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病院では治療困難な現代病は足つぼマッサージで治そう!。

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 先の項目で<世間が無いので、安心出来ないヨーロッパ>の事を書きました。では彼らが不安の中で暮らしているか?と言うと、そうではないんですね※①。日本人以上にのんびり暮らしています。じゃあその分何で安心しているか・と言うと<ask>なんです(話しの都合で単純化してます)。ask の意味は<求める>という意味です(単純に<聞く>という意味もありますが、他者に要求という意味が強いのです。話は英語圏だけじゃないですけど・・)。

 つまり何も言わなくて分かってもらえる社会と、要求して実現する社会との違いです(単純化してます)。これを具体的に言いますと、お父さんが帰ってくると「お風呂、ご飯。寝る?」ですんでしまう、これ以言わなくても夫婦関係が保てる社会と、「愛してるよ、君と離れていて寂しかった!チュ!チュ!」と、しなくては離婚してしまう社会との違いです(分かり易い!これで日本人が愛してるって、奥さんに言わない理由が分かったでしょう?エッ!別な理由からだって!)。つまり、彼らはaskすると幸せになるのです。安心感の条件です。これは会社の賃上げでも、家族の遺産相続でもそうですね。

 日本の場合、言わなくても分かってくれるだろう、が今まで言ってきた強い関係です。何故、相続問題を挙げたかというと、長男は未だに長兄相続の感覚が抜けなくて、両親が亡くなった後、他の相続人に「それは違うでしょう!」と言われ問題に成るからです。今までは何か言うと、結果的に損をする感覚でした(良い子にしてないとおやつをあげませんからね!=がまん)。この感覚は日本人でないと分かりません。この問題は欲だけじゃなくて家督相続とか、伝統的なものと現代の近代法とのギャップ、大きいですね。今では前もって言わないと問題になる世界に、来てしまっているのですね。この場合は、自分がaskするだけではなくて、いつでも自分がaskされる側にも成るって事です。覚悟あります?。

 なぜaskがヨーロッパ人の安心なんだろうと言いますと。<求めれば、何とかしてくれる世界>を信じているのです。信じられないでしょう。そこが日本人との大きな感覚の違いなんです(この感覚は私だけなのかな?、日本の貯蓄率が高いのは、結果的に政治が何もしてくれないと思っているから・・)。その感覚が分からないと、フランス革命で何十万人も王侯貴族や神父・修道女をギロチンなどで殺した感覚は理解できません(頭では分かってもね!)。<民主的・人権>とか言う言葉の中には、要求をはねつけると、殺されるかも?という感覚が中に潜んでいるのです。フランス革命だけじゃなくて、他の国でも一般市民が、支配者に対してask(要求)をして、実現させたのが民主主義だったんです。ですから、askは実現して行くものなのだと、市民感覚で理解しているのです。そうなんです、彼らにとって、要求は無視されるものではなく、askは権利であり、安心のツールなのです。選挙の投票率が高いのが、納得できます(別な言い方すると、国家は自分達のもの!、選挙は金返せ!なのです)。

 ですから、日本のように要求を簡単に、上手に相手を傷つけないように受け流す、適当にごまかす、といった<とりあえず>の対応はしないのです(これもケース・バイ・ケースですが・・、比較の問題で言ってます)。学校へのaskも、内申書・内申点が下げられるから何も言えないんですね、今は少し変わってきました。チョット前までは<物申す事>は<祟り(たたり)>に触れるような感覚でしたから。皇室関係は今でもそんな感じ・・(何事も、しようと思わない人は、何も感じないけど!)。ヨーロッパの社会が風通しが良い、とか大学の研究者も、日本より欧米のほうが研究しやすいというのは、この辺りが元ですね。

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 欧米の世間(せけん)の事を一部書きましたが、もう少し・・(もちろん、世間という英語はありません、すでに概念が無いのですから)。日本での<世間>の意味は、<村社会>の共同認識という概念です。それは同質の狭い世界でしたから、そんなこんなで昔は上手くいったのです。欧米ではそんな安心感は持てません、ですから、欧米で生活すると心がスースーするのです。しかし、今ではあちこち異質な文化が入ってきています、どうするのか?となっています。それについても別項で書きましたので以下略。


