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2015年、マリオの敗戦特集まとめ。日本人は日本が他国に占領されると<女は凌辱され、男は強制労働・殺されると未だに思っている。降伏は恥・鬼畜OO?
僕はいつも、戦争は集団に依存している自己が問題なのだと言ってきました。今年初めて新聞にそのような記事が一つ載ってました。ようやく気が付く人が出てきました(ドイツの学者で集団に陶酔すると言う言い方でしたが)。うれしい限りですが、相変わらずほとんどの記事は、戦争は悲惨・悲劇・平和が1番、心が傷つく!でした。

 <自分達が戦争はしない、と言えば戦争は起きないのか?><軍備の代わりに平和外交をすれば戦争は起きないのか?>。今の首相は<この法律で戦争は起きない>と言っているけど、起きない保証はどこにあるのか?。詰めが甘い!どんなに軍備をしても、世界最強になっても戦争は起きるかもしれない(アメリカを見てよ)。じゃー、どうするのか。

 永世中立国スイスの様になる?それも良い。出来なかったら?、タイやフィンランドなど北欧のように、攻めて来た軍と、同盟か降伏する。それでも良い。問題は国家として徹底的に戦うという姿勢・負けるとイヤと言う姿勢が、悲惨な結果を招く。国民に戦わせるという姿勢なのだ。何のため?国体・利権支配層の維持のためなのだ。貧乏でアパート暮らし、その日暮らしの人にとって、国体など関係ない。どこかの国が自分の住む町を占領しても、今より良い生活ではないとしても、殺し殺されるよりはましだ。ほどほど中流のあなたはどうします?考えすぎ?

 問題は2つ。一つは国家として。<国家として戦争が始まったらどうやって終わらせるのか>の想定がない。日本の過去は自分から敗戦の処理や、勝ち戦の処理の能力がなかった。これはどこの国家も無いからアフガンやイラクで戦争が終わらない、と、は思うのだけど。戦争を始めるなら、事前に指導者は様々な想定・結末を想定しなければいけない、あたり前だけど。しかし、残念ながら誰も考えない、全く無の状態で戦争を想定して法案を作っている。そう思えてならない。朝鮮戦争・満州事変・太平洋戦争の時代と指導者の何が変わったのか?どう責任を取ったのか?変わってない、昔のママです。今の首相はその時代の指導者の孫。2世3世の議員が国政を動かしている。今の自民党や民主党の多数の議員は、この法律について、ほとんど何も言わない。知識もないし、興味もない?、選挙に勝つことだけ考えているようだ・・。それでも国会議員にはなれるのです。しかし、政治家が何を言おうと、兵士がNO!兵士になる事にNO!と言えば戦争は起きないのです。戦争の準備をするなら、終える準備もしなければいけない。

 問題2つ目。個人としてどうするか?政治家は自分たちが選んだ人達です。バカであろうが賢くあろうが、自分達の責任。結果的に良くも悪くも、自分が国家に所属している限りその集団に引きずられるのです。だけど、日本人のメンタリティーは国家に引きずられすぎなのです。国家が戦争を始めたら、自分はどうするのか考えるべきなのです。戦後よく聞かれた<あの時は仕方なかった>と言う言葉は、自分のなさ、自己のなさの象徴的な言葉です。仕方なかったとしても、それはそれ、加害者としての責任を感じるべきなのです。仕方なかった、は、大人として言ってはいけない言葉なのです。因みに、特攻隊を見送った人の言葉で、仕方がなかった、と言った人は今のところ知りません。出兵に日の丸の旗を振った人はどうでしょうか?。傍観者と当事者の違い。傍観者だと思っていたから、仕方がないと言ったのだと思う。傍観者は常に加害者側だと思う。だから現場を知る、悲惨さを知る事も確かに大事なのです。

 しかし、その先がもっと大事なのです。集団に依存する集団は怖い!日本人は変わったのか?かつて戦争に反対する人を<非国民・売国奴>と言って、徹底的に攻撃したように、安倍政権に反対する人は、自分達の平和と正義でもって相手を徹底的に誹謗中傷しないのか?
さて!自分はどうするのか?みんなに聞く?そこが問題なのです。マリオ

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 youtubeで評判になっていた、車内での出産動画。僕は動画での出来事ではなく、若い父親の一言に感動した。予期せぬ陣痛に急いで病院に駆けつける夫婦。カメラは助手席に向かって置かれていた。映像は3分ほどの間に生まれてしまう様子を映していた。オギャーと産声をあげる男の子、母親は「どうしよう・どうしよう」とうろたえている様子。すると運手したままの父親が言った。「どうしようって?愛してあげればいいんだよ!」声が嬉しそうにはずんでいた。

 色んな意味でこうありたい、今の僕は考えすぎだ。出産や祝い事だけでなく、身内が亡くなった時や失敗した時。自分が病気になった時、仲の良い友達とけんかした時。何時でも、何時でも、その先や周りの事を考えるのではなく、今の喜びや悲しみをじっくりと感じ、表現すればいいんだ、と!

