、本丸大奥は将軍夫妻、二の丸は将軍生母や元将軍側室、西の丸は世子夫妻か大御所夫妻が住んでいて、以前に大河ドラマ「篤姫」で、姑である将軍生母が御台所・篤姫と廊下で出遇って詰問する場面があったが、有り得ないことである。住んでいる処が違うのである。 大奥は、1人の将軍に500人から1000人もの女が仕えるという世界でも類を見ない巨大なハーレムです。女中達は完全な住み込み制で、旗本や御家人の娘から成る御目見以上(将軍や御台所にお目通りを許されていた)の女中達は親の死に目以外には外に出ることを許されない一生奉公だった。御目見以上の役職者(200名以上いたという)にまた、3〜4人のひら女中が付くから大きな組織となってしまうのである。奥女中達は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。但し、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。年間の経費が20万石という膨大な予算を背景に、豪華絢爛の生活が営まれていた。大雑把ですが、一石=1両=約10万円として計算してみてください。 将軍が寝所に入るのは通常、亥の刻(10時頃)で、屏風を立てた隣ではお年寄りや中臈が不寝番で待機し、将軍の呼び出しがあればいつでも応じる態勢にあった。もっとも将軍は正夫人である御台所と寝所をともにすることはめったになかったという。正夫人から生まれた後継者は3代・家光だけですね。 正夫人は27歳になると、「おしとねすべり」という妙な願いを出します。要するに、「もう歳ですから同衾することを遠慮します」というもの。本人の意思ではなく慣習です。江戸時代は町人の社会でも20歳を超えれば「年増」、20代半ばになれば「大年増」と呼ばれていた時代です。将軍はこの日を待ってましたとばかり活躍がはじまる。基本的に側室は将軍付の中臈や上臈のなかから選ばれる。指名を受けた者は、「おしとね御免」といって、拒否権が与えられているが、無上の名誉を拒否する者はまずいなかったという。 同衾すれば文字どうり「お手つき様」と呼ばれ、懐妊すれば「お腹様」となり正式に側室となる。その後、自らの産んだ子供が世嗣と定まれば将軍生母と呼ばれるようになり、大きな実権を握る事ができた。 「お手つき」の寝所では不寝番の付添いの者が一部始終を年寄りに報告する義務があった。 「昨夜は格別の御打ち解けにて××の物語これあり、×回御戯れこれあり候」、といった具合である。これはお世継ぎを決めるときの証拠固めと、同衾中に将軍を口説いて、お墨付きをもらうことを防ぐためである。将軍は複数の側室を持つわけであるから重要な慣習である。しかし聞き耳を立てられている性生活は異常ですな。まあ、ハーレムで美女が選り取り見取りですから、そのぐらいはどうてことありません。 11代将軍・家斉は側室40人、55人の子供が産まれたそうです。いやはや恐れ入りやの鬼子母神です。満年齢13歳で11代将軍となり、満67歳で他界するまで、将軍在位50年間の中で病臥したのは数回の感冒のみ。毎晩のように浴びるように飲んでも酔わなかったというタフマンだったと言われている。
彼は生姜が大好物で、一年中毎日欠かさず食べていたという。生姜は精力増強に作用するという。また、精力増強のためにオットセイのペニスを粉末にしたものを愛用していたので、陰で「オットセイ将軍」とも呼ばれていたとか。
余談ですがオットセイはアイヌ語で「オンネプ」とよばれていた。それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」(おっとせい)と呼ばれ、精力剤とされていた。後にペニスの部位だけを指す「膃肭臍(おっとせい)」という生薬名が、この動物全体を指す言葉になった。
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勢蔵さんの後ろ姿 誰かに似ていると思ったら、オットセイににていますなぁ、、。 スタミナ抜群な 立ち振る舞い 優しい愛嬌のある顔は
ホント オットセイの親分の様です。これからも 高座 楽しみにしています!!
2019/5/12(日) 午前 9:05 [ kei***** ]
> keiさん コメントありがとうございます。
私はオットセイですか。何とも返す言葉はありません。
2019/5/13(月) 午後 7:07