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			<title>林八千雄は、幕末の隠れた志士！</title>
			<description>高田藩御殿医・藤林梅仙の四男に生まれた林八千雄は、坂本竜馬や、土方歳三・達に10年ほど早く幕末維新に魁た幕末の烈士。
幕末の歴史に埋もれていた、林八千雄を平成の世に紹介したい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>林八千雄は、幕末の隠れた志士！</title>
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			<description>高田藩御殿医・藤林梅仙の四男に生まれた林八千雄は、坂本竜馬や、土方歳三・達に10年ほど早く幕末維新に魁た幕末の烈士。
幕末の歴史に埋もれていた、林八千雄を平成の世に紹介したい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617</link>
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		<item>
			<title>林八千雄が生きた、時代に来日していた外国人はどう見ていたか。　　　　　其の67</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/73/29608473/img_0?1254259981&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
世界は、甘くないぜよ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
林八千雄の波乱の生涯は終わった。&lt;br /&gt;
長いあいだありがとうございました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今後は、日本の植民地化を狙ってきた欧米列強に対して日本人の誇りを失わず、アジアで唯一支配されなかった我が国を当時、在留していた諸外国の外国人はその当時の日本人を、どういう視点で、或いはどういう感情で見ていたのか、書いて行きたいと思っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
植民地にされた東南アジアの諸国、中国を宋主国としていた朝鮮。日本が大東亜戦争に敗戦するまで&lt;br /&gt;
東南アジア諸国が解放されてからおよそ６５年が経過した。&lt;br /&gt;
もし、アジアに日本という小国が存在していなかったら、間違いなくアジアの地図は変わっていただろうし大げさでなく、強いては世界の勢力図も変わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本人の目線ではなく、在留していた、諸外国の高官・貿易商・が残した文献から紐説いていきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いま、日本の政治が大きく変わった。&lt;br /&gt;
これが、成功するのか失敗するのか、まだ全く未知数である。&lt;br /&gt;
堕落した官僚・政治家・金儲けだけに奔走して国家感を喪失した一流企業の経営者。&lt;br /&gt;
かつて、有していた日本人の良きモラルを、明治に在留して日本人を観察した外個人が見た、また記録された文書から拙いながら綴っていきたいと思っています。&lt;br /&gt;
よろしくお願いします。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29608473.html</link>
			<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 06:33:01 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄の晩年　　　　其の66</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/96/29515896/img_2?1253638264&quot; width=&quot;496&quot;&gt;&lt;br /&gt;
民部大蔵卿鉱山寮司二等現役中の、林八千雄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
其の46で、林八千雄の１０の謎を書いた。&lt;br /&gt;
（１）高田藩内において決闘を行い脱藩したことは事実か。&lt;br /&gt;
（２）福田理軒、内田五観（弥太郎）との関係。&lt;br /&gt;
（３）高野長英との関係。&lt;br /&gt;
（４）大塚同庵との出会い。&lt;br /&gt;
（５）佐倉藩との関係。&lt;br /&gt;
（６）太田播磨守との関係。&lt;br /&gt;
（７）幕府開成所の取締役、及び教授就任。&lt;br /&gt;
（８）一転して、同心になった理由。&lt;br /&gt;
（９）黒鍬の株を集めて頭取になったこと。&lt;br /&gt;
（１０）戊辰戦争後、謹慎処分となりその後に藩に高禄で召し抱えられていること。&lt;br /&gt;
　　　　明治新政府によって鉱山寮司として出仕する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
林八千雄の謎はすべて解明できたわけでは無かったが、足跡を辿ってきて小生の推論は確証のある物、或いはないものも含めて整合性はそう大きな間違いは無かったと思っている。&lt;br /&gt;
和製ジェームス・ボンドのような男と形容したことは地味な幕末裏面史に、何か面白いサブタイトルが無いかと思い、つけたのだが、八千雄の数奇な運命はあながち当たらずも遠からずの波乱万丈の一生であったと思うのである。&lt;br /&gt;
八千雄はただ闇雲に、走りまわった行為では決してないことは明確である。&lt;br /&gt;
