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34 キリストの願い?
 キリスト教の聖書(新約)の中心はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書です。すべて同じ様なイエスの奇跡の物語です。初めはその四つの福音書の違いばかりに目が行きました。どうして、ありえないような奇跡の物語を、何故・何度も書くのだ?。んん・・ん!。

 福音書の中でもっとも記事が多いルカの福音書を読んでみましょう。その中に約23回のイエスがおこなった奇跡が書かれています。しかし、その奇跡の異常さの割には、イエスの行為そのものはサクット簡単に書かれています。特に23番目のキリスト教最大の奇跡、<復活後のイエスに会う>はまったくもって地味です。イエスが復活して、そこにいるのにだれも気が付きません。なんだかんだあって、<それで、目が開かれ、イエスだと分かった>。こんなシナリオではハリウッドの映画には絶対なりません。

 しかし、そこに理由があったのですね。その奇跡の起こし方が変わっていますね。普通、奇跡を起こす場合は(普通ないですけど)、ハリーポーターのように呪文を唱えるとか、魔法使いサリーチャンの様に魔法の棒を振ったり、カラー・レンジャーのようにポーズを決めます。
 ところがイエスの奇跡は、まるで人事の様に特に何もしません。ただ口で言う程度で「立ちなさい」「行きなさい」で奇跡が起きます。それで死人が生き返ります。何かするにしても、せいぜい手を触れる程度で気合も入れてません(当たり前かな?)。長血の女の所では勝手に女性が服に触っただけで、イエスは怒ったように「誰か触ったのか?」で、奇跡が起きます。このやる気の無さは何?。

  漁師シモンに魚が取れないと言われた、有名な場面では「行って網を入れなさい」、ハァー?エッ!それだけですか???。てッ感じで、網を入れると魚が沢山取れる。派手なパフォーマンスもしなければ、お祈りも無し。パンを分ける場面でもそうです。「分けなさい」それだけ・・。そう言えば、イエスはあまりお祈りもしない(自分が神だから?自分は神だとは言ってないですね)。何かした事で覚えているのは、地面に何か書いた事。そんなのでは、歴史に残らないんじゃないの?。つまり、イエスは何もしてないんですね(深い意味なんですけど・・)。 
 
 でも歴史に残った。本当に何かが起こった、聖書それを言いたかったんです。目に見える世界が何かによって、変わる。実は変わってはいないけど、変わったその世界に我々は住んでいる。それの気づきが奇跡。奇跡と言う事柄を通して、奇跡が起きたと思わせないと理解が出来ないので・・。目や知識ではなく体で感じる別の世界を伝えたかったんですね。イエスはたびたび弟子達に強く語ります「まだ分からぬのか?」そんな感じです。それはすでに「もう奇跡は起きているではないか!」と言いたかったんです。

 それで・・、つまり・・。北斗のケンシロウの様に、「アチョ!アチョ!チョチョ・・!!。オマエはもう死んでいる!」じゃなくて、何もしないで「あなたはもう救われている」と言うことなのです(チョット古いですが・・ゴメン!)。
 キリスト信仰は、そこに回心(かいしん)、そこに真実があるとイエスは伝えたかったのです。その真実とは何か?。奇跡以外の記述にあります。イエスの言葉・説教は、奇跡の記事と打って変わって、非常に強く熱く語られているのです。それは何ですか?、私は言わないよ(言葉に出来ない?)・・、私だけのものですから。あなたはもう知っているかもしれませんが・・。奇跡が本当の出来事かは、熱心に熱く語られた中にあるような気がするのですが・・。

 たまたま、大宮牧師が、そこの<回心>の話をして、<改心>ではないんですね?と確認したら、「そうです」と言う事だそうで。先に書いた、仏教の回心(えしん)と読みが違いますが同じ意味。「そうそう!」と一人で納得したのでした。何で回心と書くのかと言うと、知識とか思想ではなく、感覚みたいなものなので、又忘れたりしまうので<グルグル回る>の、字を使うのです。

