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下肥の話

 
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最初に断っておきますが、尾篭な話でいい話ではありません。それでもよろしかったら、進んでください。
 伝統的な京野菜に「聖護院」の名が付けられたものが多い。
「聖護院大根」、「聖護院かぶら」など有名である。今でもあるが「聖護院」という実際の寺から派生した村の名で、京都市の東北部にあり、現在の左京区一帯という。銀閣寺・南禅寺・下鴨神社・平安神宮などがありますね。巨大な大根、かぶらなどを育てるには、土地が肥えていたこともあろうが、京の多くの人口があって、多くの下肥によって支えられたのである。畑を耕す時、施肥、芽が出てからどんどん追肥を必要とする。タケノコは、秋になると、翌春のために林一面に下肥を撒いたというから、臭いも相当なものだったろう。
 こうした光景が見られなくなった今、下肥時代の野菜の味を知っている人にいわせると、すべての野菜の味がどんどん薄くなっているそうです。

   私の子供の頃まで、多くの畑には下肥が撒かれていた。
  難点は、あの臭いと、寄生虫ですね。糞尿が化学肥料に替わるまで、ほとんどの  人が腹に虫を飼っていた。
 物心付いた頃だから保育園時代の頃だったと思う。尻がかゆくて、しきりにかくのだが収まらない。パンツを脱いでみると、20センチくらいの真っ白いミミズのような虫がうごめいていたことがあった。回虫である。卵が野菜について口から身体に入り、腸を根城にして栄養満点の半消化物を食料にして成長するのである。
 下肥時代は、一人数匹なんてのは当たり前で、数十匹もの回虫がうごめいていた人もあったという。いつも虫下しの薬を飲んでいた覚えがあります。中には胃に登って胃けいれんを引き起こし、嘔吐したら回虫が出てきたという話も聞いたことがある。今の若い人には想像を絶する話でしょうな。
 今でも下肥にたよって農業を営んでいるアジアの国は、100%の感染率だという。以前、中国の烏龍茶畑の農民が、「肥料は下肥が一番ですよ、ワハハッ」と糞尿を撒いていたシーンをTVでみたことがありますが、お茶は熱を加えるから心配いりませんね。
 寄生虫は回虫だけではなく、十二指腸虫(鉤虫が本名)、鞭虫。糞線虫、曉虫、条虫(サナダ虫)などがあるが、大小、おぞましい虫ばかりですね。真田紐のようであるからサナダ虫と呼ばれている虫は、最長10メートルなんてのもあったという。現代はわざと寄生虫を体内に入れて、「寄生虫ダイエット」なるものがあると聞いて のけぞってしまった。
 人間は、普通口から摂る食べ物の栄養分の20%程度しか吸収しないという。ダイエットが進まない人は、若干、栄養吸収機能が優れているのでしょうか。だから糞尿にはまだ豊かな有効成分が残されている。中国、韓国、沖縄など(一部であるが)では、便所の下に豚が飼われていて人間の糞尿を豚が食す構造になっていた。「人糞を食った豚など食べられるか」、という気にもなるが、大量の成長促進剤やホルモン、抗生物質を食わさせられた豚よりもマシかもしれない。
 
 江戸時代、長屋の共同便所の糞尿は、江戸近郊の農家が買っていった。代金は長屋の管理人である大家に払った。一樽あたり25文くらい。「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」という川柳があるが、この代金を貯めて大家は店子に餅を振る舞うのが毎年暮れの恒例だったという。
 集めた下肥を積んだ舟を「葛西舟」と呼んでいたそうです。葛西の百姓が権利を持っていたからだそうで、もっとも庶民は「糞舟」と呼んでいた。舟溜りの三味線堀 (御徒町駅の東あたり)では、いつも葛西舟が、回収した肥を積み込んでいたとか。
 「いいこえを三味線堀で鼻へきき」 この川柳が気に入っています。
臭い話を、よく読んでくださいました。昔の郷愁でした。

ラムネ

 
ラムネとは、ビー玉で栓をした瓶入りの炭酸飲料。明治5年の54日に日本で初めてラムネが製造販売されたという。
ラムネという名称は、イギリスからもたらされたレモネードが転訛したもの。ところでラムネ瓶の栓に使われるビー玉。その名前の由来は何でしょう。
 昔はガラスのことをポルトガル語で「ビードロ」と呼んでいました。だからガラスの玉は「ビードロの玉」。
 それが「ビー玉」に変化していったという説が一般的です。
 
