原典聖書研究

ギリシャ語はギリシャ語の書庫や聖書関連記事は「無題」の書庫です。2018年5月29日より新投稿不能31日回復しました。

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前置き
愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠の復元模型。父が徴用された光学部は図の右端の正門から更に数ブロック右側にあった。東洋一と言われ、海軍の装備の70%を供給したと言われる最新鋭工場。正面中央の土盛りは広大な弾薬庫群。総面積は皇居の約5倍=100万坪あったという。昭和20年8月7日、かの悪名高きカーチス・ルメイ中将(後に日本政府から東京、廣島、長崎など200万人の邦人殺戮と航空自衛隊設立が評価され1964年勲一等旭日大綬章が贈られる)の指令で快晴のグアム・テニアン・サイパン・硫黄島の各基地から飛び立った米軍第20航空軍のB29爆撃機124機とP51戦闘機45機の大編隊は、熊野灘から紀伊半島南端を通過、知多半島上空で進路を、東に取り東洋一の最新鋭豊川海軍工廠に向かった。その情報は逐一工廠に通報されていた。南西より豊川上空に到達した爆撃機編隊は一編隊9〜10機、12波の波状攻撃で工廠を精密に爆撃した。午前10:13から約26分をかけて3,256発の最新式の500ポンド爆弾(814.1トン)を投下した。高性能新型爆弾の威力は旧型の1トン爆弾に匹敵し、爆心には直径20m深さ15m程の爆撃孔が形成され、直径300m以内の人間と建物を殺傷し、その爆裂による破片類の飛散は500mに及ぶという。(詳細はこちら) 豊川海軍工廠で空襲警報のサイレンが響いた時には既にB29の大編隊の機影は上空に到達し、投下された爆弾が視認された。父は、「それまで避難の指示や放送は一切なかった」と証言した。その結果氏名が判明していない人を加えて約3万人の犠牲者をだした。近隣の病院や一般住宅も爆撃されたが、その正確な犠牲者数は今日に至るまで全く調査されていない。

2日後の「8月7日」は私にとって大変考えさせられる記念日です。以下にその思いでを記させて頂きます。----------------------------------------------------------------------------

 戦後生まれの私が、早乙女勝元氏の東京大空襲で読み知った恐怖を、得意気に父に話していた時の事であった。聞いていた父が、突然「焼夷弾はおもちゃだ。本当の爆撃がどんな物かお前に教えてやる。」と言い放った。そして、延々と豊川海軍工廠での壮絶な被爆体験を聞くことになった。その体験は、終戦の年、昭和20年8月7日の朝の出来事であった。それから35年の歳月がすぎて、初めて聞いた凄まじい父の被爆体験である。

豊川海軍工廠での父の話を聞くころの状況
当時私は、東京国立市にあったキリスト教の牧師を養成する全寮制の神学校に在学中であった。ある夕方の散策で、近くのお寺の墓地を通り抜けた。すると一つの墓碑が目に留まった。同じ日付で死亡した家族全員と見られる氏名が記されていたのだ。その墓碑には、昭和20年3月10日と記されていた。話しに聞いた東京大空襲で一家が全滅した犠牲者の墓碑だったのだ。見渡すと、同様の墓碑がいくつか見られた。早速、早乙女勝元氏編著の「東京大空襲」を買い求めた。一気に読み終えた。その夏に大阪の実家に帰省した折り、長年病気療養中の父に東京大空襲の凄まじさを得意に話したのであった。それまでは、一度として父から戦争の話しを聞いたことは無かった。父の戦争体験で知っていたのは「徴兵検査で身長が1センチ短く、丙種不合格になった。」と言う、笑えない徴兵検査の顛末だけであった。私は何の疑問ももたず、父には全く戦争体験は無い物と思いこんでいた。そして、父も戦争や空襲の話は一切しなかった。私が知っている父はいつも無気力で、ぼんやりして、病気療養中のだらしない姿であった。

徴用で豊川海軍工廠に赴き被爆するまで
父は、大阪府北部の止々呂美村(現箕面市)の山村に生まれ育ち、若くして大阪市内のかばん屋に丁稚奉公、後に一人立ちしていた。徴用当時は30歳、妻帯して2年後であった。当時の住まいは大阪市内。大繁華街、鶴橋駅前で鞄商を営んでいた。終戦の前年に徴用を受けた。店舗をたたみ、昭和19年秋に愛知県の新城に新妻と10ヶ月の長兄を伴い居を移し、豊川海軍工廠に赴いた。厳重な入廠者向けの訓練を受け、配属されたのは光学部で特殊潜行艇「回天」の潜望鏡の鏡筒の制作を担当した。水密性の為に高い精度が要請される仕事であったという。徴用先に移り住んで最初に遭遇したのは、年の瀬の12月7日に発生した東南海地震(M8の巨大海洋地震)であった。更にその翌年1月13日に、三河地震(M7.1直下型地震)にも罹災した。そして、迎えたのが空襲の日、8月7日の朝であった。

空襲の日の出来事
その日、何時ものように光学部に登廠し、明けの組から引き継ぎを受け、特殊潜行艇回天の潜望鏡の鏡筒を旋盤で削り初めてほどなくの時という。午前10 時過ぎ、突然技術将校たちの乗るジープがけたたましく急発進して、気が狂ったかのように工廠出口方向に走り去った。遠ざかる車両の騒音とほぼ入れ違いに航空機の爆音らしき物が響いてきた。すると突然空襲警報がけたたましく工廠に鳴り響いた。ぞくぞくと学徒動員された女学生や徴用工達が建物から出て、各工場毎に隣にしつらえられた粗末な防空濠に退避しようとした。彼らが工場から屋外に出ると、もうそこには巨大な爆撃機B29の機影があったと言う。防空濠に行き着く前にりヒュルヒュルと言う爆弾降下音が迫りきた。右往左往する学徒や徴用工員たちと共に防空壕に飛び込むと、ほぼ同時に閃光と轟音に壕がゆるみ砂が降り注ぎ、爆煙と粉塵であたりは夕闇の如きありさまとなった。