 今では世間と言うと「世間体を気にして・・」とか、ネガティブな意味で使われます。自由が制限されているような感じですね、しかし、日本人の多くはその世間という感覚に、実は!本当に!心底!、安心感を貰っているのです。私もそうなんです。悪い奴がいても誰かが、皆が「そんな事は世間が許さない!」と、言ってくれる、許さないだろうと無意識に思っているからです。全員がそう思っているから、世界一安全な国なのです。とっても良い事ですが、実は無意識・無自覚で、お任せ体質なのです。つまり世間という人は居ないし、今の世間は助けてはくれないのです。何か事が起きた時に、身を預けてた分だけよけいに動揺するのです。事件事故、犯罪被害者に身内がなった時、立ち直れない・立ち直りにくいのは、繊細な愛情のゆえなんですが・・。自分が今生きてるって言う事は、<日頃から身に起きるすべての問題の、結末を引き受ける覚悟>も必要なのです。自分の人生を自分で引き受けていないと、何かあった時に受け止められないのです。正直あまり強くはいえません、私も動揺すると思いますから、そういう認識を持つそれで良いのかもしれません。


※① 国連の2013年度幸福度調査では1.デンマーク2.ノルウェー3.スイス4.オランダ5.スウェーデン、アメリカは17位、日本は43位でした。私が言っている、<集団に依存しない社会>が上位です。幸福そうに見えないデンマーク人ですが(超個人的意見です)、知らない喜びは、手にしないと感じないのです。このデータは国連のサイトから直接PDFでダウンローで出来ます。170ぺージですけど!。


 話は変わって、オランダはアムステルダム駅前のフレンチ・フライが最高においしい。お勧めです、何度も食べた!あれからケチャップ付ける事にした、確かに幸福!(笑い!)、蝋人形館も面白い。オランダは本当にバラバラな国です、夏のアムステルダムに行っても外国人しかいない。働いているのほとんどが外国人だからです。市の人口の半分は外国人になるそうです。そんなんでも、ちゃんと国が維持できてるのに驚愕です(国は民族じゃないんですね)。


 ノルウェー・スウェーデン、ンンン〜〜?暗い!寒い!。友達と会うのに、1ヶ月も前から約束するなんてわったすぃにはできない!私は彼らの名前は発音できないんです。スイス、友達いる、よく長文のメール来る、そのうち日本に呼ぶ。
※ 《あなたが美しいかどうか、彼に聞かなくても確信していい「私は美しい!」と。しかし、あなたが民主主義の国に住んでいるかどうかは、あなたが市や国に、あなたの周りの問題を要求してみないと分からない。》

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42 何故ノーと言えないの?悲劇から立ち直れない日本人?
 私は仲間と共に議会や市役所・文部省等に、請願・陳情・質問状など沢山出してきました。しかし、そのほとんどが、無視されるか議論も無しに棄却されました。オランダの市議会を傍聴した時の事ですが、「どうぞお入りください」と、外国人である私を議場に招き入れてくれました。その後も、議員と気軽に質疑が出来る環境が整っていました。スウェーデン政府に手紙を出した時も、責任者の署名入りですぐに返信がありました。この開かれた政治の様子は、経験しないと分かりませんね。その後ドイツでの<緑の党>の議員との会談は、こうした経験があって、日本では出来ないけどドイツでは何とかなると出かけたのでした。

 日本の場合は、市長にすらなかなか会えません。何度も面会を要求しましたが、しかるべき方法でないと会えないのです。彼らの村社会のルールに則るか、入らなければいけないんです。言ってみれば肩書き・縁故・後援会ですね。何故会えないか?、市民である私は、市長にとって関係ない存在だからです。市役所もなかなか市民の話を聞いてくれません。親しくなって、甘え甘えられる、ナーナーの関係になると少しは叶います。んんん・・、どうも変だ。私のイメージの民主主義とだいぶ違う。

