原典聖書研究

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聖書解釈

今日は随分と退屈そうな題のお話です。この聖書解釈の問題について話し合うと、解釈ではなく癇癪を起こす人を随分と見てきました。おそらく理性的に自分の立場を弁明するのが不得手なのか癇癪(怒り出す)の発作が起きてしまうのでしょう。さて余計なことはこれぐらいにして早速本題に入りましょう。 

 今日考えたい聖書箇所は新約聖書のペテロ第二の手紙の1章 20節です。以下に、この聖書箇所の一般的な翻訳をご紹介します。

新共訳・ 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

口語訳・聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

新改訳・それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです。

WEB・knowing this first, that no prophecy of Scripture is of private interpretation.

  何が問題かというと上記の翻訳は私的(自分勝手な)解釈は問題だが公的(=教会や国家の)解釈は良いと言う誤解をあたえるかのように訳されている点なのです。お判りでしょう。ここには明確な問題のすり替えがなされています。問題は「正しい解釈」が良いのであって私的であろうが公的であろうが「間違った解釈」は問題なのです。そして現実の国家やその手先となった教会によって都合の良い解釈=翻訳がこれまた国家の費用によって領布されています。この点は今まで随分と沢山取り上げてきましたので具体例はそちら以下のリンクをご覧ください。

    間違った公的解釈の実例(これ以外にも沢山在ります。)

  王権神授説  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1294750.html
  男女の服装  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1242034.html
  教会の分類 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/942292.html
  翻訳と解釈 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/857729.html

  まあそのことは置いておいて原典に戻ってこの箇所のギリシャ語本文に目を向けましょう。以下にそのギリシャ語を語順そのままに出来るだけ正確に直接日本語(直訳)にしてみます。

ギリシャ語原典直訳 20 節・この事を 第一を 知っているらは、それは 全ては 預言は 書物の 自分の(らを)上解放(解明or 解釈)の 無い 彼が存在し続けている。

 これを、意味を変えずに日本語にしてみます。

  私(試)訳・ この事を第一に知っています。全ての書物の預言(聖書)は、自分の解明では決してありません。

 分かりますか、「聖書を記した預言者たちは自分が経験した事や神様の啓示を自分で解明(釈)してそれを記したのでは無い。」という意味なのです。そう分からない事も理解できない事も一切の解釈抜きに神の啓示をそのままに記した物が聖書だと言っているのです。

  この聖書箇所に関しては教文館と言う出版社から出ている織田 昭氏の新約聖書キリシャ語小辞典の επιλυσιs(解明or解釈)の項目(213〜4ページ)に随分と紙面をさいて詳しく解説されています。

  聖書がこの箇所で言っているのは解釈云々ではありません。そうではなく、聖書の本質を言っているのです。それを曲解釈して個人解釈禁止問題に発展させる翻訳のあり方は我田引水で、言っている翻訳委員会その物が、自らが犯している曲解釈の正当化をしているに過ぎません。

  聖書がここで言っている事は、「預言者自身が神様から啓示された言葉を解明(解釈)しないでそのまま記した」という意味なのです。そのことは同じペテロによって記された第一ペテロの1章10節には「預言ている預言者自身が自分の預言を理解する為に調べた」という内容が明白に記されています。

  と言う事で、この箇所は、聖書を翻訳する時に気をつけなければならない大切な事を示しているのです。すなわち、「聖書を書いた当人(預言者自身)が理解、あるいは了解出来ない内容の物をそのままに聖書に記したもの」が聖書なのです。と言う事はそれを、「誰かの第三者の個人や団体(所詮他人)がいくら注意したとしても聖書を正しく解釈するのは困難である」と言う事です。いやどちら道、「正しい解釈だと言える物は存在しえない」と言った方が正確なのでは無いでしょうか。

  と言う事で「著者(正確には筆記者)が理解していない事をさも理解できたかの様にまことしやかに翻訳する事には当然無理がある」と言う事なのです。まして、理解していない、いや聖書には預言者達が自分の目で見、自分の耳で聞いた超自然的な理解しえない神の言葉や神のなされた不思議が克明に書かれているのです。

  その人間に理解できえない事を、時代背景もまたその場にも居合わせなかった第三者(読者)に分かる様に、美しい文章で分かったかの様に翻訳するのは、かなりの無理があると言わなけれはならないのでは無いででしょうか。

と言う事で、何故こんなふうに原典の主張を曲げて翻訳=解釈して無理な翻訳にしなければならなかったかという信徒に知られたくない聖書翻訳の暗部が見え隠れしている聖書箇所がこの箇所なのです。

その様な曲解釈が長い期間、世界中で繰り返してなされてきた目的は明白です。

この様な翻訳を生み出しておけば、真剣に聖書を学び原典を読んだ人がほんやくされた聖書の間違いに気づき、意義を唱え、教会の都合に合わせて翻訳している悪事を指摘されても、その様な★指摘を★私的と★指摘して自分達のしてきた悪行の数々に対する批判をかわし、指摘したものを公的な場に出れない様に異端者の烙印を押して、ご都合解釈以外に一般の信徒が耳を貸す事が無い様にすることが可能になると言うことなのです。
 
  と言う事は、とりもなおさず 「聖書翻訳には問題が多く、教会には随分と後ろめたい事がある」と言う事なのです。

  今日は聖書翻訳や解釈というものの難しさを少しはご理解頂けたでしょうか。 と言う分けで直訳なる物を現在進めています。以下のリンクを参照ください。

聖書直訳へのリンク http://bible.co.jp/bible/

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なんでまたペテロ2なんかするのフランシスコ会の聖書でも偽典といわれてるでしよ どうしてあなたは饅頭の皮ばかりかたるの

2006/9/25(月) 午後 8:44 [ 山崎 浩 ] 返信する

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