 信仰は知識ではありません。奇跡は起きない、しかしイエスに因って起きていた。イエスの伝えたかったものは、常識や知識を確信する者には見えない、奇跡と言う<信じざるを得ない出来事>を繰り返し起こさないと気づきが無い、と、そして最後には十字架にあがったのかもしれません。キリスト教も「神を信じましょう!」ではないんですよ。こんな感じ「GOD LOVE ME]、動詞にsが付かない所が良いでしょう?。

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信仰と宗教の違い

33 宗教では救われないんです?
 何でこんなに宗派があるの・・?。初めは同じ信仰でも、どんどん解釈に因って分かれて行くのが?、これもまた人間の集団の必然なのです。しかし、強い集団になって世界を征服したい、という野望は本来、信仰には無いのです。繰り返しになりますが、信仰には自分が信じれば良いのであって、外に向かって集団の為・正義の為という要素が無いのです。<あなたが信じれば私も幸せになるとか、世界中の人が信じなければいけない>、のではないのです。これは徹底したした自立の考えです。一つの自立の為の道具なのです。<一人一宗教>かもしれません、ですから、私が書いている事も、ああ・・マリオはそう見てるんだ、と思っていただければ良いのです。

 宗教の中身はとにかく、骨格の部分について書きます。それは現世利益が目的ではないという事です。現世利益は<家内安全・商売繁盛・無事故無違反?頭髪増進!>など、生活に役立つ利益があるものです。本来の宗教はそのようなものを目指してはいません。じゃあ何のために宗教や信仰するの?、そこが問題なのです。よく分からない?、そこで入り口の為に過程として現世利益があると思えば腹も立ちません〔方便とも言います〕。

 未だに<一神教は多様性が無く、多神教である日本の神や仏教は、異なった文化・価値観の相違を理解することが出来る>という考えがありますが。それは価値観や有益性に因って宗教を図るという事です。でもそれは、そもそも間違っているし。信仰は元々<目に見える相対的な価値観(この世的価値観)に基づく物ではない>し。又、信仰自体が自分だけの事なので、人に訴える必要が無い。つまり他者と共有する必要が無い、他者を排除する論理が無いのです。しかし、宗教団体になると違ってくるのです。そこを押さえて、宗教を見てほしいのです。

 信仰は人間として成長する・とか、立派に成るものでなく、賢くもならないし、社会を変えようとするものでもありません、毒にも薬にもなりません。そもそも考えを変えるものでないのです(結果的に成るかも?です)。つまり、信仰は不幸な人が幸せになる、便利な乗り物ではないのです。そう言われると、唖然としますね・・・。
 <救われるんじゃなくて、救われているんです>。ますます分からない!。同じ<救う>と言う言葉でも意味が違うんです。適当な言葉が無いから、しかたがないんです。

 例えばこう言う事です、<人生はお金じゃない。人はパンのみに生きるあらず>と言いますが、それを知識として理解するのではなく、体が理解してしまう事です。知識ではなくなるんですね。又例えば、病気になったとします。お祈りすれば病気が治るのではなく。病気になったという事に、納得する事→進んで納得出来る事なのです(嫌々でなく)。<病気は病気としていただく。すべてを御縁としていただく>世界なのです。じゃあ!何にもしないの?。でも、何もしないという事ではありません。やっぱり普通に欲で動くのです。しかし納得することなんです。又は自分の愚かさ・身勝手さに気づくだけです。ありえない??。どうにも成らないことを、どうにも成らないと知る・感じる事だけです。

 もうチョット言うと、そこに心が晴れる歓び、命が解放される感動を受けるのです。その背景に仏や神の慈悲・愛を見る・感じるという事なのですが、実はそこは未知なのです。それを信じるか信じないか、絶対的他者の存在を認めるかどうか、が信仰を持つかどうかの境目なのです。

