関本塾

病院では治療困難な現代病は足つぼマッサージで治そう!。

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 人と人の距離は非常に面白いのでもう少し・・。普通日本人は一緒に歩いて移動する場合は、離れないで団子みたいになって歩きますね。誰かが離れると、追いついてくるまでみんなで待ったりします。誰かがトイレに行った場合は、みんなで待っていますね。ところがヨーロッパ人は違うんです。

 いつか、私とカナダ人・フランス人とか4カ国の人が、8人ぐらいで1日中町を歩きました。こういう事はよくあるんですね。先月の旅でも何度かありました。どのように団体として行動するのか?これは私の興味の対象です。とにかくバラバラで歩くんですね、それぞれ2〜3人でグループを作って、それぞれが道路の右に行ったり左に行ったりして。その各グループのメンバーが同国人同士で固定しているかというと、それぞれがコロコロと移動して行くんです。私も誰かと話しながら歩くんですが、メンバーが変わるので結果的に、メンバー全員と個人的に話した事になります。私はある時期より、最も年寄りになりましたが、年齢も性別・国籍もありません。目的が同じなら、初めて出会った人とでも会話が弾むのでした。

 そして、各グループの歩くスピードが違うので、あるグループは遅れます。メンバー全体としては50メートルぐらい離れて、見えなくなることもあります。私は日本人なので、ちょっと待とうよ!と言いたいのですが、観察します。すると、誰が言うのでもなく自然にある一定の距離で、メンバー全員がそろうのです。先回の旅ではロシア人と一緒になりましたが、一人がカメラのキャップを無くしたと言うので、元の場所に戻っていきましたが、後のメンバーはまったく待つ様子はなく、本当に離れたままで進み(2時間ぐらい)、途中で合流しました(※1)。団子状態・集団で歩くアジア人が、旅先で目立ってしまうのはこの辺にありますね。

 ヨーロッパ人の距離は、離れてはいても、お互いに自然に観察しあっているのです。これは凄いですよ!、個々としての感覚+遊牧民の感覚ですね。これが欧米での<世間(せけん)>の感覚です。中に入っても親密には感じないし、外からも密接に見えないです、でもしっかり繋がっているんです。そんな感じが日本人には一体感の無い、寂しさを感じてしまうのです。この雰囲気はその国で生活すると、もっと大きく感じると思います。その<世間>の無さが、日本と欧米社会とのもっとも大きな文化の差です。(この辺は個人の感覚ですから正解は無いのですが、私はその正解の無い、感覚の世界を伝えたいと思っているので仕方ありませんが・・)

 <バラバラになりながらも、個々が繋がっている関係>は、この本(?)の初めから書いている<個人が集団に強く依存していない社会>の関係です。そんな国家が、世界中で最も政治的な腐敗が無い社会と言われる、デンマーク・オランダ等の社会です。個人の自由は徹底的に保障され、ドラッグも売春もほぼ自由です。議会と市民の関係も非常に解放されています。議員という社会が<村社会>の様に団子状態に固まってはいないのです。何故そうなのか、グループでの歩き方を見ても、なんとなく理解できると思います。こういった個人の関係が議会と市民のあり方、市民と国王や天皇とのあり方、外交のあり方を無意識に決定しているのです(あり方ですよ、直接の中身ではないです)。これはその国に住んでいる人自身が、自覚しているかというと、たぶん気が付いてはいないと思います。

 団子状態で固まっている人達<アジア人(アメリカ人も少しそうです)>は、犯罪に遭いやすいのです。自分達の仲間がはぐれないようにと、仲間だけを見て、外を見ていません。そして、自然と役割分担をしてしまい、誰かが見張っていてくれるだろうと安心しているからです。つまり、外から見ていると、ガイドに任せている団体旅行の人達は非常に無防備に見えます。この辺の事はすでに述べていますね。

 集団といえば、国家間の集団について。日本政府が参加しようとしている、集団自衛権の問題です。実は日本人と欧米人とでは、集団という認識・意味とその対処の仕方が、まったく違うのです、分かりましたぁ?。安全保障を期待して入っても、後ろからミサイル数発撃つだけで終わりだったり、集団保障に入らなくても、援護が受けられるかもしれないのです、今のシリアがそうですけど・・。要するに、自国の都合で条約は変わる、歴史は語る!のです。異文化は自分の期待通りに行かないものです、そして大きな集団ほどコントロールできないのです。