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感動した話しー2

③ 感動した話!2
 知人のAさんはある朝感動して、目が覚めたそうだ。自分の頭に天使が舞い降りたと!。それはハゲの所に白い毛が生えたことなんですが・・。それはもう40年も前の記憶の夢だったそうだ・・。

 彼は幼稚園からズゥーっと、何人かに嫌がらせを受けていた。帽子を取られたり鞄を放られたり、いやな思いをして学校に通っていたそうだ。しかしその事ではなく、クラスの中にもっといじめられている女子がいて、40年後ある事に突然気が付いた。

 B子さんは貧しくてあまり勉強もできず、可愛くもなく、汚い臭いと言われていた。ほとんどの男子から嫌われ、二人組の席は、机は寄せてもらえず、そばに通るだけで「くるな!OO!」と徹底的に嫌われていた。クラスの班学習でも、来るなと言われ仲間に入れてもらえなかった。彼はそれを見て自分の班に入れ、フォークダンスも誰も手をつながない中、ちょっとだけ手をつないだ。いつも、目立たぬようにかばった。

 彼は体も小さく体力も無かったので、自分がいじめのターゲットになりはしないかと不安で仕方がなかったのですが、仕方がない、思い切るしかなかった。英雄になるつもりでも、お利口さんになるつもりもない、仕方なくそうしたのだそうだった。

 40年後の朝、彼はそのB子さんに、「何かをしたと思っていたこと」は間違いで、実は彼がB子さんに<自分の人生を切り開く勇気をもらった>と気が付いたのでした。彼にとってB子さんは、言ってみれば天使。それに気づきを与えてくれた。ハゲの所に生えてきた白いものは天使の羽。感動して目が覚めたのでした。B子さんはどんなにいじめられても、いつもニコニコ笑ってました。彼はバカなのかな?と思っていたそうですが、今でははっきりと違う!と思うのでした。

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信仰と宗教の違い

35 宗教団体はいつでもオープンで行こう?。
 宗教は<同じ信仰を持つ者の助け合いの集まり>です。地域や血縁ではありません(氏神・ユダヤ教など地域的・人種的な宗教を除いて言います)。ここで人種・国家や民族差別を乗り越える事ができます。宗教は<一つだけの・こだわりの集団>から出て、広く大きな集団と接触する窓口なのです。出家や洗礼は、ただの儀式ではなく、地縁血縁を絶ち自分の生き方を見つけ、新たな居場所を見つける事です。ただし、出家・洗礼をするかどうかは、あくまで本人の問題なのです。


 言い換えると、関係を広げ人生やトラブルの相談窓口を持つ、今までとは違った友達・恋人を作る窓口なのです。キリスト教の<汝の敵を愛せ!>と言ったのは、地縁・血縁・身内の結束を離れ、敵である他者をも含めた集団になろう!という事なのでしょう。

 最近話題のイスラム国は異教徒は殺すと言っています。すべて自分と同じになる事を目指しています。しかしイスラム教の知人は、あの面倒な礼拝の回数もお祈りも<誰からも強制されるのではない>と言い。<自分はアラーを信じる>と言うだけでムスリムだ、とも言っていました。信仰は、あくまで個人と神・仏との契約・約束です。契約とは大げさですね。戒律もその約束の中にあります。しかし、<自分は何もしないで、神や仏から、一方的に頂くだけの契約>もありなんです。何もしない??。宗教は大変だと思ってると間違いです。ホントはとても楽なんです。シェ〜〜〜〜ン!。(南無阿弥陀仏の意味は<仏にお任せします>、アーメンは<(神に)同意します>、アッラー・アクバル<神は偉大>です、これって、同じ意味ですよね?。これを言うだけでも良いんです。

 特にイスラム教は神と自分との契約・約束(戒律)を強調する宗教です。自分と神との関係が強いですから、他の社会からすこし乖離します。ですから〔何故死ぬまで働くのか?〕に述べたように、大きな集団に入ると、強い役割に因って自分を失い易いし。指導者によっては自爆まで突き進みやすいのです。あくまでも、信仰ではなく、恣意的な指導者・集団の問題なのです。一方、日本の仏教は個人との約束事(戒律)が少なく、社会儀礼に専念していますから(?、そうではない人達もちゃんといます)、逆に社会に埋没してしまいます。 