 そこで、どうやって日本の行政と戦う(?)か?と言いますと。ほとんどの場合、個人で言っても門前払いです。肩書きがあれば良いんですけど、肩書きのある人は世の中にしっかり馴染んでいますので抗議・要求には参加しません、それだからこそ肩書きを与えられたんですけど・・。ですからこちら側も、<村>みたいなものを作って対抗します(向こうから、そう見えるという意味です)、団体ですね。そして、徹底的に外部者の姿勢を通すのです、彼らに馴染まない事です。それだけです。外部者としての姿勢がよく分かりませんね、違う価値観や文化で話すという事です。つまり彼らの意識を<村社会>の外に出して行くのです。行政側に<今まで処理してた様に、「前例が在りませんので、出来ません!」ではいかないぞ!>と、思わせる事です。簡単に言うと、外圧ですね。団体旅行の集団のように、村社会は外部・外圧に弱いからです。そうすると、ようやく本当の責任者らしき人が出てきます。後は、交渉しだいです、<村社会>に生きてきた人間は、外に出ると弱いんです。この<本当の責任者らしき人>、とは市長や議員ではないんですね。そこが面白い!この事は江戸時代の支配構造で書きましたので・・。

 元東京都知事の石原氏は昔、「ノーと言える日本」という本を出版して自らの主張をしようと問いかけましたが、でも何故ノーと言えないのかは分かっていないと思います。村社会に住んでいる人達は集団としてはノーと言えるんです(時間がかかりますけど)。ただし、個人では言えないんです、その事がこの世界において一番問題なのです(集団ではなく、あなたはどうなんですか?と聞かれる世界です)。そのノーと言えない理由が、集団への強い依存なんです。同時に、<みんなもノーじゃなきゃいやだ>ではなく、僕はノーだけど、みんなはイエスでもいいよ!と言えることです。果たして、ご高齢になっても<日本民族>にこだわる石原さんに言えるのでしょうか?。

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ふれあいの続きー

※1- 多くの日本人は、それぞれ勝手に振舞う事を、個人主義と思っているようですが、少し違いますね。バラバラな個人を尊厳・人権として捕らえてるのが個人主義です。日本人の個人主義は<それぞれがが勝手に好きなことをする(お金儲けと家族のため)>、ただただ忙しい?否、みんなではないですね!。


 ロシア人と、その後どうなったのかチョット書きます。彼らは歯科医のグループでした。初めはセルビアやウクライナの事があって、私としては話しづらかったんですが、コーヒーを飲み、ミルクを飲み、お茶を飲みながら話しました。飲んでばっかですが・・(ミルクは牧場に行ったからです)。ついに、聞きました。ロシアの政府・プーチンの事どう思っているの?。そしたら「good!」、私はチョット引きました、すると間があって「but,too strong!(強すぎ)」。そのちょっとの間が、大事ですね。それで共通の認識が取れました。それ以上細かくつめる事は無いのです<大人の認識>と、言っていますけど・・。犬の場合ですと、初めての犬同士は匂いを嗅ぎ合いますね!そんな感じ。


 よく外国でのマナーとして、宗教や政治の話をしない事、とか言っていますけど、チョット違うね!。親しくなるのには、同じ事・違う事を理解しあう事なのですから。よく「マリオさんは、どうして外国の友達が多いのですか?」と、聞かれますが、何でも話すからです。捕鯨・馬肉の問題やパレスチナの問題もよく話題にします(ほとんどの欧米人は捕鯨や馬を食べるのは信じられないのです)。パブでも私が日本人だと知ると、話しかけてきたりします(ふっかけてくるの)。そこでは私は、日本を代表して捕鯨擁護の話をします。すると不思議な事に、グリーン・ピース支持の人ともケンカにはならないのです。意見の不一致は話題作りにちょうど良い、そんな感じです。そういう人と、もうすでに30年付き合っています。 

 そんなこんなでロシアの人達と仲良くなって、夕食をおごってもらう事になりました。そのディナー、ちょっとした事件があって面白かったですよ。来春ロシアに行こうかと思ってます。モスクワに行ったら99%、再会です。彼らの生活の一端を見るのが、今から楽しみです。初めに書きました<外国に行っても、よく人に頼まれる>と書きましたが、実はおごってもらう方が多いのです。