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 シェークスピアやトルストイを読んで、日本人分かるのかな?と思う。私には理解できなかったんです。何故か?今は理解できない部分が分かったのです。人と人との実際の距離が違うのですね、メートルです。実際に測ってみました。日本人は友人同士で立って話す場合の距離は約1、2メートルです。しかしヨーロッパ人は約0、9メートル以内。パブやハウス(ディスコ)やパーティーで音楽がうるさいと30センチぐらいにまで顔を近づけます。これは握手した時の距離に近いのです。何故か、ツバが飛ばないように話すのが上手です。まったくの個人的なデータですが、現実にかなり近いと思います。日本人の距離は、お辞儀をした時の互いの頭がぶつからない距離が、適当なんですね。初めは異文化の人との距離の違いは、非常に違和感があります。お互い黙ってはいますが、こういった距離の違和感を持って、日本人と海外の人とが接触をしているのです。

 ですからヨーロッパ人は親しくなっても、自分との距離を縮めない日本人は親しくない関係と写るかもしれないのです(その辺は個人の理解力ですけど・・)。逆に日本人の女性はヨーロッパの男性に対し、近づいて話しかけるので<気があるのかな?>と思うかもしれません(マア、それはそれで良いのですが・・)。

 こうした肌合いの違いは、はっきり分かる感情表現以外に、沢山あるのです。例えば<足を汚いと思っている、触るのはなんとなくいや><体を見せる・見られるのは気にしないけど、触られるのは親でもいや>といった感覚が、なかなかそこで生活しないと見えてきませんね。そうした何気ない日常の常識・文化の襞に隠れている感覚・感性ですね、それが大きな意味で文化を創っているのです。言葉の使い方もそうですね、ですから意味は分かっても、外国文学がいまいち理解できなかったのです。

 日本人が国際会議での場で、なんとなく浮いているのは、仲が良いとか悪いのではなく、外国語が出来ないのではなく、その辺にあるのです。日本のリーダーには外国人の友達が居ない、又はそういう事をアドバイスできる人が居ないのです、親しくなるのには国によって違う、親しくなる方法があるのです。たぶん日本の外交は親しくなる方法を知らない、だいぶ損をしているね。

 会議をする目的は議題にあります、しかし、本当に重要なのは、話し合える関係になる事です。そして、意見の違う問題に対して議論する場合は、離れて大きな声で話すのではなく、相手にさらに近づいて穏やかに話すんです。離れて大声は決裂のサインです。日本人は話し相手の距離は気にしませんが、ヨーロッパ人の感覚では距離が大事なんです。ただし、政治家本人が個人的に豊かな魅力があり、今後も関係を続けたいと思われるような人物でないと、親しくはなれないですね、当たりまえだけど・・。

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 ネパールは北海道の2倍ほどの国、2週間もあればぐるっと回ってこれるだろうと思ったのですが、これが不可能。地図に道があるところは凡そバスで行ける。ところがネパールは山ばかりで道が狭くて悪い。カトマンズから南は半分はだいたい行ける。しかし、半分以上は行けない。一番良い道、カトマンズからポカラまで200キロ、バスで7時間かかる。

 移動が恐ろしく困難なこの国で、同年4月に地震が起きた。しかも、インドとの貿易戦争でガソリン・燃料が止まって、国中がパニックとなっていた。更にたまたま、日本のお正月のお祭りのような時期と重なって、帰京する人がバスのチケットやガソリンを奪い合っていた。

 結局、ガソリンは闇の取引量が増えて3倍ほどの値段で買える雰囲気ができたころ、帰国したのです。不足は現在も続いているようで2016年1月3日より、計画停電時間が週77時間から週84時間へと延長。一日平均12時間の停電だそうです。

 震災の復旧もストップ、海外からの観光客も激減(おかげで僕はモテモテでした、客引きにですが)、レストランも開店休業(燃料がない)、停電はするし、タクシー・バス代は2倍近いし、公共バスもほとんど動かない状態でした(屋根の上まで満員になると出発)。
 それでも、ヒンズー・カーストがあっても、最貧国でも、結構いい国。物価は安いし、人はいいし、おもしろい。美しいヒマラヤが待ってます。ぜひ行ってお金を落として下さい。

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反対サンタ?

