原典聖書研究

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塩城塞(クムラン)

塩城塞(クムラン)ヨシュア記15章62節  

今日は一番籤でユダ部族が今のユダヤの土地を籤で割り当てられた箇所を読みました。早速直訳です。 

旧約聖書ヘブル語 原典直訳 ヨシュア記15章62節

62 ・ そしてそのニブシャン(平滑or肥沃) そして 城塞の(イル) そのメラハ(塩) そして イン(湧水) ゲデイ(子山羊) 城塞ら 6 そして 住居ら彼女ら

旧約聖書 70人訳ギリシャ語 原典 (バチカン写本)直訳 ヨシュア記15章62節

62 ・ そしてナフラゾオーン そしてその 町ら サドム そして アンカデエス、町らは 7 そして その 村ら 彼らの。

旧約聖書 70人訳ギリシャ語 原典 (アレキサンドリヤ写本)直訳 ヨシュア記15章62節

62 ・ そして ネブサン そして その 町ら 脱穀場 そして カンガデイデ、 町らは 7 そして その 村ら 彼らの。

旧約聖書ヘブル語 原典直訳 ヨシュア記15章62節

62・そして 肥沃と 塩の城塞そして 子山羊の泉 の6つの城塞とその家々を割り当てられた。 

  今日の箇所は何時もと違って70人訳の二つの写本が相違している為、両者ともに直訳にしてご紹介しておきました。昔は、複写機も印刷技術も無かった為、全て手作業で写本は書き写されました。そして此の箇所や士師記の7人訳の写本は、随分と写本間の相違があって面白い所です。

  今日は、そんなつまらない写本のお話ではありません。塩の城塞=おそらくこの城塞が新約聖書の時代にクムラン教団(写本を随分と持っていた)の居城都市となり、ローマとの戦いに破れる折りにその厖大な写本を隠してくれた為1947年に死海写本がこのクムランの洞窟で発見されることになるのです。 

  残念な事に、この死海写本は国際チームとは名ばかりで生前のドボー神父率いるカトリックのドミニコ会に所属する聖書学院で門外不出で研究されていて、発見からほぼ半世紀後の1995年になって漸く学術研究者向けに研究成果が公開されたに留まっています。 その理由は、この研究の為に莫大な経費を支出しているバチカンにとって不都合な文書が大量に存在した為と言われます。(参考マイケル・ペジエイトン他著「死海文書の謎」)

  その理由ですが簡単なことです。「新約聖書時代の直後のクムラン教団の様々な文書にローマ教会に関わる言及が皆無であるため」と言われています。 
  そう、新約聖書とその直後の時代にはローマにはまともな教会は出来てはいなかったのです。 しかし、コンスタンチノープル(当時はビザンチウシム、現在はイスタンブール)をはじめとるギリシャや小アジアに加えてカルタゴやシリヤ、そしてエジプトのエレキサンドリアの教会名は頻繁に死海写本の様々な文書の所々に名前が登場しているのです。しかしローマに関する記載が皆無ナノです。当然です。使徒パウロ(お墓はローマ)を殺し、その上ペテロ(お墓がサントピエトロ大聖堂)まで殺してしまってギリシャ人ばかりが集まっているキリスト教会はローマ人達によって酷く迫害され続けていたのです。その為に異教の満ちた不道徳なローマの町には、表立ってキリスト教会は形成されなかったのです。そして、ローマ帝国の迫害を恐れて地下墓所で隠れキリシタンとしてギリシャ人が殆どの隠遁教会でしか無かったのです。しかもその教会の構成メンバーはローマ人は少なく(新約聖書ローマ人への手紙16章の名前の記録はギリシャ人が殆ど)殆どが奴隷にされたギリシャ人であったのです。

それゆえにローマ人への手紙はローマ人の言葉ではなく、ローマに主権を奪われた人びとの言葉であるギリシャ語で記されているのです。と言う訳でローマの教会(当時は多分集会程度)はずいぶん後になってキリスト教がテオドシウス帝の時代に公認される323年頃まではなりをひそめていたのです。
  