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 人と人の距離は非常に面白いのでもう少し・・。普通日本人は一緒に歩いて移動する場合は、離れないで団子みたいになって歩きますね。誰かが離れると、追いついてくるまでみんなで待ったりします。誰かがトイレに行った場合は、みんなで待っていますね。ところがヨーロッパ人は違うんです。

 いつか、私とカナダ人・フランス人とか4カ国の人が、8人ぐらいで1日中町を歩きました。こういう事はよくあるんですね。先月の旅でも何度かありました。どのように団体として行動するのか?これは私の興味の対象です。とにかくバラバラで歩くんですね、それぞれ2〜3人でグループを作って、それぞれが道路の右に行ったり左に行ったりして。その各グループのメンバーが同国人同士で固定しているかというと、それぞれがコロコロと移動して行くんです。私も誰かと話しながら歩くんですが、メンバーが変わるので結果的に、メンバー全員と個人的に話した事になります。私はある時期より、最も年寄りになりましたが、年齢も性別・国籍もありません。目的が同じなら、初めて出会った人とでも会話が弾むのでした。

 そして、各グループの歩くスピードが違うので、あるグループは遅れます。メンバー全体としては50メートルぐらい離れて、見えなくなることもあります。私は日本人なので、ちょっと待とうよ!と言いたいのですが、観察します。すると、誰が言うのでもなく自然にある一定の距離で、メンバー全員がそろうのです。先回の旅ではロシア人と一緒になりましたが、一人がカメラのキャップを無くしたと言うので、元の場所に戻っていきましたが、後のメンバーはまったく待つ様子はなく、本当に離れたままで進み(2時間ぐらい)、途中で合流しました(※1)。団子状態・集団で歩くアジア人が、旅先で目立ってしまうのはこの辺にありますね。

 ヨーロッパ人の距離は、離れてはいても、お互いに自然に観察しあっているのです。これは凄いですよ!、個々としての感覚+遊牧民の感覚ですね。これが欧米での<世間(せけん)>の感覚です。中に入っても親密には感じないし、外からも密接に見えないです、でもしっかり繋がっているんです。そんな感じが日本人には一体感の無い、寂しさを感じてしまうのです。この雰囲気はその国で生活すると、もっと大きく感じると思います。その<世間>の無さが、日本と欧米社会とのもっとも大きな文化の差です。(この辺は個人の感覚ですから正解は無いのですが、私はその正解の無い、感覚の世界を伝えたいと思っているので仕方ありませんが・・)

 <バラバラになりながらも、個々が繋がっている関係>は、この本(?)の初めから書いている<個人が集団に強く依存していない社会>の関係です。そんな国家が、世界中で最も政治的な腐敗が無い社会と言われる、デンマーク・オランダ等の社会です。個人の自由は徹底的に保障され、ドラッグも売春もほぼ自由です。議会と市民の関係も非常に解放されています。議員という社会が<村社会>の様に団子状態に固まってはいないのです。何故そうなのか、グループでの歩き方を見ても、なんとなく理解できると思います。こういった個人の関係が議会と市民のあり方、市民と国王や天皇とのあり方、外交のあり方を無意識に決定しているのです(あり方ですよ、直接の中身ではないです)。これはその国に住んでいる人自身が、自覚しているかというと、たぶん気が付いてはいないと思います。

 団子状態で固まっている人達<アジア人(アメリカ人も少しそうです)>は、犯罪に遭いやすいのです。自分達の仲間がはぐれないようにと、仲間だけを見て、外を見ていません。そして、自然と役割分担をしてしまい、誰かが見張っていてくれるだろうと安心しているからです。つまり、外から見ていると、ガイドに任せている団体旅行の人達は非常に無防備に見えます。この辺の事はすでに述べていますね。

 集団といえば、国家間の集団について。日本政府が参加しようとしている、集団自衛権の問題です。実は日本人と欧米人とでは、集団という認識・意味とその対処の仕方が、まったく違うのです、分かりましたぁ?。安全保障を期待して入っても、後ろからミサイル数発撃つだけで終わりだったり、集団保障に入らなくても、援護が受けられるかもしれないのです、今のシリアがそうですけど・・。要するに、自国の都合で条約は変わる、歴史は語る!のです。異文化は自分の期待通りに行かないものです、そして大きな集団ほどコントロールできないのです。

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