原典聖書研究

ギリシャ語はギリシャ語の書庫や聖書関連記事は「無題」の書庫です。2018年5月29日より新投稿不能31日回復しました。

全体表示

[ リスト ]

狭き門 霊的障害者 少数決   

  霊的障害者なんて言う言葉は初耳の方が多いのではないでしょうか? 唯、注意してください。一般に障害者は差別される側として認識されるのですか、こと、霊的障害に関しては全く反対だからです。霊的健常者が常に霊的障害者に迫害されてきたからです。その理由は明解です。その数に原因が在ります。霊的健常者は私の判断では神様を信じている人の約1%弱。そして反対に霊的障害者は神様を信じていると自認している人の99%だからです。もちろん、これは神様を信じている人の中での割合です。一般の世間で言う人間の中で神様を信じていると言う人は日本に置けるキリスト教総人口約100万人の中の数字です。と言う事は神様を信じていない人々も含めた中での全体に置ける割合は、霊的障害者が99.99%で゛霊的健常者は0.01%と言う事になります。 
  その様な事の根拠ですが、冒頭の「狭き門」のキリストの言葉をご覧くだされば十分でしょう。 直訳は以下です。 
新約聖書マタイの福音書 7章13節、14節
13 ・あなた方は中へ入れ 通して その 狭い 城門。それは 大路 その 城門 そして 広い場所 その 道は その 処刑場へ引いていくは 中へ その 滅び、そして 多くらは 彼らはであり続けている その 中へ来るらは 通して 彼女。 
14 ・なぜ 狭い その 城門は そして 両側から狭くされているは その 道は その 処刑場へ引いていくは 中へ その 命、 そして 少ないらは 彼がであり続けている その 見つけ出しているらは 彼女を。

翻訳 
  13節 あなた方は砦の狭い城門から入りなさい。大路の城門と広々とした通りは滅亡へ導く、多くの者らはその門を通して入る為に存在している。
 14節 何故なら、砦の狭い城門は両側から狭くされ、その道が生命へ導く、少ない者らがその門を見つけ出すために存在している。

これは大変分かりやすい例えです。当時のパレスチナの町はいずれも城塞都市でした。戦争でその町を占領するには壮大な城壁を突破しなければ成りません。そしてもし、戦争で正門から攻め込むならその人々には破滅が待っていました。なにしろその先は両側にも城壁が巡らさせ、その上から煮えたぎる油や投石に加えて弓矢が雨あられと降り注ぐ仕掛けになっていたからです。まさしく広い城門攻め入る本隊には、その門の向こうの広い通りには破滅が待っていたのです。ではどうすれば巨大な城塞都市を攻略出来るのでしょうか。その回答が狭い城門です。その町に安全に攻め入る入るには、城壁と城壁の重なる見いだしにくい場所にある斥候や王の脱出用の抜け道にあたる見いだしにくい狭い城門を通過するのが一番確実で安全だったのです。

  聖書の解説はこれくらいにしておいて、本筋に戻りましょう。 聖書は明らかに多数が正しいとは記していないのです。聖書が示している「正しいものは少数」なのです。

その意味で聖書が教えている基本の一つは「少数決」の原則なのです。
 多い事、多数はその多数である事自体によって聖書の教える妥当性や正統性の根拠にはならないと言う事なのです。むしろ反対で間違いである事の可能性が高いのです。ですから、一般に物事の決定の手順とされる「多数決原理」「対大多数の最大幸福」は聖書の原則とは基本的に相入れないものなのです。

  神様の選びの基本は「少数者」の選び(旧約聖書申命記7章7節=「主があなたを選ばれたのは...どの民よりも数が少なかった」)と明記されているからです。また神様がモーセを選ばれた理由も明解です。民数記3章3節には(直訳 03 ・ そしてその男 モシエ 貧しい 非常に から全ての その男 所は 上 顔(面)らの その 地面 )となっています。これを翻訳すると モーセは地面の上の全ての人の中で非常に貧しかった。)と記しています。注:70人訳はこの貧しいと言う言葉を謙遜として訳出しており一般の翻訳はいずれもその解釈を踏襲しています。しかしヘブル語の原文は「貧しい」と記しています。モーセに関してわかる事は自分の姑である「ミデヤンの祭司の羊を飼っていた」と出エジプト記3章1節に在るようにモーセには40年間羊を飼い続けたにもかかわらず自分の所有する羊を一匹として獲得する事が出来ないほどに極貧であったことを聖書は記しています。

  聖書が教えている神様に関する原則の一つは神様の選びは弱いもの少ないものを常に選ばれると言う事なのです。その理由ですが、神様は人間ではないから多数の力を必要としません。むしろ自己(神)の無限の力をデイスプレイする為に、少数者いや立ったの一人を選んで神様の正しさを実証される事が多い事を聖書は記しています。聖書には沢山の具体例がありますが神様の選びの原則が少数である実例をいくつか列挙してみます。

  アブラハムの選び、イサクの子供の内の弟ヤコブの選び、前述のイスラエル民族の選び、モーセの選び、ギデオンの選び、ダビデの選び、エリヤやエリシャとバアルの400人の預言者の対決、イスラエル12部族中のユダ部族の選び(大半の10部族の滅亡=アッシリャの侵略)、エレミヤと偽預言者との対決、パリサイ人とイエスの対決、最初の教会会議で多数の割礼派と対決したパウロや、ウイクリフやフス等の宗教改革の先駆者やルターなどと既成教会の対立などです。

  と言う事で「多数であるという事」は聖書の教えに従うと正しい証拠では無く、神に敵対するものである証拠と成り得る場合が多いと言う事なのです。もちろんそれは聖書に従っている、神様の基準による正しい者は常に少数者であると言う意味においての正しさです。

  このような基準を踏まえてもう一度最初の数字を見て頂きたいのです。

神様を信じていない人々も含めた中での全体に置ける割合は、
霊的障害者が99.99%で゛霊的健常者は0.01%である。そしてこの数字を具体的に日本の教会に当てはめていると約100万人のキリスト教の総人口の中で聖書に従った正しい信仰のあり方を維持している人=霊的健常者は約1万人である。という事なのです。それ以外の多くの方はせっかく信仰をもたれているにも関わらずその信仰の基準を聖書では無く多数である事に根拠を置いていてその様な多くの教会やそこに集う人々の「考えや信仰の在り方」は滅びに至る広い門を通って破滅る向かう間違った道を進んでいると言う事なのです。

  聖書が聖典であるキリスト教は何時もその様な多数決原理ではなく、最初から連綿として聖書を基準とした評価や考え方の根幹をもち続けてきたのです。ただ残念なのはこの基本があまり認識されなくなってきたと言う事です。

この記事に


.


みんなの更新記事