   反対サンタ
 クリスマスが近づくと思う、私は反対サンタ。プレゼントをもらって喜ぶのは子供。その子供にプレゼントあげてうれしいのは大人、私はその子供のプレゼントを取り上げて喜ぶ、反対サンタ。チョット違うか?。ラベル(?)が違う。自分が自分の身内にプレゼントする。そりゃ言ってみれば共に<私達の世界>の出来事。恋人でも、友達にでもプレゼントでも、お返しがあったり、感謝されたり・気持ちだけでも、どこかで何かは少しは戻ってくる。そりゃーお互い楽しい、良かったね!。でも!私のはそうじゃない。プレゼントをあげるサンタが一番うれしいのです。


 町内会のお掃除ボランティアでも、自分の住む所を掃除するわけですから、大きな意味で自分の家掃除しているようなもの。ある意味自分の都合でしかない。地球環境問題でも、自分の住む地球を何とかするわけだから、本当の意味で他者に対する<無償の奉仕活動>でもない。自分の為にする事を奉仕活動というのも変だからです。よく企業では<死に金を使うな!>と、言います。損しても良い・タダでも良い、後で戻ってくる所へ損をしろ、というわけですね。サンタも企業家もボランティアも、どっかで見返りを期待してたら同じってわけかな?。


 人間だから、絶対に損得を考えてしまうから、見返りを考えないなんて出来ない。そうかもしれません。私は昔からボランティアか活動をしてきたから、こういう事いつも考えているのです。売名・自分の利益の為と思われないかとか、そうでもないとか。ある時気づいたんです。そうかキーは、<他者の存在だな!>と。たとえ身近な人・隣の人に何かしてあげたとしても、自分にとってまったく別の世界・他人として何かしてあげたのなら、それは見返り無しって事なんだ、と。自分の世界がちゃんと出来て、私と私達の世界の他に、<他者の世界が広がっている>のなら、そこにはちゃんと本当のサンタの世界が広がっていうんじゃないかって、そう思うのでした。それが反対サンタナノダ!


 私はご存知のように外国によく出かけます。12月は特に忙しい(エッ?シィー!違うってぇ!)。20年ほど前、ヨーロッパでのアパート(友人の)に帰る時の事。季節はもうすでに冬でした。ヨーロッパの夜は早い。その日の夜はジャンパーを着ても寒かったので、私はアパートに急いでいた。石畳と石積みのビルが並ぶ狭い通路を抜け、暗い空の広がる広場を斜めに横断、もう少し歩けば彼のアパートに着くところだった。


 ヨーロッパの都市には必ず幾つもの広場があります。市民の憩いの場所。朝から杖を付いた老人が集まり、おばさんや若者がたむろする。しかし、すでに暗い、ここには結構危ない人が居るので用心するのだ。私は広場を横目でにらみながら通り過ぎようとした。ガラーンとして人気はまったく無かった。しかしよく見ると、広場の端のベンチに、黒い老人のシルエットが見えた。ホームレス?、ベンチにじっと眠るようにコートの襟を立てて老人が座っていた。足元には紙袋が置いてあった。私は立ち止まった。しばらくじっと見た、やはり周りには誰も居ない。そして走って老人の所に行って、彼の手を取って小銭をすべて彼に渡した。彼は一瞬、私を見上げた、しかし薄暗いので私の顔は見えなかったでしょう。彼は何も言わなかった、私も何も言わない、急いでアパートに帰った。


 彼は私が誰だか分からないし、分かったとしても二度と会う事は無い。まったくの偶然に会って、瞬間目が合っただけ。その事に意味があるのか無いのかまったく分からない。誰も見てないし、まったくの外の世界との係わりだな〜〜、と思った瞬間、胸いっぱいに感動が広がった。小銭をあげただけなのに、何故か、何故か感動が止まらなかった。