時代の変化と年次ごとに役職、立場が変化していくことはある意志の背景が強く意識させられるのである。&lt;br /&gt;
高田榊原藩の意志、幕府の意志、佐倉藩の意志、それらが、複雑に作用して八千雄を押し上げていったものである。このような人物が他藩にも存在していたのかどうかは分からない。&lt;br /&gt;
現代に生きる我々は、変質しつつある日本人として、往時の日本人をただ、一個の人間として見るときに八千雄の人生をある種の痛快さを持って後年の私達は羨望をさえ感じるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
維新前夜から西南の役が終わるまでおよそ20年の年月が経過している。&lt;br /&gt;
欧米列強の脅威にさらされながら必死で国を興そうとした往時の日本人の心は、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に書かれているように国民が一丸となって国を守り、国を興そうとした濃縮された時間であった。&lt;br /&gt;
以降、140年の長きにわたって続いてきた官僚政治は今、大きな変革期を迎えた。&lt;br /&gt;
国を忘れ、国益よりも省益を優先させ自己の増殖と肥大のみを諮ってきた官僚支配がもしかしたらその終焉を迎える可能性が出てきた。&lt;br /&gt;
一方、戦後の、左翼偏向教育、自虐史観、日本悪者論の教育によってかつての日本人は大きく変質しつつある。&lt;br /&gt;
政治家、官僚の責任は重要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治8年、林八千雄は病を得て丹後生野鉱山より帰参する。&lt;br /&gt;
大蔵卿鉱山寮司二等現役中に波乱の生涯を閉じる。享年52歳であった。&lt;br /&gt;
命、旦夕が迫ったときに林八千雄の心に去来したものは何であったろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
継嗣・桑原雄造と妹人子は東京青山墓地に明治32年10月15日父八千雄の墓を建てる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29515896.html</link>
			<pubDate>Wed, 23 Sep 2009 01:51:04 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と、維新直後　　　　　　　其の65</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/98/29383998/img_0?1252684641&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
まだ、北越戦争の戦乱おさまらずに騒擾としとしていたこの時期に、林八千雄は池端邸において、&lt;br /&gt;
塾を開き、入門を希望する諸藩の武士は引きも切らず陸続と入門したが、入門を断らざるを得なかったという。&lt;br /&gt;
戦争の帰趨が定まらないうちは、内乱状態である。&lt;br /&gt;
当時の武士にとっては一朝時、事ある時は戦場に出陣しなければならないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江頭新平、島義勇らの佐賀の乱は明治７年、西南の役が明治１０年である。&lt;br /&gt;
西南の役が終わる１０年間までは、いつ政権が潰えるかという危険を内包して新政府は綱渡りのような極めて不安定な政権運営を行っていたのである。&lt;br /&gt;
北越戦争時はまだ国内は内乱状態であった。&lt;br /&gt;
そうした、状況のなかで八千雄の塾の入門者の希望が多かったことは肯けることである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
罪人になるかも知れぬ、運命のまだ定まらない林八千雄にとっては門弟たちを教授することは、張り合いであり、楽しみでもあったであろう。&lt;br /&gt;
高田藩の恭順が決まってから、八千雄は閉門蟄居を解かれ、一時、高田藩に帰参して新知行２００石を&lt;br /&gt;
賜るのである。&lt;br /&gt;
幕末の混乱時とはいえ更に４５０石を拝領する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
廃藩置県の年の明治５年に八千雄は民部大蔵に出仕することになる。&lt;br /&gt;
その経緯は、例によって書かれていない。&lt;br /&gt;
事実のみが記されているだけである。&lt;br /&gt;
八千雄はその後、太政官制度における明治新政府に出仕して5年間にわたって多忙を極めるのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29383998.html</link>
			<pubDate>Sat, 12 Sep 2009 00:57:21 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と雄造の明治維新　　　　其の64</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/22/29334722/img_0?1252341886&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/22/29334722/img_1?1252341886&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
上の画像は雄造が持参した、桑原家の旗印。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北越戦争の出陣を許された時に桑原雄造はこのとき、桑原家の旗印を着物の袖に縫い付け&lt;br /&gt;
高田榊原藩士・桑原家の誇りを片時も忘れないようにしていたという。&lt;br /&gt;
