原典聖書研究

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弱者の権利の擁護

弱者の権利の擁護

  今日は昨日に引き続いてユダヤの法律(=旧約聖書、特にモーセ五書)の記している大切な事の続きです。早速何時もの様に直訳です。

旧約聖書 申命記21章17節 ヘブル語原典直訳 

17 ・として を その 初子 息子の その 憎まれているは 彼が見なされる に与える事 に彼 口の 2 中で 全て 所は 彼が見つけられる に彼 として 彼の 頭 精力 に彼 判例の その 初子

旧約聖書 申命記21章17節 70人訳ギリシャ語原典直訳 

17 ・ 反対に その 長子を 息子を その 憎まれているの 彼が確かに上に知られる 与える事 彼 二倍ら から 全てらの、 する所らの ともかく 彼が見いだされた(為) 彼に、 それは これは 彼が確かに存在する 初め 実子らの 彼の、 そして この事 彼が適当し続けている その 長子ら。

旧約聖書 申命記21章17節 ヘブル語原典意訳

17・二人の妻の中で憎まれている方の子供が長子であっても、あなたは必ず彼に長子の相続分にあたる他の子の二倍の相続財産を与えなさい。彼があなたの精力の旺盛な初穂だから、この子に初子の判例を適用しなさい。 

 聖書の中を見てみると、大抵の場合に「嫌われている妻の長子の権利を無視して、愛されている妻の子が家督を相続」しています。聖書の規定と全く反対の事が現実には成されていることを聖書は記しているのです。これは告発の記録と言うのが健全な聖書理解と言う事になります。

聖書に見られるいくつの具体例を上げてみましょう。

アブラハムの長子イシマエルは無一文で母共々荒野に放逐されました。イシマエルの権利を頂戴した弟のイサクの家庭ではまた同様の事が起きます、イサクの第一子のエサウと弟のヤコブの間には財産争いが在り、結果的に弟のヤコブが長子として扱われました。お蔭で危なく兄エサウに殺害される所でした。聖書が教えているのは如何に聖書に登場する人々が神様の命令を間もらいなかと言う告発であることが分かります。

当然ヤコブの家も相続では揉めました。父は第10子のヨセフに長子の着る長服を着せていたのです。当然これは聖書が厳しく禁じている事でした。父ヤコブの行為は兄達全員の憎しみを買い、結果的に兄達によってヨセフは奴隷に売り飛ばされてしまったのです。皮肉な事にそのヨセフは、その後にエジプトの宰相になるのです。

あのダビデ王にしても長子のアムノンは異母姉妹のタマルを強姦しその恨みを買って、タマルの兄アブシャロムは妹を強姦して捨て去った異母兄アムノンに恨みを抱きつづけます。父ダビデは知っていても、強姦殺人の前科のある身で何のお咎めも無いありさまでした。収まらないのは犯されたタマルの同母の兄アブシャロムです。そして、アブシャロムは妹の復讐をアムノンに果たし彼を殺害します。その挙げ句に父ダビテ王にクーデターを仕掛けるのですか1年あまりで自滅して、その結果は父の強姦殺人の犠牲者である絶世の美女バテシエバの第二子のソロモンに王位と財産がすべて与えられる結果となるのです。 

 こんな人間として当たり前の事も出来ない人達が続々と聖書に登場するのです。まあこの人達をどう評価するかは置いておいて、本当に聖書の規定は少なくとも聖書中においては誰も実行できていな事を思わされます。

  さて、その事を踏まえながら、やはり神様は長子、特に複数の妻がいて、憎まれている弱い立場の妻の子が長子でがあったなら、長子の権利は相手が弱い立場=嫌われている妻の子であるからといって踏みにじってはならないと言う事を厳しく命じているのです。

  さて、前後の様々な聖書の規定を見ると、面白い事が分かります。それはよくよく見てみると、全て「弱者の権利の擁護」という原則が貫かれているのです。

  と言う事で、今日は「長子が父の家を継ぐと言う聖書に記されている優れた当たり前の原則だけれども、同じ聖書はその素晴らしい神様の基本原則そのものが聖書に登場する信仰者達によって見事に悉く踏みにじられている」と言う聖書の記録のご紹介でした。 
  
  さて、この続きにさらに詳しくこの説明を付け加えたいのですが明日の午後にでも時間が出来れはこの記事に追加したいと思います。

★以下は6月17日午後の追加部分です。
  
  さて上記の「弱者の権利の擁護」と言う事が実現するには、一つの原則が存在する必要があります。その原則とは「弱者の権利を守っても見返りが期待出来ない。」と言うもう一つの現実が存在していると言う事なのです。

たとえて言えば、 母親が産まれたばかりの幼子に尽くしても幼子は母親に何かをして上げる事は無理なのです。確かに笑顔で答えてくれますし、遠い将来には見返りがあるかも知れませんが、母親はそんな事など意に介さず自分の子を愛するが故に見返りなど意に介せずに幼子に尽くするです。

  同じ事が、全ての弱者の権利の擁護に当てはまるのではないでしょうか。「見返りを求めていては弱者の権利の擁護は成り立たない」のです。社会的地位や実績に加え経済力も腕力にも優れた人の権利を守る人にはきっと「見返りは顕著にある」でしょう。政治や司法やマスコミが此の範囲に限定されるとき社会は健全?に機能している様に見えます。しかし、目を弱者の視点に転じてみると問題が判明します。現実の世界では常に「社会的弱者や貧困者などの権利は、守って上げても殆どの場合場合大きな犠牲を伴うばかりで、自分の直接の利益にはならない」ので殆どの場合無視され踏みにじられているのが真実なのです。 

  聖書はこのような見返りが無いのにその人の為に与える犠牲を「愛」と言っています。この聖書が命じている「愛」にはギリシャ語「でアガペー」と言う種類の愛を表す言葉が用いられているのです。このアガペーの愛という言葉が意味しているのは「愛に対して何の見返りも期待出来ない場合にのみ使用される言葉」なのです。

 アガペーの愛の他に日本語では愛となる言葉がいくつか在ります。この「聖書の言う愛とは異質の愛」にフイレオー=「当然の如く見返りを期待する愛」があります。日本語の愛はこちら=友愛を当然のように示しているように思われます。そうしてもう一つの愛=ステルゴーという「自分の肉親にだけ摘要される益」をさす言葉もあります。これは自己愛で聖書の教える愛とは正反対の意味です。日本の教会で使われている「愛」を見てみるとどうも「自分を愛して欲しい」と言う意味の様で愛を要求しているのですからこれは「聖書の愛=アガペー」とは無関係で欲望とでも言った方が正確だと思います。


 と言う事で、弱者の権利が守られる為にはどうしてもこの見返りが期待できない時にのみに成される愛を表すアガペーの愛が必要なのです。これが聖書の教えている一番基本的な愛なのです。そのキリスト教の愛は言い換えるならば「見返りが無いが、正しいから行う」と言う意味になります。日本語としては「愛」ど訳されるよりは「義」という意味に訳出した方が誤解をされる恐れが無いかと思います。

 参考箇所を以下にリンクしておきます。 

 愛の定義  URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1559290.html
 神の愛の目的 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2578673.html
 神の愛 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/652903.html 

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