原典聖書研究

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郷里に帰省してからの悪夢の日々
しかし、戦争が終わり、平和な日々が戻っても、豊川大空襲の経験は父を苦しめ続けた。降り注ぐ高性能250キロ爆弾の恐怖は、一時も父から離れる事は無かった。その本物の爆弾の恐怖は、何処までも毎夜の悪夢となって父に襲いかかって来たのだ。私が、父から豊川での被爆体験をを聞いた時、幼い日々真夜中によく父が大声で「うおぉーーうわーーおー」と大声でうなされていたのを思い出した。あの恐怖のうめきは、父が豊川で体験した恐怖の被爆体験の悪夢だったのだ。夜毎に、眠りに入ると恐怖の体験が脳裏にフラッシュバックされるのだ。そのころ、父は病気で倒れ半身付随となり寝たきりになっていた。それが故に、以前住んでいた祖父が建ててくれた家を追われ家族が一室で寝る様になっていたのだ。その結果、私が父の悪夢の絶叫を聞く様になったのだ。夜中に突然大声で叫び出す父を見ても、飛び起きたのは私一人であった。母も二人の兄たちも、全く無視して眠り続けていたのが不思議でならなかった。今思えば、父の悪夢は毎夜の事であり、誰も気にも止めない様になっていたのだ。やがて私もそのことになれて意に介さなくなってしまった。そうして、初めて父の悪夢の絶叫を聞いてから、更に20年近いの歳月が過ぎ、父から壮絶な豊川での被爆体験を聞かされたのであった。その時、初めて父の悪夢が何の原因によっているのかを悟ったのであった。

私が目撃した被爆後の父の苦悶
被爆から5年して私は産まれた。そのころ我が家は疎開先で父の実家の納屋を改造した粗末な家に住んだ。慣れない山仕事や開墾した畑でかろうじて一家は生計をたてていた。嫁いだ娘の苦労を見かねた母の実家は、小さな店舗付き住宅を豊中市本町の国道沿いに用意してくれた。田舎から僅かの家財道具を運んでそこに移り住み、開店費用まで助けられて人らいし暮らしがなんとか出来るようになった。しかし、父はそのころ、眠ろうとすると空襲の悪夢にうなされ何も手につかないありさまとなっていた。努力しても喪失した意欲は戻らず、仕事に集中することすら出来なかったのだ。その為、自宅ではじめた商売はこと悉く失敗した。そして我が家は、貧困のどん底に投げ込まれていた。商売に失敗した父は、郷里の山村を巡りながらの行商をはじめた。きっと山の緑や懐かしい人々との語らい、小川のせせらぎが心を癒したのであろう。しかし、家族は養えなかった。

親戚が経営する豊中機械製作所での業務災害と放置

そのころ近所には同じように家をもらった母の兄弟たちが住んでいた。彼らは父の豊川海軍工廠での経験を知って、その技術をあてにし一儲けを目論み、池田市の自動車会社の下請けとして豊中機械製作所を始めた。有無を言わさぬ強引さで父はその職工にされた。工作機械の技術を持っていたのは父一人であった。頼りにされ、無理をして働いた。盆も、正月も休めずに、自分勝手に作った中古の工作機械の借金を返済する為と期限を切って納期を定め、馬車馬の様に来る日も、来る日も、来る日も、早朝から深夜11時まで休むことなく働き続けさせられたのだ。騒音に近所からの苦情も受け、牢獄の様な裸電球一つの薄暗い工場に痩せこけた父は働く事を余儀なくされた。その町工場の雰囲気、旋盤の切削音や油の焼ける匂いは、忘れようとしていた忌まわしい豊川の出来事を想起させたのであろう。母はその状況を見て何度か休養をとる事を勧めた。しかし、小さな町工場の経営状態は、一日の納期の遅延も許されない状況であった。そして、子供の目にも父のやつれ方は、痛ましかった。5年の歳月が過ぎようという冬のある日のことであった。突然意識を喪失した父は、せまい工場で倒れ、頭部を強打して病院に担ぎ込まれた。脳内出血をおこし、44歳にして半身不随となり寝たきりとなった。父が定職を得た事による仄かな希望がふき消え、細々とした生活が暗転した。零細町工場故に補償どころでは無く、解雇の通知も医療費の補償も無しのつぶてであった。母は育ち盛りの3人の男の子と寝たきりの病人を抱える事となった。母が祖父からもらったはずの家も、零細工場に父の代わりの熟練工を居つかす為、宿舎として近くて便利だからと、是が非でも明けろと借金の連帯保証人になっていた親族一同に迫られた。実家の近くに祖父が持っていた廃屋同然の小さな空き家があったので、そこを「代わりに上げる」と騙されてリャカーで家財荷物を運び引っ越し仮住まいとしたのであった。後に、その家は事情が変わったとして、追い出される羽目になるのであった。