ところが別の説もあります。
 当時のガラス玉の製造技術はまだ拙く、玉のサイズがまちまちでラムネ瓶の栓として使えない不良品も大量に発生。
 この不良品をどうしたものか?捨てるにはもったいない。
 そこで大阪の商人が考え出したのは、子どものおもちゃとして売ること。
 ラムネ瓶に使えるガラス玉をアルファベットのAを使って「A玉」とし、規格外の玉をアルファベットのBを使って「B玉」と名付け、全国の駄菓子屋に売り込んだのです。
 眺めているだけで楽しくなる透明で美しいビー玉は、子どもたちの心を鷲掴み。
 私もずいぶんビー玉で遊んだ記憶があります。
昭和時代には全国各地の公園や路地裏でビー玉遊びに興じる元気な子どもたちの姿が見られました。
      (以上参考・FM FUKUOKA
 
戦艦大和には「ラムネ製造機」があったのはたいへん有名な話です。消火用の二酸化炭素発生装置が元になったもので、大和以外の大型艦でもその装置を装備していればラムネ作りに転用することが可能だったそうです。甘くて爽やかな清涼飲料水は嗜好品として将兵たちに大好評で、ひとときの安らぎをもたらしたといいます。
 
「ビンの飲み物は色々あるが、ラムネてぇのはえらいねえ」
「くだらねえことで関心するんじゃねえよ、ラムネがえらいわけねえだろ」
「えらいよォ、あの玉一つでパァーと、ふっとうするのをおさえてるんだろ、俺なんざ、二つあってもおさえきれねえ」
 

ローリングストーンズ

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 以前に載せた稿の焼き直しです。英国のロックバンド『ローリングストーンズ』は、1960年代前半から現在まで半世紀以上、第一線で活躍を続ける、ロック界の最高峰に君臨するバンドであると言ってもいいでしょう
 途中、メンバーの脱退、加入はあったものの、世界的人気を誇るバンドが一度も解散せずに半世紀も転がり続いているのは、極めて異例な事です。

 ローリングストーンズは、よくビートルズと比較されますね。揃いのスーツを着た初期ビートルズ=優等生という印象に対して、ラフなスタイルで長髪のストーンズ=不良というイメージを打ち出したわけなんですが、これは、お互いのマネージャーが宣伝のために作り上げたイメージだったようで、水と油に見える両グループは、とても仲がよかったようです。というのも、アマのロックグループのストーンズをプロモーターに推薦したのは、ビートルズなんだそうです。そのビートルズでさえ、1970年に解散しているわけですから、ローリングストーンズが、いかに頑張っているのかが、よく判ります。
 プロモーション戦略としての「不良」というイメージであったストーンズですが、1960年代後半からそれを地で行くようになる。メンバーの度重なる麻薬所持による逮捕や裁判、1970年代半ばにはカナダの首相夫人とのゴシップなど、スキャンダルにまみれます。
 
 英国で生まれた諺に、「転石 苔(コケ)を生ぜず」A rolling stone gathers no moss)というのがある。商売替えや、腰が定まらずに、ひんぱんに引越ししていてはお金がたまらないといった意味で、伝統を重んじ、安定を大切にしたイギリス人の考え方をあらわしている。
 「ローリングストーンズ」は、この諺から引用、イギリス流に「風来坊」を自称して名をこしらえたのですが、この諺が米国に渡ると新しい解釈が生まれた。転がり続ければ苔がつかない、錆び付かないということで、動いていれば新鮮であるという意味で捉えられてしまった。
 「情けは人のためならず」は、若い人の多くは捉え方が違うよ、と言えても、この米国流の解釈は、誤りでは片付けられなくなってしまった。すでに英米両方の意味をあげている英和辞書がいくつもある。
 浅野ゆう子が『転がる女にコケはつかない』というエッセイ集を出したし、石川さゆりの曲『転がる石』は自分の娘に伝える歌で「転がって、ぶつかりながら自分の道をさがしてほしい」というもので、日本では米国流解釈が主流になってきています。
 諺は表現が簡潔だから、どうしても、意味のどんでん返しがおこりやすいですね
 