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 いじめは無くせます。いじめは先に述べたように閉鎖された<強い関係の集団>の中で起きます。まずは現状を自覚する事です。今の学校の中は<長時間・高い壁で閉鎖されている社会>なのです。学校関係者の多くは、学校〔大学〕を卒業して教師になります。ですから外の社会を知りません。何がおかしいのかまったく気が付きません、そこが問題ですね、明治以来の百年前のシステムをそのまま使っています。教科書だけは違いますが・・、他はほぼ同じです。校舎の作りも・教師の教え方も、生徒への対峙の仕方、カリキュラムも同じです。がっかりします。明治以来何もかも変わったと思っても、変わっていないものがあったんですね。明治と言えば機関車さえろくに走ってなかった時代ですよ。今は飛行機ですよ!他を知らないから、他の教育システムを知らないから何も出来ません。システムの細かい事はここでは書きません、大雑把に書きます。

 まず、生徒を拘束する時間が長すぎる。1日の大半を授業と部活で過ごさせる。しかも本人の選択もなく義務教育という、強制です。小学生の様な子供に、まるで大人同様に8時間労働をさせているようなものです。小学校から大学まで、終了式や卒業式に渡されるのが成績表。それに向かって競争させられるわけです。児童虐待です。確かに、労働ではなく、本人のための勉強かもしれませんが、やっていることは同じです。ある意味、選択の出来ないところで、労働のような事をさせているわけですから、もっとひどいかもしれません。じっと何時間も座ってじっとしているのは体にも、脳にも悪いし、全員に同じ事をさせるのは不可能。おちこぼれを作り出すシステムです。

 又、小・中学校には、暴力が未だにあります。僕も経験しました、それをダメと言うのが教育の目的でもあります。それが起きたら社会では犯罪です。いじめが大人社会より深刻だとしたら、大人の社会より子供の生活が厳しいからです。自由が無いからです。

 子供も親も当たり前だと思っているから、そのストレスに気が付かない。楽しい思い出もあるから、それに気が付かない。では、大人のあなたに、もう一度小学校から高校まで通ってください。と言われたらどうしますか。行かないでしょう。もしあなたが、ドイツの学校を知っていたら、今の日本の学校にもっと行かないでしょう。教育・教育システムに問題のない国はありません、しかし、日本ほど(韓国も・儒教でお友達国家)子供の人権を無視した教育はありません〔そもそも教育システムが無い国もありますが・・〕。その中で育った子供が大人になるわけです。民主主義の基本<人権>が、危ういわけです。しかし、子供には優れた適応能力がありますから、我慢を我慢と思わず学校に通っているわけです。もっと、学校や教育に口を出しましょう!。

 僕がいじめ問題によく言う例えがあります。<ニワトリ小屋に、ニワトリをいっぱい入れると、どうなる?>と言います。必ず毛をむしられたニワトリが2〜3羽出来ます。そのうち弱って死にます。これはニワトリだけでなく、ネズミでもザリガニでも〔共食いしますが・・〕どんな生物でも狭い空間に閉じ込められるといじめ合うのです。人間も同じです。理性や他人への理解、生命の大事さを教えても、この壁は乗り越えられません。

①まずは学校生活の時間を減らす事、
②学校やカリキュラムの選択を可能にする事、
③学校に行かなくてもよいシステムを作る事。
④暴力を許さない。当たり前ですが、見逃されています。

 これらは人権の問題です。これは大人の社会では認められていることですよ、何故子供にダメなんですか?今の学校はクラス・部活という単位・集団を、まとめていかなければならない様になっていますが、まとまりに入りにくい子供をどうするか?がない!。排除・いじめの原因です。ですから、学校に生徒を通わせる事自体が、いじめの原因になっているのです。ですから、①だけでもいい,早急にすべきです。学校の枠を作り直していく事がまず重要で、そこから個々の問題に移っていかないと<いじめが被害者の問題>に成ってしまう。いじめは被害者の問題でなく、<いじめは加害者の問題>なのです。そして、加害者は大人である私達です。

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