原典聖書研究

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幸福の定義 聖書聖典 十戒の要約 

 「聖書は難しい」と話す方に良くお会いします。しかし、私はそうは思いません。「聖書が難しい」とか「分かりにくい」と言っている、当のご本人の頭の中その物にに問題がある事を知っているからです。 実は「分かりにくい」と言う批判を受けた聖書記者がいた事を聖書は記しています。ほかでも無い、新約聖書の大半(ルカ文書を含む)を記した使徒パウロです。彼に関して、同じ使徒のペテロは「パウロの手紙が難しい」と(第競撻謄3章16節)言っているのです。しかし、当の本人パウロ自身は「読んでわかる事意外は記していない」と(第競灰螢鵐1章13節)明言しています。と言う事は「書いた私の文章が難しいのではなく、読んでわからないあなたがおかしい」と主張した事になるのです。
  この点に関しての議論はこれまでにしますが、まあわかる事ですが確かに聖書が理解できない方が存在する事は否めないと言う事でしょう。しかし、聖書が理解できない人が多いのでは聖書翻訳は事業=ビジネスには成りません。どうしても 理解できない人の為に善意から分かりやすい聖書を作成して商売しなければ成りません。特に不幸にしてキリスト教国に産まれた多くの人々にとっては社会の価値観を創出している聖書が理解できなのでは社会進出の機会を喪失する事に成りかねません。そして理解できない人々でも聖書が理解できる為にと親切から多くの翻訳聖書は、様々に解釈した物を「翻訳聖書」として出版してくれているのです。
  けれども、私は原典で聖書を読んでいて聖書を誰もが理解できるようになる事はあり得ないと思っています。一般の翻訳は随分と無理をして分かりやすく訳出して在るのですが、返って聖書の難解にしていると何時も、何処を読んでも残念に思っています。
  基本的な事ですが、私は聖書原文が言っているそのままでの主張をどうしても理解できない霊的障害者でも聖書が理解出来る為にと翻訳を上手に成すのは所詮無駄だと思っているからなのです。
この事を、もう少し別の角度=基本から説明してみましょう。聖書の基本は何かというと「聖書とは聖典」なのです。と言う事で聖典とはCannonですから基準と言う事なのです。人間の価値観や評価の基準が聖書ナノですから、人間はそれを理解する必要はないのです。基準に人間の理解を整合させる事が基本なのです。と言う事は「人間が聖書を理解出来る様に訳する」のは間違いで、「聖書に書かれている事に人間の頭を合わせる」のが正解なのです。

こんな事を言うと、頭が混乱する方があるかもしれませんので基本的な具体例を挙げてこれを説明する事に致しましょう。

3日前から「モーセの十戒」を皆様にご紹介しているのですが此の十戒が言っている事は何かと一言で言うならば「神を神とする」と言う事です。 第一戒の「私の他に何物をも神としてはならない」という独善的命令です。そして、それに続く第二戒は以下に人間がこの神の掟を破っているかを具体的に告発している物なのです。
第二戒は「偶像礼拝の禁止」ですが、昨日学んだようにこれは偶像の意味を理解することが肝要でした。偶像はヘブル語で「ツエレム」と言う言葉でした。このツエレムは本来「切り出し」と言う意味だと昨日申し上げました。one cut of The God の禁止です。すなわち、人間が理解もまた想像もさらに把握も出来ない偉大な神を、人間の小さな頭に収まるポータブルな神のイメージ=偶像=ツエレムして、それに従った行動を神に要求したり、あるいは自分がその様な自己の認識できる偏狭な神像=偶像に奉仕する事の禁止でした。
こういってしまうと全ての宗教儀式や神学などは人間の自己満足に過ぎず、真の神様からしてみれば「迷惑しごくの侮蔑行為」にすぎないことが判明します。聖書が言っている事は、その意味で 「全ての人は神を神として崇め得ない現実が存在していることを認識する」為にこの十戒が記されている事が理解できるでしょう。

これをより具体的にしているのが、そのあとの第三戒から第九戒です。いちいち説明しているとこのブロクの字数制限の5000字を超過してしまうので最後の第十戒のみを解説して、ご理解して頂く事にします。

第十戒は「欲望に基づく行為の排除」(17節)としてご紹介しましたがより具体的に言い換えると「目で見たものを欲しがる事の禁止」がその意味になります。本来人間は第一戒の指示により神を信頼し、前述の如く「神意外のものを神としない事」が要求されていました。しかし、人間はこの戒めを破り、神に対して自分に全く不要なものを要求する様になった=堕落したのです。

今日のコマーシャリズムは人間に各企業の製品を必要と認識させ、それを得る為に代価を払わせ、その収益によって企業やその職員が、自己実現=出世、収入の安定や増加、地位の保全や改善を創出するものナノです。

それはコマーシャルであなたを美しく幸せに見える物を人間に見せて、あたかもそれを入手すればその人間の願望がかない、自分が幸せに成れるという際限の無い所有欲の底無しのデフレスパイラルという地獄へおとしめる虚構のにすぎないのです。

聖書が教えている幸せ=善とは願望が成就する事によって達成される物ではなく願望を拒否(あるいは断念)する事によって実現する幸せだからです。 この事は、おそらく殆どの人にとって理解不能かあるいは受容不可能な文字の羅列となっているでしょう。

しかし、考えてみてください。地上の全ての人間が持っている際限の無い欲望が様々なコマーシャルの映像=イメージによって刺激され、全ての人間がその刺激された欲望を実現しなければ幸せに成れないと思考したら、それはそのまま自分という人間が自己の不幸な常態に落とし込まれ、現状に嫌気がさしてしまいます。

その人が努力よって欲望が実現できる恵まれた境遇の人は良いのですが、努力では達成できない欲望をもたせられた人は、盗みや騙し等の犯罪行為によってしか自己の欲望を達成することはできないでしょう。聖書がそんな不合理な幸せを教える事はありません。聖書が教えている幸せは「欲望を断念して」そんなコマーシャリズムを否定し、神を神とすることを理想として本当に必要でも無い自己の願望や自己実現の理想を放棄する事こそが神様の意志だという事なのです。

もっと具体的に言いましょう。無収入の人は、きっと年収100万円を理想として努力します。そして100万円の人は200万円を、そして1000万円の人は更に上の収入を理想としているのではないでしょうか。もし、本当に人がそんな願いを持っていると、人間は際限なく永遠に不幸で在り続けるのではないでしょうか。人は今在るもので満足し、向上を願わなければ即座に幸福に成れるのです。十戒はその意味で欲望の実現では無く、欲望の制御あるいは放棄を命じているのです。

これが、聖書の教える人間の有り様の基本なのです。この基本が受け入れられない人には、いくら聖書を研究しても学んでも全く無駄なのてす。何故なら聖書はこの基本の上に全てが構築されているからなのです。

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