原典聖書研究

ギリシャ語はギリシャ語の書庫や聖書関連記事は「無題」の書庫です。2018年5月29日より新投稿不能31日回復しました。

全体表示

[ リスト ]

妻は夫に逆らえ!

 今日は随分と進歩的な主題です。しかし、この言葉には考えなければならない内容が含まれているのです。  前置きはこれくらいにして早速本題に入りましょう。今日、取り上げる箇所は表題とは全く反対のことを言っているかの有名な新約聖書エペソ人への手紙5章22節なのです。 いつものようにまずこの聖書箇所の一般の翻訳で代表的なものを取り上げてみましょう。
 
1・新改訳・妻たちよ。あなた方は、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

2・新共同訳・妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

3・岩波訳・女たちは主に[従属する]ように、自分の夫に[従属しなさい]。

 面白いですね。こんな簡単な聖書箇所ですが翻訳によって随分と様子が違います。こうなって来ると使徒パウロがギリシャ語の原文でなんと記しているのかが気になります。早速以下に記してみましょう。 

αι γυναικεs τοιs ιδιοιs ανδρασιν ωs τω κυριω 

  これを順番を変えないで単語毎にそのまま日本語に置き換え(直訳)してみます。

その 女らは その 自分らに 男らに 様に その 主(人)

できるだけ原文を変えない様にして日本語にしてみましょう。

私訳・「女たちは 自分の男らに 主の様に 」

  となります。分かる事ですが主動詞(術語)も 目的語も無い短い文章なのです。ですからこの言葉の周辺から術語と目的語を捜して来ないと英語にも日本語の文章にもならない箇所なのです。

  さてこうなると原文の文脈を何処で切る(ピリオードの場所)かが重要な意味を持ってきます。冒頭に上げた翻訳では一番上の新改訳(1・)は前節の19節の直前にピリオードを設定します。(ギリシャ語の元の文章には句読点は一切存在しないので編集者が自由に文脈を設定できる。)そうして その前の節にある分詞(主格受動現在男性分詞複数)をこの20節に適応して、「妻は夫に従え」と訳出しているのです。しかしこの訳文には問題点が残ります。それは、ギリシャ語の修飾の基本である分詞、形容詞の修飾関係は「性、数の一致」が条件なのです。原文を見れば分かる様に「従っている」は男性受動現在分詞主格複数)です。 また、新約聖書本文批評の前世紀の権威者であるメッツガー教授は、文脈の設定をこの20節の直前に設定します。という事は前節19節の「従っわされている男ら」と20節の女たちの間には何の修飾関係も発生しないと言う事になります。あと残るのは24節にある「教会が自分の為に(中態(=行為の目的が自分自身)キリストに従っている」を借用してこの箇所の術語としていると考えられます。

  という事で新改訳(1・)の 「妻は夫に従え」という翻訳は単純にそのまま受け入れるには二重に問題があると言う事にになります。そして、もし24節の借用だとすると「自分の利益になる範囲内(=中態=行為の目的が自分自身)で夫に従え」と言う意味で記されてると考えなければなりません。あるいはそうであるかもしれません。

  さて次なる、新共同訳(2・)の「夫に仕える」はどこにもそのような言葉は無く、翻訳者が適当に(自分の願い=大抵翻訳者は男)この様に訳出したと考えられます。

  岩波訳は原典に出来るだけ忠実であろうとして訳出されており、[従属する]という言葉を 鍵括弧にいれて翻訳者の解釈であることを明確にしているのはたいへん良い訳であると思います。 

  さて、以上のことを踏まえた上で今日の表題に戻りたいと思うのです。 この箇所のギリシャ語の原文は「女たちは 自分の男らに 主の様に 」と言う事なのです。そして 術語と目的語は無いのです。パウロはこの箇所でそれら意図的に省略したのです。何故でしょうか?