後年、戦争も終わり、雄造が北海道で事業も軌道にのった時に、先の鑑札とこの旗印、藩発行の藩札&lt;br /&gt;
新政府の発行した２０銭札を一幅の掛け軸にして家に遺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
余談であるが、最後の北越戦争で旧体制が戦争で負けたとはいえ、まだ、海のものか、山のものか判然としない時に太政官令で旧江戸幕府の貨幣の発行を差し止めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような場合、諸外国では、貨幣価値の大混乱が起き、庶民は自国の貨幣を信用せず、物価は高騰して大混乱をきたし、闇取引が横行して市場は収拾のつかない状態になる。&lt;br /&gt;
我が国でも３００年間続いた政治体制が崩壊したのだからそうなるのは当然であったろうと思うが、&lt;br /&gt;
しかし、日本人の不思議なところは、各藩が発行した、まるで神社の千社札のような薄っぺらな藩札を&lt;br /&gt;
庶民、町人はその薄っぺらな藩札を信用したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各藩においても大騒乱になるような大事件は起きていない。&lt;br /&gt;
大阪の米騒動などがあったが、また、各地で焼き打ち、米騒動は多少なりあったことは事実である。&lt;br /&gt;
このように当然、多少の混乱はあったろうが、国が崩壊して経済的な破綻をきたす例をいやと言うほど見てきた諸外国の要人、商人たちはあらためて、日本人の民度の高さとモラルの高さに驚いたということが書き残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高田藩においても混乱はあった。何千両かの使途不明金事件あって会計方の何人かが腹を切らされている。&lt;br /&gt;
新政府にとっては、諸外国との借款、国内の貨幣の統一、市場の安定を図ることは、喫緊の課題であった。&lt;br /&gt;
いつの時代の戦争であっても、例えば現代の企業買収、合併であっても相手方の帳簿、金の残高など資産状況を真っ先に把握する。&lt;br /&gt;
今も昔も変わらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本来、反逆者として糾弾されて罪人とされても不思議では無かった林八千雄が、新政府に急遽登用されたこともそうした背景があったのである。&lt;br /&gt;
雄藩といっても薩長土肥は所詮は外様であり、戦争を遂行していたのはそうした知識を持たない下級武士だったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２８０年間の蓄積があり、しかも精緻に完成されていた江戸幕府の全容を掌握するためには、旧幕臣の登用は不可欠であった。&lt;br /&gt;
政治のトップは薩長土肥が握っていても、行政はどこに何があるかを知っている旧幕臣に頼らざるを得なかったのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29334722.html</link>
			<pubDate>Tue, 08 Sep 2009 01:44:46 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と、雄造父子の、幕末高田藩　　　　其の63</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/06/29218206/img_0?1251566508&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
雄造が後年故郷の縁者に贈った鑑札の写真の裏書き&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八千雄と息子の雄造父子は生涯に於いて、そう度々会える機会は少なかったであろう。&lt;br /&gt;
父は、動乱の真っただ中でまさに東奔西走して席が定まる場所がないくらいの多忙である。&lt;br /&gt;
初婚の妻・菊女が生んだ継嗣の雄造を桑原百衛門の養子にして、日本中を奔走したのであるが離れていても常に気に掛けていたに相違ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父に対する溢れるような愛情と尊敬の念は、雄造が晩年になっても雄造の手記によく表れている。&lt;br /&gt;
父の背中を追うように、父に憧れ幼少時代を医学に、勉学に励んでいたのであろう。&lt;br /&gt;
それが、戊辰戦争が始まって矢も楯もたまらず、養父の小山玄龍の反対を押し切って医学を断念して&lt;br /&gt;
までも戊辰戦争に参加を願い出て許され、薩摩・長州・土佐・榊原病院四藩合同の野戦病院に勤務するのである。&lt;br /&gt;
これは、相当の覚悟がなければ出来ないことである。１６歳の沸騰したような熱い思いがなければ出来ない行為である。&lt;br /&gt;
桑原家と小山家との関係など様々な相応の軋轢があったことは想像に難くない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戊辰戦争の終結後に間もなく北海道に渡ったのもそうした背景があったからではないか。&lt;br /&gt;
日本で二番目に施設された小樽手宮から札幌桑園までの鉄道施設の工事、小樽港の建設に関与して&lt;br /&gt;
イギリスからの膨大な量のセメントの輸入、現国道三六号線につながる国道の建設など、若くして頭角を現して成功する。&lt;br /&gt;
富国強兵・殖産興業、の国策の元で北海道開拓の尖兵として懸命に働いた。&lt;br /&gt;
軍との関係も深まり、日露戦争時には軍の物資の調達業者として働いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
雄造にとって一六歳の時の戊辰戦争のことは雄造の原点であり、それ故よほどの思い入れがあったのであろう。&lt;br /&gt;
