原典聖書研究

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神の愛の目的

愛の目的 ヨハネ第一の手紙5章3節 

 聖書を原文で読んでいると何時もハッとさせられる事の連続です。上記の聖書箇所もその様な所です。この箇所を 直訳するとこうなります。

03 ・彼女が そして 彼が存在し続けている その 愛は その 神の、為に その 命令ら 彼の 私達が見守り続けている(為)。そして その 命令らは 彼の 重くなる(荷)らは 無い 彼らが存在し続けている。
  このままでは分かりにくいので翻訳にしてみます。

翻訳・その事は神の愛が存在し続けている、私たちが神の命令を見守る為に。その神の命令らは負担では無い。
  もう少し分かりやすく訳してみましょう。

意訳・神の愛が存在しているのは、私たちが神の戒めを見守る為です。だから神様の命令は重荷ではありません。 

 この箇所で使徒ヨハネが主張しているのは一般の翻訳が訳出しているように、私たちが神様を愛するように教えているのではないのです。 一般の翻訳は以下に参考にしてください。

新共同訳・神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
口語訳・神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
新改訳・神を愛するとは、神の命令を守る事です。その命令は重荷になりません。
岩波訳・何故なら神(へ)の愛とはわたしたちがその言戒めを行うことであり、しかもその言戒は困難なものではない。

 「神様の愛の存在目的は、私たちが神の戒めを守る事にある」と言う意味なのです。これはパブリックドメインであるWEBもほぼ同様の読み方をしている事でもわかります。以下を参照 

WEB・For this is the love of God, that we keep his commandments. His commandments are not grievous.

 以前お話しました様に (参考 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1559290.html )愛の定義とは「律法すなわち十戒の満たされる事」なのです。
(十戒に関しては http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2277787.html
 十戒の解説は   http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2366928.html
 十戒の要約は  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/2437888.html

  以上の事からわかる事は「新約聖書は旧約聖書と全く同質である」と言う事です。ギリシャ語やヘブル語の原文で聖書を読むと、聖書の言っている事は実に理路整然としていて、おかしな神学者や注解書等の取り入る余地の無いほど聖書の教えが簡明であることが見て取れるのです。そして旧約聖書もパウロの主張もそしてヨハネの記述も何の矛盾も無くまた解釈も不要なのです。

  「愛の定義とは十戒を守る事」であり、当然のこととして「神の愛は私達に十戒を守らせる」のが目的で存在しているのです。そしてもし全ての人間がこの十戒を守れば当然のこことして地上に殺人や盗みや不道徳に加えて裁判や偽証もそして国家間の戦争も必要が無くなると言う事なのです。しかし、注意してください。聖書は人間が「神の愛を受け入れる=十戒を守る」とは記していません。それを拒否し、当然の如く十戒を拒否して当然の事として十戒を犯して殺人や盗みに不道徳や裁判が蔓延しやがて神様はこの世界を終わらせると言う聖書の結論が現実の物となる事を聖書は記しているのです。

  そして、皮肉な事に原文が言っている「神が人間を愛しているから、その神の愛に報いる為に、神が愛している他の人を愛する具現として十戒を周囲の人に実践(愛を現実に)しましょう」というのが聖書の福音なのです。しかし残念な事に翻訳聖書は、「人間は神を愛せよ、その証拠に神の掟を守れ」と言う全く正反対の掟(まさしく律法)にすりかえているのです。これではまるで聖書翻訳の段階で新約聖書の教えが律法で旧約聖書の教えが福音になってしまうかのようです。聖書は初めから新約聖書も旧約聖書も原文で読む限り福音ナノです。 

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