原典聖書研究

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ボタンの掛け違い!

 ガラテヤ1章16節 

  聖書を原文で読んでいると随分と教えられる事が在ります。特に面白いのは旧約聖書の出エジプト記やレビ記や民数記です。

その中に登場する特徴的な言葉に「肉」や「血」と言う単語に出会います。そんなおりたまたまガラテヤ人への手紙を原典のギリシャ語で読でいてふと気がついた事が在りました。

 ガラテヤ人への手紙、1章の16節の終わりの箇所です。この新約聖書のしかもガラテヤ人の手紙で1章の16節の後半に出ている「 肉」や「血」と言う 単語は旧約聖書の70人訳で良く見かける物ばかりです。生贄にする「肉」そして、祭壇の隅に注ぐ「血」です。そして、その前にある 「★προσανεθεμην」と言う単語も良く見かけます。

これは、原形が「★προσανατιθημι」(プロスアナテイセーミ)で アオリスト一人称単数中態で意味は「生贄を献げる」と訳される言葉です。このガラテヤの手紙の中で使われているこの語は「私が自分の為に献げた」とするのが一番自然な事に気づきました。 

この語は本来「προσ=方に」と「ανα=上に」と 「τιθημι=私は置いた」と言う意味です。 しかし、普通の一般の翻訳が何故か「相談した」などと訳しているのです。 これはどう見ても単語自体の意味からは相当無理な曲解釈になるからです。

いろいろ調べてみると、まあ古い辞書には特例として「ここだけは特例として言葉の意味を無視して『相談』と訳す伝統が在るようです。しかし、この語がその様な意味で使われる他の用例も一切見当たらりません。

唯一この聖書箇所だけの特例として訳出されているようなのです。ギリシャ語の意味からは随分と無理な解釈になってしまいます。

  何故なら「相談」には普通は「βουλευω」や 「συνβουλευω」 を用いるはずだからです。 

この新約聖書のガラテヤ書の1章16節の「★προσανατιθημι」を70人訳戸同様に普通に自然に読んだら、果たして文脈で意味が通じなくなるのでしょうか? むしろ反対に分かりやすく意味がより通じるのでは無いでしょうか。

この箇所でパウロがガラテヤの人々に言いたかったのは「エルサレムの人々=血や肉にに★相談しなかった」と言う意味なのではなくは「エルサレムの神殿に上ったけれども血や肉の★献げ物=罪の為の献げ物」をしなかった。」言っているのでは無いのでしょうか? そして「宮に肉や血の献げ物 を捧げる為にエルサレムに上らなかった」と自然に読めば随分と理解しやすくなるように思います。

  そればかりではありません、このガラテヤ人への手紙執筆の背景を見るとより明確になります。割礼を強要てる人々がエルサレムからガラテヤ教会の地方にも下っ来ていたのです。彼らの目的は明解でした、「神様を信じた者は全て割礼を受け、ユダヤの掟を守って、年に三度エルサレム詣でをして、最近減少しているエルサレム巡礼者=血や肉を神殿に献げる=神殿の現金収入を増やす」という大変明解なミッションでガラテヤ教会の信者に割礼を強要しに来ていたからなのです。

その様に訳出すればガラテヤ書も分かりやすくなり、旧約聖書とも通じで良いことづくめだと思うのです。

  もし、この聖書箇所をその様に正しく訳出してて困る様な問題が何か教会に有るのでしょうか? 新約聖書の時代のギリシャ人クリスチャン達が年に三度のエルサレム巡礼をしなくしても教会にとって信者の負担が少なくなり、礼拝出席も増える(エルサレム教会に行く費用と時間が節約されるから)のでは無いのでしょうか。

いったい翻訳上で、パウロは明確にしているエルサレム巡礼を無用とする意味を明解にしてしまうと何か問題が在るのでしょうか。

日本の教会ではあまり問題にならないかも知れませんがヨーロッパの伝統ある教会にはかなりの経済的打撃を与えてしまうのかも知れません。もしこんな風に、聖書を正しく翻訳してしまうと中世のヨーロッパキリスト教会には今以上に沢山の巡礼が在りました。キリスト教会の名所旧跡をお遍路れんのように回っていたのです。こんな正しい翻訳をしてしまって大切な教会の収入源が減少しては大変です。