後年、二〇数枚残っていた鑑札の最後の一枚を写真に複製して、故郷高田のゆかりの縁者に裏書きを書いて贈呈している。&lt;br /&gt;
雄造にとって、生涯の誇りであったのである。&lt;br /&gt;
当時の時代の気分は現在の感覚ではなかなか理解できない。&lt;br /&gt;
北東アジアの一小国が唯一、欧米列強の脅威にさらされながら白人の植民地化に抵抗して、唯一我が国のみが存立出来たのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大航海時代から、世界の大部分を蹂躙してきたヨーロッパにとっても日本という国はは今まで経験してきた有色人種の民族とは異なっていた。&lt;br /&gt;
日露戦争は、世界の全ての国がヨーロッパ最大の陸軍国家に、誕生したばかりの東洋の一小国日本がロシアに勝てるなぞ想像だにできなかったのである。&lt;br /&gt;
歴史に”もし”は禁物であるが、日露の戦争で日本が敗北していた場合はアジアは現在の有りようとはかなり異なっているに違いない。&lt;br /&gt;
利害が対立する、例えばイギリスなど日本に協力的であったがよもや日本が勝つなど本気で思っていた&lt;br /&gt;
訳では無い。&lt;br /&gt;
この当時のこの気分や昂揚はあくまでこの時代に生きていた人々しか理解が出来ないであろう。&lt;br /&gt;
雄造は北越戦争から日露戦争に至るまでそうした時代に生きていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いま、この日本では自虐史観、戦前暗黒時代、日本悪者論がはびこっている。&lt;br /&gt;
太平洋戦争敗戦後の左翼偏向教育の影響である。&lt;br /&gt;
今度の選挙で大きく日本の進路が変わる可能性が出てきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「この日本は、日本人だけの国では無い」などと公言する極めて危うい人物が我が国の総理大臣になるやもしれぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家感や建国のそうした歴史の素養が無いリーダーが誕生することに慄然とするのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29218206.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Aug 2009 02:21:48 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と幕末の高田榊原藩　　　其の62</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/86/29163386/img_2?1251231270&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
高田藩においても先に書いたように、藩論がすんなりとまとまったわけでは無かった。&lt;br /&gt;
あくまで官軍を向かい討つ強硬派が存在していた。&lt;br /&gt;
藩論は紛糾したが、結局くは朝敵になる訳にはいかなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、江戸詰めの藩士・酒井良佐・渡辺千之助らはこれを不服として同志を募り&lt;br /&gt;
主家の榊を分解して「神木隊」「しんぼくたい」を結成した。&lt;br /&gt;
「神木隊」は彰義隊と共同することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
隊長は酒井良佐、隊士８６名を結成した。上野で官軍と戦った神木隊は１６名の戦死者を出して、酒井ら脱出組は奥州各地で転戦、榎本艦隊に投じて蝦夷にわたり明治２年５月１８日の五稜郭陥落まで交戦したのである。&lt;br /&gt;
同年３月２５日の宮古島海戦第二艦隊に（高雄）に乗りこんで出撃したが、機関の故障で斬り込むことはできなかった。酒井らは身柄を高田藩に護送され高田藩は朝廷の疑惑を一層深めたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、この場に林八千雄がいたら更に事態の深刻さは間違いなくその度を増して紛糾したであろう。&lt;br /&gt;
そうした、状況のなかで林八千雄が江戸に転職させられていたことは賢明な処置であった。&lt;br /&gt;
一つ間違えば、藩ぐるみ帰趨を決めなければならない状況に置かれたことにならざるを得なかったであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、この時に八千雄の継嗣・桑原雄造は小山玄龍のもとで医学を学んでいたが桑原家に戻り１６歳の明治元年戌辰４月に至り会津征討の軍（いくさ）が開始して養父に出陣を願うが、養父これを許さず、雄造は意を決して榊原薩摩・土佐・榊原病院の四藩合同病院に出願を願い出て直ちに許される。&lt;br /&gt;
やがてまだ、十六歳の患者診察方助役調合局の若干十六歳の桑原雄造に思いがけない大役が命令さられる。&lt;br /&gt;
仝１０月長州奇兵隊の傷病兵４０人を信州青柳駅の参謀本部まで雄造一人で人夫を率い護送する大役である。鑑札はいずれの国も自由に往来できる鑑札であった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29163386.html</link>
			<pubDate>Wed, 26 Aug 2009 05:14:30 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄、と幕末の高田榊原藩　　　其の61</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/90/29063990/img_0?1250633474&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