 ギリシャ教会よりもローマ教会が首位だと言うプロパガンダをご存じでしょうか? 古代には誰も夢想だにしなかった突拍子もない西ローマ教会の宣伝文句です。 その主張は1400年頃、東ローマ帝国の首都であるコンスタンチノープルの陥落直前に捏造文書まで作ってでっち上げた「ローマ教会の首位制」というとんでもない考え方なのです。

昔から世界の教会は歴史や民族、大きさ等にかかわり無く、それぞれが対等の権利を持ち、重要事項は各々平等の立場で会議を開催して議決して決定していて、どこの教会もそんな尊大な「首位制」という悪魔の様な考え方は存在しなかったのです。

最初のAD48年にエルサレムで開催された第一回教会会議以来、ニケヤやカルケドン、コンスタンチノス等の全ての公会議は悉くこの教会は全て平等という基本原則で進められました。どこの教会も我が教会が大きくて歴史がアルからと権力を振るったり会議を牛耳る様な野蛮なことはしなかったのです。そしてギリシャ語で「カトリケー、エクレーシア=カトリック教会」とは普遍的で全ての教会が平等であると言う意味で「我が教会だけがカトリック教会だ!」等と言うのはギリシャ語の意味が全く理解出来ていない野蛮人(バルバロス)のかんがえかたでしてか無かったのです。 

 そんな会議や教会の理想はは殆ど縁の無かったローマの教会(497年に西ローマ帝国が滅んだのでその国にあったローマ(ラテン語)の教会は繁栄する東ローマ帝国(ギリシャ語)の教会とは疎遠になりすっかり主流派から取り残されてしまったのです。 

  しかし、皮肉なことに東ローマ帝国とその教会(当時は国家と教会は不可分)は回教徒の侵略を受け、窮地に陥ってしまいました。やむなく東ローマ帝国と教会は、当時は辺境の未開地であったヨーロッパ(ガリア)の諸教会に援軍を要請したのです。するとローマにあった教会が「ローマ教会がコンスタンチノープルの教会よりも首位だと認めてくれたら助けてやる」と申し出たのです。

  勿論、事実に反することを東ローマ教会が認める訳にはいけません。拒否したのです。しかし、ローマの教会は軍隊をコンスタンチノープルに差し向けたのです。そして事もあろうに、敵である回教徒と戦うのではなくコンスタンチノープルに攻め込みギリシャ人達の教会を略奪し、貴金属や貴重な聖書の写本類に加えてギリシャ貴婦人を凌辱し挙げ句にヨーロッパに連れ帰り男や子供=奴隷に、そして貴婦人たちを遊女に売り飛ばすと言う浅ましい犯罪が起きました。

 しかし、歴史(真実は)皮肉なことを教えています。この時盗まれた東ローマ帝国の教会のギリシャ語やへブル語の写本や貴金属、絵画、彫刻はその様な東方の高い文化を見たことの無いヨーロッパ各地に略奪物として持ち帰られた売り飛ばされたのです。そして百年後に、これらを手にして感化をうけた人びとによってヨーロッバ人達が学問や芸術に目覚める事になります。その研究の成果としてルネッサンスや宗教改革が以前は野蛮であった人びとに興りました。
  
  こんな恥ずかしい歴史を隠し、折角捏造した「ローマ教会の首位制」が、突然出てきた死海文書によって否定されては一大事と言う訳です。今までの努力が消えてしまっては大損害です。それゆえに死海文書が間違って公開されては、捏造した「キリストの一番弟子ペテロ以来世界の教会の冠たるローマ教皇さまの権威が失墜しかねない」からです。 

  と言うことで今日はこのクムランの城塞となる塩の城塞が紀元前1385年のヨシュア記に登場している箇所のご紹介でした。

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