ヘリコプターという名称。ほとんどの人は「ヘリ」+「コプター」だと思っているでしょうが、正しくは「ヘリコ」+「プター」なんだそうです。ラテン語由来の言葉で、「ヘリコ」は螺旋、「プター」はを意味します。ラえもんのタケコプターもタケプターのほうがふさわしいのかもしれませんが、今さら変えられても困りますね。
 コーヒー豆のブランド名であり、アフリカ大陸最高峰の山・「キリマンジャロ」は、スワヒリ語で「山」を意味する「kilima」と「輝く」という意味の「njaro」の組み合わせのため、キリマ・ンジャロという区切りになる。「“ん”からなんてそんな区切りアリなんか……」と驚きを隠せない人が多いようです。
 
さらに日本語でも、「登竜門」は「竜門」という中国黄河の急流が由来のため、「登・竜門」と区切るのが正解。
「綺羅星のごとく」は「綺羅・星のごとく」と区切る
耳の中にある「三半規管」は、3つの「半規管」の総称なので「三・半規管」が正しい区切り方になる。
人名で意外と間違いやすいのが「清少納言」。こちらは「清原」という姓と「少納言」という官職名からとったペンネームなので、「清・少納言」が正しい区切り。
さらに、日本では「アウン・サン・スーチー」として知られるミャンマーの民主化運動指導者だが、ミャンマーには姓名の区別がないため、「アウンサンスーチ」と区切らないのが正しい読み方なんだそうです。
 
かつてのハワイ王国・国王「カメハメハ大王」は、「カ・メハメハ」
ニュートリノは、neutral-inoが短縮して neutrinoになったようで、すなわち「ニュートラル=電気を帯びていない」「イノ=(イタリア語で)小さい」 という意味の名前を持った、素粒子のひとつで、したがって「ニュート・リノ」と区切る。
 
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「トリケラトプス」は恐竜ですね。
tri(3)+cerat()+ops()」から「3本の角を持つ顔」を意味しており 「トリ・ケラト・プス」 
「プリマドンナ」は、オペラの主役となる女性歌手を言うが「プリマ・ドンナ」(イタリア語: Prima donna)である。
 
「ニュージーランド」は英語で書くと「New Zealand」ですから、ニュージー・ランドではありません。新しいジーランドですから、ただの「ジーランド」という場所があります。オランダのゼーラント州(Zeeland)にちなんでいるそうです。オランダ東インド会社に勤めていたエイベル・タズマンが1642年に発見しました。アメリカ大陸もそうですが、原住民が暮らしているのに「発見」というのはどうも違和感があります。ちなみに日本人のなかには、ニュー・ジーランドじゃなくて、ニュージー・ランドだと思っている人がけっこう多いみたいです。これはきっとニュージーランドを略するときに「NZ」や「ニュージー」と略されるからですね。
 
「アカペラ」は「ア・カペラ」です。(イタリア語 a cappella) 簡素化された教会音楽のことで、そこから転じて、教会音楽に限らず声楽だけで合唱・重唱を行うことになり、一般的に「伴奏なしで歌う」ことを指すようになった。
 都市名では「クアラルンプール」が「クアラ・ルンプール」、「ウラジオストク」⇒「ウラジ・オストク」、西インド諸島の「プエルトリコ」は「プエルト・リコ」。
 調べれば、まだあると思います。
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左から副使・村垣淡路守範正(48)、正使・新見豊前守正興(40)、目付・小栗豊後守忠順(34
「日米修交通商条約批准使節」について 

 1860年、幕府は、日米条約の批准書の交換のため正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗豊後守忠順の3人を使節として正式にアメリカに派遣しました。この使節はアメリカ政府が提供した軍艦ポーハタン(日本来航時のペリー提督の旗艦)に乗船しました。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎が乗る咸臨丸はサンフランシスコまでです。
 新見豊前守以下80人の一行は、咸臨丸をサンフランシスコに残し、南下して、パナマを汽車で横切り、再び船で北上してワシントン、ニューヨークを訪問し、使節団は大歓迎を受けます。328日に使節一行はワシントンでブキャナン大統領と謁見し、522日批准書の交換を終えます。ニューヨークではブロードウェイをパレードしますが、群集が鈴なりになってその様子を見つめました。そのときの様子を見た、詩人ウォルト・ホイットマンによる詩 「The Errand-Bearers(使命を帯びた者たち)が、1860627日付の「ニューヨーク・タイムズ」新聞に掲載されています。