 信仰を持つか持たないか、どっちが良いか、本当に個人の問題です。信仰をした方が得だ、損だ、と言うことはありません。損得で信仰を持つのは宗教ではありません(この方が一般的かもしれませんが・・)、それは、お金や物に対する信仰なのですから。疑え!徹底的に疑う、そして残った物が本当の信仰なのです。その疑問を突きつけてくるものが神や仏の真の姿かもしれません。
 まあ〜〜、しかし、もう少し正確に言うと、本人の意思に係わらず、信仰は出会ってしまうものだと思います。あなたも、突然、目に見えない世界が広がり、何かが語りかけてくるかもしれません。その世界は、今いる私達の世界よりも格段に大きいのかもよ?。

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34 キリストの願い?
 キリスト教の聖書(新約)の中心はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書です。すべて同じ様なイエスの奇跡の物語です。初めはその四つの福音書の違いばかりに目が行きました。どうして、ありえないような奇跡の物語を、何故・何度も書くのだ?。んん・・ん!。

 福音書の中でもっとも記事が多いルカの福音書を読んでみましょう。その中に約23回のイエスがおこなった奇跡が書かれています。しかし、その奇跡の異常さの割には、イエスの行為そのものはサクット簡単に書かれています。特に23番目のキリスト教最大の奇跡、<復活後のイエスに会う>はまったくもって地味です。イエスが復活して、そこにいるのにだれも気が付きません。なんだかんだあって、<それで、目が開かれ、イエスだと分かった>。こんなシナリオではハリウッドの映画には絶対なりません。

 しかし、そこに理由があったのですね。その奇跡の起こし方が変わっていますね。普通、奇跡を起こす場合は(普通ないですけど)、ハリーポーターのように呪文を唱えるとか、魔法使いサリーチャンの様に魔法の棒を振ったり、カラー・レンジャーのようにポーズを決めます。
 ところがイエスの奇跡は、まるで人事の様に特に何もしません。ただ口で言う程度で「立ちなさい」「行きなさい」で奇跡が起きます。それで死人が生き返ります。何かするにしても、せいぜい手を触れる程度で気合も入れてません(当たり前かな?)。長血の女の所では勝手に女性が服に触っただけで、イエスは怒ったように「誰か触ったのか?」で、奇跡が起きます。このやる気の無さは何?。

  漁師シモンに魚が取れないと言われた、有名な場面では「行って網を入れなさい」、ハァー?エッ!それだけですか???。てッ感じで、網を入れると魚が沢山取れる。派手なパフォーマンスもしなければ、お祈りも無し。パンを分ける場面でもそうです。「分けなさい」それだけ・・。そう言えば、イエスはあまりお祈りもしない(自分が神だから?自分は神だとは言ってないですね)。何かした事で覚えているのは、地面に何か書いた事。そんなのでは、歴史に残らないんじゃないの?。つまり、イエスは何もしてないんですね(深い意味なんですけど・・)。 
 
 でも歴史に残った。本当に何かが起こった、聖書それを言いたかったんです。目に見える世界が何かによって、変わる。実は変わってはいないけど、変わったその世界に我々は住んでいる。それの気づきが奇跡。奇跡と言う事柄を通して、奇跡が起きたと思わせないと理解が出来ないので・・。目や知識ではなく体で感じる別の世界を伝えたかったんですね。イエスはたびたび弟子達に強く語ります「まだ分からぬのか?」そんな感じです。それはすでに「もう奇跡は起きているではないか!」と言いたかったんです。

 それで・・、つまり・・。北斗のケンシロウの様に、「アチョ!アチョ!チョチョ・・!!。オマエはもう死んでいる!」じゃなくて、何もしないで「あなたはもう救われている」と言うことなのです(チョット古いですが・・ゴメン!)。
 キリスト信仰は、そこに回心(かいしん)、そこに真実があるとイエスは伝えたかったのです。その真実とは何か?。奇跡以外の記述にあります。イエスの言葉・説教は、奇跡の記事と打って変わって、非常に強く熱く語られているのです。それは何ですか?、私は言わないよ(言葉に出来ない?)・・、私だけのものですから。あなたはもう知っているかもしれませんが・・。奇跡が本当の出来事かは、熱心に熱く語られた中にあるような気がするのですが・・。

 たまたま、大宮牧師が、そこの<回心>の話をして、<改心>ではないんですね?と確認したら、「そうです」と言う事だそうで。先に書いた、仏教の回心(えしん)と読みが違いますが同じ意味。「そうそう!」と一人で納得したのでした。何で回心と書くのかと言うと、知識とか思想ではなく、感覚みたいなものなので、又忘れたりしまうので<グルグル回る>の、字を使うのです。

 信仰は知識ではありません。奇跡は起きない、しかしイエスに因って起きていた。イエスの伝えたかったものは、常識や知識を確信する者には見えない、奇跡と言う<信じざるを得ない出来事>を繰り返し起こさないと気づきが無い、と、そして最後には十字架にあがったのかもしれません。キリスト教も「神を信じましょう!」ではないんですよ。こんな感じ「GOD LOVE ME]、動詞にsが付かない所が良いでしょう?。

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