  ここから先は聖書に書いていない事を考えますので「想像」と言う事になります。もし彼が書いてくれればそんな想像は不要なのです。と言う事は反対にパウロが「当然記されているべき言葉を記さなかった」と言う理由があるのでは無いのでしょうか。

  もちろんその事に関しては様々な解釈が成り立ちます。

  当然、分かりきった事だから記さなかった。と言う立場を取ると、妻は夫に「従う」のが当たり前なのだと言う考えが(or思い込み?) がまず第一に考えられます。

  次に考えられるのは理想はよく知っているけれども現実を見なければならないと言う人も在るでしょう。聖書の中に夫婦の姿が沢山記されていますがそれぞれを思い浮かべてみてそれをこの箇所に当てはめるのも正当な解釈だと思います。

  「主の様に、夫に」と言う言葉が意味深遠だと思います。具体的に見ていきましょう。

  最初の人アダムとエバに当てはめれば面白い翻訳になります。

 最初の女「エバ」は「禁断の木の実を食べるな」という神(主)の明確な命令に逆らったのですからエバに当てはめてこの文章を翻訳すると。「主に逆らった」様に夫にする事を言っているのですから

★ エバ訳の聖書 
 「女達は、自分の夫らに逆らえ、主に逆らったように。」と訳しても間違いと言えない事になります。

★アブラハムの妻サラ訳の聖書 
  創世記18章12節「サラは心の中で(主を)わらってこういった。....」

  「女達は、自分の夫を笑え、主を笑ったように。」

★ヤコブの妻ラケル訳の聖書 
  創世記30章1節 「私に子供を下さい。でなければ私は死んでしまいます。」(夫に不平を言った)

   女達は、自分の夫に不平を言え、主に不平を言ったように。」
  
★王ダビデの妻ミカル訳の聖書
  競汽爛┘覽7章20節「イスラエルの王は本当に威厳が御座いましたねごろつきが..」(夫を蔑んだ)
  女達は、自分の夫を蔑みなさい、主を蔑んだように。」 
 
★ヨブの妻訳の聖書 
  ヨブ記2章9節 「あなたは...神を呪って死になさい。」(神を呪った)

  女達は、自分の夫を呪いなさい、主を呪ったように。」 
 
★イスラエルの民訳の聖書
  エゼキエル書の16章16節 「イスラエルの民か神である主を捨て外国の神々と姦淫(偶像礼拝)した。

 女たちは自分の夫を捨てて他の男と姦淫しろ、あなた方が主にしたように。」

となります。

  私は何もこの箇所を上記のその様な翻訳にするべきだと言っているのではありません。パウロがギリシャ語の原文で「女たちは 自分の男らに 主の様に 」という言葉でそれ以上何も付け加えなかった意図と言うものがあったとするならば、将にその様な多様な妻たちの信仰の現実の姿がエペソの教会には存在していただろうと思うからなのです。

  初代教会は全て聖い素晴らしい何の問題も無いキリスト者の善男善女の集まりでは決してありません。初代教会内には世の中と全く同じように様々な現実の問題が常に存在していました。

  以下に新約聖書の教会の様々な現実を記している箇所を列挙します。

信徒間の訴訟(汽灰螢鵐6章節から11節、
近親相姦(汽灰螢鵐7章1節から7節)、
離婚 姦淫、説教批判(競灰螢鵐10章10節)、献金ボイコット(競灰螢鵐硲絃1節から9章15節)
貧富による差別(ヤコブ書2章1節から13節)
背教ヘブル10章25節、汽謄皀4章1節、汽謄皀1章20節、競謄皀2章17節 他)

  このような現実を上げれば新約聖書も、前に見た旧約聖書も神様を信じる人々の様々な現実の苦悩見ることができるのです。これは、聖書に記されている神様を信じる人々の問題のほんの一部にすぎません。
  そしてエペソ教会は初代教会の中でも取り分け問題の多い教会であったのです。それゆえパウロはあえてこの箇所に術語や目的語を記さないで現実を脳裏に思い浮かべさせ、そしてしかる後にあるべき夫婦の姿を記しているのではないでしょうか。

エペソの手紙4章24節直訳 

・反対に 様に その 教会は 彼が下に任命し続けている その キリストに、 この様にして そして その 女らは その 男らに 中で 全て。
  
  24節の原典直訳にある「反対に」と言う言葉に注目して欲しいのです。原典には明確に反意を表す接続詞がアルラが配置されているのです。 現実を踏まえてあえて尚、あるべき教会の姿とそれに習った夫婦の姿(現実はいずれも反対である)を記す為に、パウロはあえてこの箇所に 述語と目的語を省いたのではないでしょうか。

最後にもう一度この箇所の私訳を記します。 「女たちは 自分の男らに 主の様に 」 

この記事に


.


みんなの更新記事