原典聖書研究

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罪の無い者

聖書を原文で読むようになって最近はすっかり邦訳聖書から疎遠になってしまいました。何故かって? それは怖くって翻訳が読めないからです。 そんな思いにさせた箇所の一つが次の聖書箇所です。

マタイの福音書12章7節 以下にこの聖書箇所のいくつかの代表的な翻訳を記します。

■新共訳・もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
■口語訳・『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
■新改訳・『私はあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かをしっていたら、あなたがたは罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
■岩波訳・もしお前たちが、『私の望むのは憐れみであって、犠牲ではない』[と言う言葉]が何を意味しているかわかったならば、罪の無い者たちう断罪などしなかったであろうに。
■WEB・12:7 But if you had known what this means, ‘I desire mercy, and not sacrifice,’ you would not have condemned the guiltless.

  聖書に通じた方であれば誰でも上記の翻訳に 「アレ!」という疑問をもたれる事でしょう。そう、いずれの翻訳を読んでみても聖書には「罪の無い人間が存在する」かの様に訳出されています。

聖書が幾度も繰り返して教えているのは明確に「神の前に罪の無い人はいない」ということです。
以下に代表箇所のみを記します。
● 旧約聖書 砧鷁Φ8章46節「罪を犯さない人間はいない」
● 新約聖書 ローマ 3章 23節「罪の無い人はいない」

もし、上記の翻訳が間違いないなら聖書は自己矛盾を起こしている事になります。何故ならマタイの福音書の12章7節の翻訳でキリストは自分の弟子たちに対して明白に「罪の無い者」たちと主張した様になっているからです。

★本当にこの翻訳が正しのでしょうか? ギリシャ語の原文に目を向ける事にしましょう。原文でこの箇所をを見てみると、「罪の無い者」と訳されている語には珍しい単語が使われているのです。とりあえずこのフレーズを見てみましょう。 ギリシャ語の原文はこの部分はこうなっているのです。

「ουκ αν κατα δικασατε  τουs αναιτιουs. 」以下に逐語直訳します。
「無い ともかく あなた方が下に義(有罪宣告)した その 罪に問われないらを 」となります。

随分と原文と翻訳は違っています。そして問題の「罪の無い者」と言うのは「罪に問われない」となっています。全然意味か違っていますね。詳しくこの言葉を見ていく事にしましょう。

問題は一番最後の「αναιτιουs.=アナアイテイウス」という言葉です。いずれの翻訳、英訳も全て「罪が無い」と訳出しているのです。しかし、ギリシャ語で見ると全然そんな意味の言葉ではないのです。

ギリシャ語で「罪がない」という時には、ヨハネの福音書8章7節(この箇所は本来の聖書ギリシャ語の原典本文には欠如している部分であるが)にある 「 ο αναμαρτητοs」とするはずです。

★いったいどう違うのでしょうか?

このマタイの12章7節の最後の「罪が無い者」と訳出されているギリシャ語は 二つの言葉の合成語です。
『「α」+ 「ν=母音が続く場合の音便」』+「 αιτια」です。

それぞれの意味は

「否定語」+ 「要求 =原形の動詞αιτεω」と言う意味なのです。

★と言う事で原典のギリシャ語がこのマタイの福音書の12章7節で言っているのは「罪がない」ではなく 罪が「要求されない」と言っているのです。

★と言う事は「要求されない」だけであってその人に「罪は存在する」わけです。

この事は以前お話した「罪の許し」と言う語の誤訳(罪の放置 参考URL=

http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1154299.html )の箇所と根深い関連があります。

「聖書が教える贖い」とは人間の罪が無くなるのではなく、「罪がそのまま放置される」と言う事でした。もしこの箇所が罪があってもその事が「罪の有無が要求されない」ならばそれはそのまま放置されると言う意味と符合するわけです。

もし、そうででないと、聖書の他の箇所と矛盾する事になります。聖書は明確に多くの箇所で「罪の無い人間はいない」と言明しているのです。もしここでキリストが「罪のない人が存在する」ことを言っているならなら聖書は自己矛盾する事になるからです。

翻訳は原文の意味をそのまま記す事が少なく、分かりやすい言葉に訳そうとする為なのか、その前後の文脈ではわかったような気になるのですが聖書の他の箇所とは食い違いいくら読んでもなかなか聖書の教える事が理路整然と認識しにくいのです。しかし、ギリシャ語の原文で読む聖書はすっきりしていて大変分かりやすいものなのです。

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