寝たきりの父の介護と母の苦悶
収入が無く、その上に重い医療費の負担が母の肩にのしかかった。母は実家が所有する店の一つを手伝う事にした。娘時代には一人で任されて切り盛りしていた店であった。しかし、今は兄弟がそれぞれ独立し、母は微妙な立場に置かれてしまったのだ。しかし、その店のおかげで漸く父の介護のかたわら生計を維持することができた。お給金はその日に売れ残った現物を持ち帰る事であった。複雑な事情の中で、親の情けに縋り、かろうじて病人と育ち盛り3人の男の子が飢えをしのいだのだ。しかし、現金収入は閉ざされ、小学生であった私の月300円の給食代も支払い得なかった。そのような状態の中で、三人の子供は成長した。母は、是が非でもせめて高校は出させたいと心に決めていた。育った兄弟らは高校の授業料は各自でアルバイトをしてその全額を当てたのだ。ようやくの事で末っ子の私が工業高校の基礎工業科を卒業し無事就職する事が出来た。その時、母が大層喜んでいたのを思い出す。

豊川海軍工廠での被爆体験を聞いた私の心境の変化
父の被爆体験を知らなかった私は、我が家の貧困は、甲斐性の無い父に原因があると思っていた。そして父を尊敬する思いは微塵もなかった。30歳近くになって、豊川海軍工廠での父の被爆を聞いた時、初めて父の苦しみを理解した。父はあの豊川の地で重爆撃の直中を逃げ回る為に、神様から人間に与えられたエネルギーの全てを、悉く使い果たしてしまったのだ。この話を聞いて以来、あれほど蔑んでいた父に対して「あの惨劇の中をよく生き延びてくれた」と感謝の気持ちを持つようになった。そして我が家の惨憺たる貧困は戦争のなせる業であった事を知った。壮絶な重爆撃に被爆した、その時のトラウマが父の人格を回復不可能な迄に破壊させていたのだ。戦争はその終結後も数十年に亘る長い期間、本人とその家族を苦しめる程に破壊力の在る恐ろしい悲劇であったのだ。父は、豊川海軍工廠で経験した壮絶な被爆の苦しみの体験を家族にも、また誰にも一度として話すことがなかった。おそらく豊川での被爆は、壮絶に過ぎたが故に、人には話せなかったのだ。父が海軍工廠での被爆体験を話したのは、不用意な私の発言が原因だったのだ。それは、父の壮絶な被爆体験を知らない私が、得意気に語った東京大空襲で焼夷弾の恐怖の誇張が、重爆撃の恐怖を話せないほどに恐れる父の琴線にふれ、その怒りを引き起し重い口を開かしたからであった。

被爆体験を語った父の話ぶりは大変具体的で鮮明であった。父の記憶はかくまで鮮明でかつ大変リアルで迫力があった。父はよどむことなく2時間近く一気にその体験を吐き捨てるかの様に話し切った。口べたな父がそのように話せたのも毎夜うなされフラッシュバックするその爆撃の光景が鮮明であった為なのであろう。

日本光学に勤務する元工廠技術将校からの求人と父の拒否
その話の最後に語った父の一言が忘れられない。 徴用解除後郷里の実家にもどり炭焼きをしていた翌年3月の事だそうだ。あの時、自分たちだけが軍用車で工廠出口に逃げ去った光学部の技術将校の一人からであった。今は日本光学と言う会社の者と言うことで田舎の父に連絡があったのだ。「東京の品川で新しい工場を作るから工員として働かないか?」というお誘いであったという。父は迷うことなく断った。

最終回は明日8月7日(豊川海軍工廠大空襲記念日)に掲載します。

概略  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23515336.html
その一 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23536425.html
その二 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23608816.html
その三 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23634168.html
補足 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/23634234.html

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