原典聖書研究

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愛の定義

 今日はどんな題ではじめようかと様々に考えました。「愛と法律」、「法律と愛」、なんて言う題にすると、きっと「何時から不倫の相談をはじめたのか」と疑われそうな題になってしまいます。ずばり今日は「愛の定義」として今日の聖書箇所を見ていくことに致しましょう。

  キリスト教は愛の宗教と言われますが、一言で言って「愛とは何か」というお話は、この5?年間一度も聞いた事がありません。しかし、聖書はこの定義を明確に記しているのです。今日の聖書箇所こそ、その「愛の定義」の聖書箇所なのです。 

いつもの様に、一般の翻訳をまず記しましょう。

新共同訳・愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

口語訳・愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

新改定訳・愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 上記の翻訳で 「愛の定義」がおわかりでしょうか? 「なにか釈然としない」とおっしゃるかたが多いのではないかと思います。例によって、使徒パウロが記したギリシャ語の原文を見る事に致しましょう。

原文のギリシャ語のローマ13章10節の意味を一語ずつそのまま日本語=直訳してみます。

  直訳 ・その愛 そのに 近くを 悪を 無い 彼が働かされる 。 満たされた物 そういうわけで 法律の その愛は。

  これを、出来るだけ損なわないように日本語らしくしてみます。

  私訳・愛は親しい人に悪を働かさせないのです。そうなのです、法律の満たされた物が愛なのです。

  違いがお判りでしょうか? いろいろち細かな相違は放置して一点に絞りたいと思います。一番最後の部分に注目してください。 

  一般の邦訳は「愛は律法(ユダヤ宗教法)を全うする。」そして、原文は 「法律(宗教法)を満たすものが愛だ」となっているのです。 「何がどう違うのか、同じではないか。」と言う方には果して同じでしょうか? と聞いてみましょう。じつはこの両者には大きな違いが存在するのです。愛と法律どちらが地位が高いかと言う視点で見てみると良いかと思います。 

  一般の邦訳は■「愛は律法を全うする。」と言う事はすかさず■「愛は律法を超越してよりすぐれた物」であると言う前提=「■人間の思考」が隠されているのです。 

 一方の原典の直訳は、●「律法を満たす範囲の行為が愛である。」と明らかに●「愛に対する律法の次元の高さ=優位」が前提=「●聖書の原則」となっているのです。

  この両者は一見同じことを言っているように見えますがその根本は全く相違しているのです。

  この一般の翻訳の背景には、実は大変大きな問題が隠されています。それは「律法=旧約聖書のテーマ」と「愛=新約聖書のテーマ」の優劣論議です。もちろんこんなふうに聖書を簡単に割り切る事は出来ません。旧約聖書にも愛や誠実があり、新約聖書にも神の律法が記されています。まあ一般に言われている程度の理解での事としてお聞きください。
  その様な一般の理解と言う事を踏まえた上で、販売されている翻訳聖書の立場として「新約聖書(愛は)は旧約聖書(律法)に優越している」という思考形体が存在しているのではないでしょうか。それ故に、この箇所の様に「愛が律法を完成する」などと「律法に対する愛の優越性を当然の如く訳出している」のではないかと思います。
  大切な事は聖書に実際に「新約聖書は旧約聖書に優る」と記されているのならば良いのですが原典で聖書の何処みてもその様な箇所は見当たらないのです。
  そして、原文のギリシャ語で読むと、反対に新旧両約聖書が全く同じ物として扱われているのです。その論拠の一つがこの箇所なのです。
  パウロが記したギリシャ語の聖書の原文は「旧約聖書(律法)に合致しているから、新約聖書(愛)は有効だ」と言う内容なのです。あるいは「旧約聖書の教えの範疇に新約聖書の教えが存在している。だから新約聖書の教えは正しい」と明確に旧約聖書の優越性を主張していると見た方が正確だと思うのです。
  原文のギリシャ語がこの箇所で主張している事は一般の翻訳が訳出しているとはむしろ反対です。
「人間が愛だと思っている行為の中で旧約聖書に合致しているものだけが本当の愛だ」と聖書のこの箇所(パウロ)は言っているのです。それ以外の行為はたとい人間が愛だと思っていても聖書の教えている健全な愛ではないのです。間違った愛なのです。
 何故なら、愛には様々な間違った愛があるからです。間違った愛として金銭愛、溺愛、偏愛、などが在ります。愛そのものは健全に思えても対象を間違えると大変悪い物に転化してしまいます。地位や金銭や物に執着する愛情を聖書は否定しています。ですから愛だけではその愛が良い物か悪い物かは判断できないのです。聖書が良い物として奨励している愛は、沢山ある人間の愛を動因とする行為の中で「律法=聖書の教え」を満たしている「愛」が健全な愛だと言っているのです。