 ですから真宗では、仏教そのものを<論理>、だと言う人もいます。この辺は、先に述べたように自分で解釈すればいいのですが・・・。ただ、論理が<腑に落ちる>感覚は、哲学や思想とは違うと思うのです。つまり、学ばなくても初めから分かっている人がいたり、修行・勉強しても理解出来ない事も有るのです。そして、その背景に存在すると信じられているのが、神や仏・アラーです。仏教では、こうした人をめぐるすべての営みを<自然の摂理>と言い、それに触れる事を仏法を学ぶと言います。ですから、元々葬式や先祖供養は別物なのです。回心(えしん)や回向(えこう)を信じる(又は、信じちゃった)事なのです。この辺の説明は、意味は分かるんですが、仏教用語なので詳しくは専門家にお任せします・・(でも、ものすごく解釈が分かれるんです)。

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32 宗教と信仰は違うの?
 SNS(インタネットでの交流)をしてて気になることがあります。それは宗教・信仰への偏見・誤解が多いと言う事です。たぶんこれは宗教家〔専門家〕と言われる人も、宗教の中に居る人達も同じかもしれません。私が間違っているかもしれないんですが、これはいつも言いたい、大事だと思っていることなので書きます(漸くですが・・)。
 世界(世間)で宗教は、人々の心を癒し・平和な心を作ると思われる反面、古来から戦争を始めたり、多くの社会犯罪を起こす集団と見られています。しかし、世界宗教・3大宗教と言われる本来の姿は、貧民や差別された人々の救済を目的とした集団であったと思います。それが何故、殺し合いの道具として宗教がなってしまったのか、そう思われているのか、残念でなりません。物質文明、物・金が支配する現代にあって、必要とされるべきものが宗教なのですから。

 まず勘違いの元から。<信仰と宗教は別なものなのです>。信仰は個人のものであって、集団のものでは在りません、<個人のその姿を言います>。一方、宗教は団体・集団を外から見た名前、単なる肩書きみたいなもので信仰者の姿ではありません。つまり<信仰は人と神・仏との関係で、宗教は人と人との関係>なのです。単なる言葉の概念の違いと思われるかもしれませんが、そこが宗教(宗教と言われるもの)にとって一番大事な要素なのです。

 信仰は自分がそれぞれに持つものであって、他からそれは違うとか、それは正しいとか言うものではありません。ですから、自分が勝手に信じれば良いのです。ですから<イワシの頭も信心から>と、昔から言われたのです。(何故、イワシ教というのがないのは不思議ですが・・、たぶん食べる物だからでしょう(笑い!))。国が認めるとか、偉い人が認めるというものでは無いのです。あなたが、信じられる・信じたいと思うものが信仰です。ですから、布教も「神を信じましょう」も、献金「お布施をいただきたい」もない世界です。

 一方、宗教は同じような信仰を持つ物の集まりです。相互に信仰を語り親睦を図る集団です。ただし、信仰はあるなしに係わらずです。ここが問題なのです。集団を作ると指導者が必要になり、様々な活動をし始めます。それは国家であったり企業であったりする集団と同質なのです。人間の作る団体はすべて同質なのです。詳しくは〔何故死ぬまで働くか?〕を読んで下さい。ですから、時に指導者の恣意的な信仰に変えられてしまいます。そこを何とか持ちこたえるために、個人の信仰を守るために書かれた物が聖書・仏典・経・コーランと言うわけです。もし宗教が人を救うとしたら、基本的に集団全体ではなく、信仰を持つ一人一人が、それぞれに救われるのだと思います。<救われる>の意味が一般的とは違いますけどね・・。

  宗教には色々な定義がありますが、信仰者を外から規定するものですから、ここではパスします。ある時、お寺さんとの関係は?、と尋ねたところ「寺との関係は付き合いだよ」と友人は答えてくれました。まあある意味正解ですね。宗教(宗派)が無くても信仰が存在するように、信仰は無くても宗教は存在するのです。
 宗教者の集団が政治政党だったり、政党が宗教だったり。政党が土俗信仰の塊だったり、あいまいだ!、あいまいすぎる!。そこですっきりと、独断と偏見の塊で次にすっきり書きしました。