爆撃の第一波は光学部を直撃したのだ。新型爆弾の威力の前には、あまりに粗末な防空壕であったが第一撃はやり過ごせた。すると、大きな声で「ここにいてはやられる危ない」と言い放った人があった。しかし、誰も動かなかったと言う。すし詰めで動けなかったのが真実だろう。しかし、その声を聞いた父は、入り口に押し迫る人をかき分け壕を飛び出し工廠出口に向かって走った。上空には第二波の、B29から投下された爆弾がキラキラと米粒のように見えた。目の良い父は、その爆弾の形を見て落ちる方向を見定め、逆の方向に全力で逃げた。そのあたりにある防空壕にたどり着いても、そこはもう立錐の余地もないほど人が溢れていた。入る事をあきらめて側溝水路に飛び込んだ。その中で、爆風と直後の爆低圧から身を守るために、口を大きく開けて気道を確保し、目が爆風で飛び出さない様に両手の4本指で力の限り押さえ、残った両親指で耳を力のかぎり塞いだ。これが、至近で炸裂する高性能爆弾の爆圧から肺が破裂し、眼球が飛び出し、鼓膜の破れるのを防ぐ唯一の術であった。グオンという響き同時に躍動する地面に体が打ちつけられ身を振り揺する衝撃がおそった。木っ端微塵になった建物やコンクリート片がガンガンと降り注ぎ、それに混じって砂塵や遺体の破片がバラバラとあたりに散乱した。降下物が収まると即座に、新たな爆撃から逃れる為に、飛び起きて次の爆撃の場所を推測し出来る限り遠くヘと全力で疾走した。爆撃の度に、この防爆態勢で爆撃をやり過ごした。

漸くの事で100万坪ある工廠出口にたどり着くと門衛に銃剣を突きつけられた。挺身隊などの民間人は通過が許されたが徴用工は駄目だという。配属部署に戻り爆撃火災や類焼から工廠を守れという。いたしかたなく道を逆に取り、更に続く大規模爆撃の間隙を縫い工廠内を右往左往、ただ逃げまどった。爆煙と大火災で空は真っ暗となり、その暗黒の隙間から、不気味に轟くヒュルヒュルという爆撃音に促されてある時は深い側溝に、爆圧の衝撃をかわし、劫火と黒煙に爆音と悲鳴が轟く地獄と化した工廠内を這いずり回った。吹き飛んだ建物の基礎の影に身を投げ落とし、炸裂孔に転がり込み、爆撃をやり過ごすとそこから這いずり出て地獄中を逃げ回った。ある時は、壕にひしめく人の頭を踏み込み、爆撃で浅はかに崩れた壕から這い出し、走り、転げ、逃げた。どこをどう逃れたのか、やがてふと気がつくと工廠を離れた畦道を駆けている自分に気がつき、我に返ったという。振り返ると工廠からは弾薬庫の誘爆や煙に加え所々で艦載機らしい機銃掃射音が響いていた。

空襲の後の凄惨な遺体処理の日々

その日は不通になった飯田線を10数キロ歩いて、ようやく新城市の仮住まいにたどりつき新妻とその腕に抱かれた幼子に迎えられた。その翌日から、すぐに登廠した。あの逃げ出して無事であった技術将校たちの指示で、防空濠にいてそのまま生き埋めになったり、蒸し焼きにされた犠牲者の遺体の埋葬作業に従事させられた。折からの夏の暑さで周囲一帯の腐臭は鼻をつき、ずるけウジのはい回る遺体を残骸の間や崩れた防空壕から綱で引きずり出し、軍用トラックに山と積み上げ、それを掘られた大きな穴に投げ込み土をかぶせるきつい作業が幾日も続いたのだ。酷暑のさなかの耐え難い、辛い作業に連日明け暮れた。腐臭が体に染みついて離れなかったと言う。凄惨な作業は終戦で終わる事は無かった。重機等は無く、全て手作業で連日遺体の発掘と収容作業を行った。その作業は耐え難い物であった。特に心を痛めたのは大きな穴に遺体を捨てる瞬間であった。まるで汚物かゴミの様にして投げ落とすのだ。遺体の一つ一つは自分の体が捨てられるような感覚であったという。残酷さを究めたその瞬間は悲しく、汚らわしく、いたたまれない底知れない苦痛を味わったという。その様な遺体の埋葬作業は終戦後もさらに一月あまりも続いた。証拠隠滅とおぼしき犠牲者の隠蔽作業であったためか、遺体の身元確認も処理数の記録もなされなかったと言う。すっかり秋になったころに漸くの事でその作業を終える事が出来た。そうして徴用解除の日を迎えた。持てる限りの荷物を背負い、母は間もなく2歳になろうとする長男を背におんぶし、両手を荷物で満たして満員の列車に窓から乗りこみ、止まってばかりいる鈴なり列車で大阪に漸く辿り着いた。大阪市内は焦土でやむなく郷里の村にあった実家に疎開する事となった。

★此の続きは明日6日に掲載します。・・・・・・・・・・・・・・・・・

概略  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23515336.html
その一 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23536425.html
その二 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23608816.html
その三 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23634168.html
補足 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23634234.html

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