  それは当然です。配偶者が存在するのに、それ以外の異性に心を引かれ愛情を感じたとしたら、それは邪恋であり律法に禁じられている「姦淫」に繋がる罪の行為となるのです。また、両親が神様に与えられた自分の幼い子供を遺棄して、慈善活動にのめり込んだら慈善活動その物は愛の素晴らしい行為に見えても、遺棄された子供たちは両親を敬う事が出来ないで餓死してしまう事でしょう。もしこのような行為があったら、それは聖書が言っている愛では無いのです。 律法が言っている教え(具体的には有名なモーセの十戒です)が満足されてこそ正しい愛であって、それ以外の行為は、たとい当人がどんなに愛だと思っていても、聖書の言う愛ではあり得ないのです。

  そして、その愛の対象とされるべき範囲は「隣人」と聖書のこの箇所は教えています。これはギリシャ語のプレージオンと言う言葉です。これは日本語の隣人と言う意味より以上の意味を持っています。直訳には「近い」と訳出しましたが、これが大切です。人間は遠くの他人を愛する事はたやすいのです。しかし、目の前の配偶者や実の子供や両親などの家族を実際の行為を持って具体的にしかも正しく愛する事は大変難しいことなのです。プレージオンと言う言葉が第一に指しているのは、法的に言うならば「一親等」です。そして今日の様々な事件や犯罪を見てみると此の一親等内で起きている事件があまりに多いのではないでしょうか。

  親が自分の子を殺し、実の子が親の家に放火して親を焼き殺す悲惨な事件が頻発しています。そしてその家庭の夫婦関係が大変乱れて子供たちが苦しんでいるのです。そしてその親たちが医師であったり、教育に従事していたり、かなり社会的に責任在る立場の方も多くお見かけします。他人の子供、見ず知らずの患者さんには笑顔で良い評判を頂いていても、一親等の家族に憎まれるような現実が今の世界を満ちあふれているのです。

 ですからこの聖書の「近い=一親等を具体的に正しく愛せよ」という教えはその様な今日の世界に大変重要なことを教えているのです。地球の裏の飢えている人を愛する事も大切ですが、あなたの目の前のあなたの夫、妻、両親、子供を正しく愛する事出来ているでしょうか。 その近い人たちが聖書の律法を守れるように貴方は仕向けているでしょうか。

  これが、此の聖書箇所が教えている正しい愛の姿なのです。

  今日の様々な家庭や教育や政治などの様々な社会問題を見る時に、この正しい愛の判別基準(=聖書の教えにあった愛)が欠如している事に原因が在るのではないでしょうか。

  参考の為に正しい訳している二つの翻訳を最後にご紹介しておきます。

岩波訳・愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのです。  
WEB・Love doesn’t harm a neighbor. Love therefore is the fulfillment of the law.

参考のために・★穂新約聖書と旧約聖書の関係についてはやはり基本事項として、最も聖書原典に準拠しているとされるウエストミンスター信仰告白(基準)の第8章5〜6を確認して置く必要があるでしょう。「だから本質上異なった2つの恵みの契約(旧約と新約聖書)があるのではなくて、違った時代の元に、同一の物があるのです。」

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