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自分を振り返る、供養

31 先祖供養は大事か?
 先祖供養は大事?。人は3代経てばどんな人だか、たいてい忘れられます。どなたでも、おじいさんおばあさん合わせて4人いますね。全員の名前言える人はそういません。ましてやその人達の事・人となり素性を知っている人はいないでしょう。4代前を知っている人はまずいません。ですから、あなたも子孫にすぐ忘れられます、何故?。皆さんそれなりに、今を生きるのに一生懸命だからです。御先祖さんに向かって、いつもお願いしているようでは困りますね。ということで、忘れられて良いのです。

 あなたが死んで100年ぐらい経つと、あなたも立派なご先祖様ですね。ご先祖様のあなたが、もしも、子供たちが墓をきれいにしなかったりしたら、子供に祟(たた)りますか?。もし、孫たちが墓参りに来なかったら、孫たちを不幸にしますか?。私だったら、何があろうと子孫を不幸にするようなことはしません。そんなご先祖様は要りませんね。チャン!チャン!。でも、人間は論理では割り切れないので、程ほどに! 

 じゃあ、何故先祖供養という考えが生まれ、仏壇店があるのか?それは人と人の関係をつなぐものだからです。人は繋がりたいんです、同化って言ってますけど・・。その辺を、宗教と信仰で語ってみましょう。

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不安は無くならない!

30 不安は何故?
 不安の原因は、超ッ〜簡単に言うと<明日も生きられるか?>です。正確に言うと<○○出来ないかもしれない>と言う状態です。しかし、明日死ぬわけでもないのに不安だ、という人類発展型パターンで言いますと<頼るべき、集団の中での自分の役割を失う>事が大きいんですね。居場所がなくなる・世界が無くなると言う事ですから。自分でもダメ、人にも頼れない状態です。人間で有る限り不安のない人はいないし、心の強い人もいません。最終的には、絶対的に逃れられない老病死を見つめられる事ですが・・、難しい。そこで、ここで言っている事は、そこに至るツールを得る、道筋と言ったほうがいいかもしれません。私はそれを、現実と頭のズレや人と人の関係性の中から見つけようとしているのです。


 それには例えば、それは、自分で役割を貰うんです。その為には、人の為に何かをするボランティアをするとか、人との係わりを持つ事です。それを上手くしないと逆にストレスになります。それを上手にするコツが、ここに書いている事です。最後まで読んでね!
 
 人間は集団の中の役割をしないと落ち着かないのです。自分の利益だけ・自分の都合だけで生きていると、満足できないんです。そこが不思議なんですね。集団の中で頼られる自分があって、自分も頼ることが出来るのです。逆でもいいんですけど。これ当たり前で書く必要ないと思うんですけど・・。書きました。


 自分にあった適度な、役割は周りを幸せにし、それによって自分も満足します。与えられた役割は何でも良いんですが、自分にあった役割はなかなか見つからないと覚悟してください。私は<初めは道路工事の旗振り>からだと言ってます。市民活動などにも参加して、なるべく大きな世界に居場所を作ってください。まずは行動して行くと分かってくるのです。食事の時の<なべ奉行>でもなんでもいい、いっぱいすると自分の役割や不安の元が分かってくるんです。<お化け>が怖いのは、暗闇の中に長時間居た事がないからなのです。<お化け>なんて出ない!、こういうの案外経験しないと、体では分からないんですよね。居ないと思っていても怖いんです。(これ面白い例えだと自分で思う!)


 きれいな花を見て美しいと思うのは、周りの人が言っていたのを聞いて、きれいな感覚を知ります。やさしさも、又そうです。あなたのいた環境がそうでなかったとしても、今は選べる時代なのです(昔よりですが・・)。自然や人の悲しみや喜びに共感する心は、人の心を豊かにします。それは集団での役割の一つでもあります。共感し・共感する心は誰にでもあります。人の感動は無限だと思います。知り・伝え・育てるか否かはあなたしだいなのです。

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