 西方の海を越えて、ニホン国より此方へとやってきた、
謙譲にして、色浅黒く、二刀差しの使節たち。

無蓋のバルーシ(四輪馬車)に反りかえり、
無帽なまま、厳粛に 今日、マンハッタンの往来を乗りすぎる。
「創始の女神」がやってくる。
さまざまな言語を育んだ巣、かずかずの詩篇を遺した者、
古代の種族が 血色が鮮やかで内省的、うっとりとして瞑想に沈み、
熱い思いに身を焼きつつ、香料にむせるがごとく、
ゆったりと裳裾の長い衣服をまとい、日焼けした顔、
熱烈な魂、きらきら輝く瞳をそなえた、梵天の一族がやってくる

  (ホイットマン「草の葉」より 岩波文庫版中巻)

 新見豊前守は、時に40歳。今でいうイケメンです。その知性的で甘いマスクはアメリカ国民の人気を得たという。二千石の旗本で外国奉行であったから正使となっただけで、取り立てていうほどの政治的手腕があったわけではないが、「端麗なる容姿」によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたという。城中に上がると奥女中衆が騒ぎ立てるほどの美男子だったという。「陰間侍」という仇名がついていたそうで艶聞も多かったらしい。(宮永孝「万延元年の遣米使節団」による) 「陰間」というのは、美少年趣味のことで、若い頃にその対象にされたのかもしれない。戦国時代から江戸時代の侍社会ではめずらしいことではない。
 副使の村垣淡路守は、函館奉行、神奈川奉行、勘定奉行など歴任した能吏です。日本人に同行したアメリカ軍人は「日本人は常に日記を書き、短い文書、言葉など何でも写しとっていた、まさに蜂のように勉強をしていた」と書き記しているが、村垣も『遣米使節日記』なるものを遺していて、その中でアメリカ人の立ち振る舞いについて面白い記述をしています。ワシントン滞在初日に、一行が群衆に囲まれてアメリカ政府高官が出迎えてくれるウィラードホテルに到着したときの模様を、まるで江戸の祭日のようだ、どうして全くの遠慮もなく、あのように騒々しく振る舞うのか理解に苦しみ困惑する、更に(そのような様子に)時々、心から笑いが出てしまった、と記しています。
武家社会のセレモニィは厳粛に重々しく進行するのだが、米国では次から次へと握手を求められ、肩でもたたかれるから、おそらく礼も知らぬ奴らだと戸惑ったことであろう。また街をパレード中に、一行の馬車の中をのぞき込んだり、一行の服に触ったりと、その行儀の悪さに村垣は閉口している。

 アメリカ滞在中、一行は至るところで大規模なレセプション、晩餐会、舞踏会、パレードなどで出迎えられ、アメリカの大衆、新聞からは熱狂的といっていい歓迎を受けた。新見豊前守はじめ使節代表は、常に物静かで威厳があり、驚きや賞賛といったものを言葉にも表情にも出さない、と当時のアメリカの新聞は報じています。このような立ち振る舞いが、一行を覆っていた東洋の神秘というオーラを一層深めたのでしょう。
 特筆すべきは、ナンバー3の位置に小栗上野介 (当時は豊後守)がいたことでしょう。時に34歳。
 「目付」というは、それぞれがきちんと役目を果たしているか監察する役職ですね。英語では「スパイ」と訳されましたが、詳細な報告義務を担っていましたから、重なるところもあるのですが、ちょっと違いますね。トラブルに際しては、警察権を施行します。
 司馬遼太郎氏が著書「明治という国家」の中で、小栗を「明治の父」と呼んでもいいと高く評価しています。激動の幕末、小栗は後に幕府財政破綻の中、反対を押し切り、巨額の予算を要する横須賀造船所を建設した。彼は「あのドックができあがった上は、たとえ幕府が亡んでも"土蔵付き売家"という名誉を残すだろう」と言い、これが次の時代に大いに役立つことを知っていた。そして幕府の兵を洋式化しました。幕府が滅びるのを十分承知の上で、改革を断行し、非業の最期を遂げた幕府の俊秀でした。
 大隈重信は、「明治政府のやることは、みな小栗の模倣だ」と語ったと言います。日本の将来への不安を抱き、近代化のための幕府大改革に取り組みましたが、このような熱い思いを抱かせたのは、若き小栗がアメリカで見た西洋文明の驚くべき技術、工業力だったのです。
(参考、HP・日米交流150年史)

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