林八千雄は、忍藩兵とともに上野彰義隊に加わり負傷していたのだが、高田藩は会津征討の直前に官軍に&lt;br /&gt;
恭順して勤皇に属したために、八千雄は閉門蟄居を命じられる。&lt;br /&gt;
林八千雄は鳥羽伏見の戦いでも負傷して江戸に一時帰るが、禄高三百表を頂き大番組み頭となっている。&lt;br /&gt;
但し、戦地より帰っての後は謹慎処分となる。&lt;br /&gt;
謹慎は十二月に解かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高田藩に帰参して新知行二百石を賜る。&lt;br /&gt;
同3年巳、巳の年、東京に出て池端邸に起居して、塾を開くが諸藩の兵が陸続として集まり入営を希望して全てを教授することが叶わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この辺を巡る、高田藩の林八千雄に対する対応ぶりが如何にも右往左往ぶりといい、もてあましている様子が面白い。&lt;br /&gt;
例によって、書き残された物には淡々と結果のみしか書いていないが、押し迫ってきた官軍の対応に&lt;br /&gt;
お家の存続を賭けた土壇場で林八千雄の存在は、藩にとってよくよくその処遇に困った存在だったことは想像に難くない。&lt;br /&gt;
高田藩の周章狼狽ぶりが目に見えるようである。&lt;br /&gt;
その、対応には可笑しみさえ覚えるのである。&lt;br /&gt;
取り合えづ、手っとり早い方法は高田に置かずに江戸に逃がすことだったのであろう。&lt;br /&gt;
それも、高田藩上屋敷ではいかにもまずい。そこで旧知の池端邸に移したものと思われる。&lt;br /&gt;
５０歳近くになんなんとしていた、林八千雄にとっては為すべきことを為した満足感と、時代の終わりを見届けた思いで、意外と淡々と、却ってひょうひょうとした感慨で藩の言いなりに服したのではないかと&lt;br /&gt;
思うのである。&lt;br /&gt;
林八千雄にとっても、罪人として、切腹、死罪の可能性は十分にその条件を満たしていたのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29063990.html</link>
			<pubDate>Wed, 19 Aug 2009 07:11:14 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と、幕末の高田榊原藩　　　　其の60</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/13/29012513/img_0?1250316101&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
少しは、お兄ちゃんらしくしなくちゃア！また、叱られちゃうからね。ボク&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治元年（１８６７年）、会津若松城は落城した。&lt;br /&gt;
高田藩の従軍者は７６０人、そのうち７０人余りが戦病死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まさに、朝敵とされて官軍と闘うか、速やかに恭順の意を示し新政府につくかは、藩および、領民にとって死活問題であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしこの時期に幕府の要人を務めていた林八千雄がいたら、相当紛糾した事態に至った事は想像に難くない。。&lt;br /&gt;
おそらく、先の読める藩の上層部が、いち早くそうした判断をして早々に江戸上屋敷に転職させたものであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恭順から、戊辰戦争までの高田藩の混乱は残された膨大な書置き、文書が残されいる。&lt;br /&gt;
高田から、江戸上屋敷との切迫した手紙の往来が残されいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　江戸御用留書抜き&lt;br /&gt;
　　　４月４日&lt;br /&gt;
　　　　高田表より豪奢番桑原七郎冶・お目付け三浦半助去月30日出立道中二日半二而罷越候処、川支二　　　　而逗留有之今暁着之旨相届、送り御用状兵庫殿江相納申候事&lt;br /&gt;
但、　　半助義者此表より　貞知院様お供二而罷越候処、御用之有、本文之通り也&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一　右両人持参之御書取左之通り&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上の留書きから、越後と江戸上屋敷との間の慌ただしい混乱ぶりが推測できるのである。&lt;br /&gt;
高田榊原藩としては、会津、砺波藩のような滅亡の途を何としても避けなければならなかった。&lt;br /&gt;
そのためには、ひたすら恭順の意を示すすことしか選択の余地はなかったのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/29012513.html</link>
			<pubDate>Sat, 15 Aug 2009 15:01:41 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
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		<item>
			<title>　林八千雄と幕末の高田榊原藩　　　　　　其の５９</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/38/28996938/img_0?1250198900&quot; width=&quot;480&quot;&gt;&lt;br /&gt;