  だから、こんなふうに教会にとって損害「巡礼者の減少による現金収入の減少」が生じな様に翻訳してしまったのではないでしょうか。所詮人間は全て罪人。信徒もしっかりとキリシャ語やヘブル語を学んで原典にあたる習慣をつけていないといい加減な学者が教会の指導者に喜ばれる様にいい加減な翻訳でごまかされしまうのも仕方ないでしょう。

  そして、その様な観点=パウロが戦ったのはエルサレム教会とユダヤ神殿がガラテヤ人の異邦人クリスチャンに旅をさせエルサレム詣でさせる事に反対したと言うことなのです。そんな悪巧み「=ユダヤ教入信キャンペーン=割礼と、宿泊によるエルサレムの繁盛」から、ガラテヤの教会の入信したばかりのキリスト者を守ろうとしてパウロが送ったこのガラテヤ人への手紙ぐらいは本当に正しく訳出して欲しいものです。

と言うことで今日は何故か、ボタンの賭け違いで、一件辻褄が合っている様でよくよく読んでみると原典やパウロの意図を無視した訳になっている翻訳における「ボタンの掛け違い」のご紹介でした。

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そんなに酷い誤訳が?! とショックです。

油食林間さんに見習って、レビ記のLXXから、prosanatithemi がどんな文脈で現われるのかと、探してみましたが、2〜3章でもうヘトヘトです。動詞の活用が頭にはいっていないので、ちっとも先に進まないのです。

prosphero はいっぱい出てくるのですが、prosanatithemiに辿り着くのは、遥か彼方でしょうか。。。。

こういう語彙を探すのには、何か手っ取り早い方法があるのでしょうか? やはり、しかるコンコルダンスを買ったほうがいいのでしょうか?

もしよかったら、出エジプト・レビ・民数の、どれに出てくるかだけでも教えていただけないでしょうか。

よろしくお願いいたします。
HKJ

joshyam あっと netvigator どっと com 削除

2010/1/4(月) 午後 7:19 [ HKJ ] 返信する

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聖書を書かれたとおり正しく読むことは本当に難しいものなのですね 。
パウロは、もはや旧約聖書にのっとった生贄を捧げにエルサレムに行く事はしなかったということなのですね。

私達はイエス・キリストを受け入れた後の霊的な成長に、牧師や先輩兄姉から養いや訓練は欠かせません。
しかしパウロは初期に先輩の使徒達から教えを受ける必要はなかったようです。すでに旧約聖書の知識が十分に持っていたので、聖霊が注がれて、イエス・キリストが明らかにされたのでしょう。
パウロが、ダマスコからアラビアに離れて行って、再びダマスコに帰って来たその往復の意味は何なのでしょうか??
ガラテヤ4:25の「このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。」と関係があるのでしょうか???
この3年程が、パウロのイエス・キリストによる養いの期間だったのでしょうか
再びエルサレムに上るまでの14年間、パウロはどうしていたのでしょう。

このコメントは、休みがちだった旧約聖書の通読を再開する動機となりました。読も続ける忍耐が今の私には足りません。 削除

2010/1/5(火) 午前 9:27 [ keiko ] 返信する

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keiko様

お元気そうですね!! そうそうご質問にあるアラブヤとはアラム語では「草原」を意味します!!

人里はなれた場所(おそらく初夏の良い季節の過ごし易い草原)に黙想したと言う程度の意味かと思います。

そして草原はエジフトにあってもシナイにあってもまたシリヤにあっても「アラビヤ=草原」です!!

パウロの14年はダマスコ改心後にエルサレムに登り
アンテオケとガラテヤを巡った第一回伝道旅行に費やした14年後の改心後2回めの(14年ぶり)エルサレム詣でと言う意味がと思います。

2010/1/7(木) 午前 6:41 [ 油食林間 ] 返信する

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アラビヤが草原という意味だったとは! ! ! !

14年ぶりにと、簡単に書かれている期間は、使徒の働きの9章28節から15章2節のことであったということですね。聖書は、何も考えないでさらっとその箇所を読み飛ばしていては、立体的な理解はなかなか得られらいものですね。

ところで、これはどうしてもお尋ねしたいのですが
アラム語の「アラビヤ 草原」は、
ερηνια ερηνοσ という言葉に関係はありますか???
もし、関係があれば、私の中でピンポーーンと響くものがあるのですが・・・・ 削除

2010/1/7(木) 午前 10:22 [ keiko ] 返信する

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