アタイは、福娘、アタイがこの家に来てから皆んな、運が良くなったの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸城総攻撃が３月１４日に中止となって、江戸城明け渡しの後も、&lt;br /&gt;
江戸城に立て籠った旧幕臣の抵抗は続いた。江戸城衛鋒隊の古谷作佐衛門もその一人で、&lt;br /&gt;
下野で戦って敗れ、兵約５００人と会津から、越後に入った。&lt;br /&gt;
高田藩は古谷隊の通行を認め新井に向かわせた。数日後古谷隊は飯山藩を攻撃して一時占拠したが新政府方に属した松代・松本両藩によって攻撃を受けて新井に敗走した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高田藩では古谷隊を新井別院に指定して翌日旧幕領の川浦代官所への移動を要請した。古谷軍の追撃を尾張・松代・飯山藩の軍が新井に迫ったことを知った高田藩は古谷隊に大砲を使って攻撃したのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古谷隊への一連の対応は新政府軍に属していた諸藩から強い疑念を持たれた。東山道総督府軍鑑　岩村精一郎が高田に到着して高田藩の処遇についての列藩会議が行われた。&lt;br /&gt;
高田藩は各藩代表者は武力討伐も辞さないという強い態度で謝罪を求められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高田藩御用人川上直本は、新政府軍の先鋒となって忠誠を誓って許されたのである。&lt;br /&gt;
江戸の彰義隊のこと、奥州飛び地の金子陣屋との連絡のことなど混沌として状況を把握できなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
閏４月１７日、薩長藩兵を中心とした北陸道鎮撫総督府が高田に到着した。参謀・黒田了介山形狂介らが、到着して軍議を開いた。&lt;br /&gt;
これ以降７月末まで長岡を中心とした中越地域の各地で戦闘が開戦された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、高田藩内部においてもこれを承服しない江戸詰めの藩士の中には徹底抗戦を叫ぶ者も続出、榊原の文字を分解した神木隊約８０人を組織して上野に立てこもり彰義隊に合流して新政府軍に抵抗した。&lt;br /&gt;
多くの神木隊の隊士は追悼されたが、生き残った神木隊の中には旧新撰組副隊長の土方歳三と共に函館にわたり最後まで戦った隊士もいた。薩長の横暴をよしとしない、彼らも滅びゆく徳川の大義に殉じたのである。ここに、徳川家康以来徳川四天王と謳われた四天王は有名無実となったのである。&lt;br /&gt;
新政府軍に忠誠を誓った高田藩は官軍の先鋒となり、やがて長岡城落城後は悲惨な会津若松城が主戦場となったのである。&lt;br /&gt;
高田藩兵も会津藩内を転戦した。&lt;br /&gt;
この時期に、小山玄龍の養子であった桑原雄造は藩主に願い出て姓を桑原姓に直して、高田藩と政府軍との共同野戦病院に勤務するのである。&lt;br /&gt;
桑原雄造、一七歳の時であった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/28996938.html</link>
			<pubDate>Fri, 14 Aug 2009 06:28:20 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>林八千雄と、幕末動乱の高田藩　　　　　　其の58</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-46-da/sekenkokenari_1617/folder/990578/57/28984757/img_0?1250110482&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
眠いよ、退屈だよ、ムニャムニャ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川幕府の四天王として徳川譜代の大名存続してきた榊原高田藩はいくつかの窮地に追い込まれる。&lt;br /&gt;
「藩の決意書」を起草して幕臣として将軍の行為を朝廷に陳謝して徳川家の存続を願った。朝廷には&lt;br /&gt;
「哀訴状」を徳川家には「諫め状」を差し出したがすでに時期を逸した意味を、持つものでなかった。&lt;br /&gt;
朝廷は、１月５日に「北陸道鎮撫総督府」を設置して従三位高倉永祐を総督に任命した。&lt;br /&gt;
状況を判断した桑名藩は恭順した。桑名藩領柏崎陣屋詰め藩士も恭順を示し、高田藩にそのとりなしを要請したものである。&lt;br /&gt;
江戸を逃れていた藩主は高田に戻ってきた。&lt;br /&gt;
抗戦派も参集して反政府勢力の拠点となり、政府軍に鎮圧された。江戸上屋敷にも二名の藩士を派遣したが、藩の基本方針に違反しないように説得したのだが、江戸詰め藩士は納得するものは少なかった。&lt;br /&gt;
このような苦境の中で高田榊原藩は苦境に立たされることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
薩摩、長州の政治的謀略、深謀遠慮に東国諸藩はなすすべが無かった。&lt;br /&gt;
錦の御旗に抗うすべがなかったのである。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　注：上越市史　別編6　からの引用&lt;br /&gt;
次回は、高田榊原藩の苦境</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/28984757.html</link>
			<pubDate>Thu, 13 Aug 2009 05:54:42 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
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