原典聖書研究

ギリシャ語はギリシャ語の書庫や聖書関連記事は「無題」の書庫です。2018年5月29日より新投稿不能31日回復しました。

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信仰と信頼

信仰(×)と信頼(○) 

 国際化と言う言葉を良く耳にします。同じ世紀に生きる者同士でも言葉の壁を越えて、交流を深めるのは難しい物があると思います。そのことを思うと、風俗習慣だけではなく時代が2千年も異なる聖書を現代の人々が正しく理解できる様に翻訳するのは不可能ではないでしょうか?
 
  原典で聖書を読んでいて理解する事の難しさに良く直面します。漸く、何とか理解したと思った所で、これを翻訳にするとなると本当に難しい物があるかと思います。

 特に神様や信仰のお話になると難しさも大変な物が在る様に思います。その様な難しさを考えさせられる事を一つご紹介しましょう。

●抄訳聖書の冒頭に誤訳として紹介 

実は聖書で基本的な言葉である「信仰」と訳されている言葉なのです。「抄訳聖書」という一風かわった翻訳が「いのちのことば社」から発売されていますが、その冒頭に在る緒言にも、そのことが詳しく取り上げられています。

「英訳のbelive(信仰)という訳語をギリシャ語ピステウオー(信頼)に当てはめる選択は誤っている」という主張です。F.E.Sと言うイニシャルの米国の著名な神学者の意見ですが、私も全く同様に『信仰』言う日本語を聖書の翻訳に登場させるのは聖書を読む人々に大きな誤解をもたせるのではないかと思っています。

 聖書の主張している最も大切な主張は、「神様や聖書に対する「『信仰』」ではありません。そうではなく、「聖書や神様に対する『信頼』」なのです。

 この事をもう少し具体的に説明してみましょう。「信仰」と「信頼」の違いをまずみましょう。

●信仰と信頼は全く別の意味

信仰は信じる人の心の問題で「鰯の頭も信心から」と言われるように信じる側が主体です。しかし、信頼という言葉は信仰とは違います。信頼は信頼する側に責任があるのではありません。信頼する側には一切の条件は不要(無条件)ですが、信頼される側(神様と聖書)には『信頼に足る真実な信頼出来る実際の内容』が要請されているのです。

●旧新訳聖書原典の用語では明確に一致

 今問題にしてきたのはギリシャ語のピステウオー(信頼)という意味の言葉でした。このピステウオー(信仰)の訳語の是非の論議は、新約聖書のギリシャ語の翻訳の問題だけでは収まりません。その言葉は旧約聖書にも登場します。創世記の15章の6節で中で「アブラハムが神様を信じた」という原語はへブル語のアマン(アーメン)です。この言葉も普通に信仰と訳されています。しかしこの言葉のへブル語の本来の意味もやはり『信頼』と言う意味です。

 聖書が繰り返し教えている「神様を信じる」と訳出されている事は実は全て「神様を信頼する」と言う意味なのです。

●信仰と信頼は正反対の意味

  聖書が教えているのは「信仰」という人間の信仰する側の感情や心情の問題ではないのです。聖書が繰り返し人間に要求しているのは、「信仰などという人間の主観ではなく、事実か記された聖書や存在される見えない神様に対する信頼」なのです。

その違いの大きさがお判りして頂けるでしょうか? 不等号「<」(より大きい)側を表す。

そう信仰は、信仰する側 >> 信仰される側 と言う関係ですが、
信頼では逆に 信頼する側 << 信頼される側 という関係になります。

 これを極端に表現すると そう、

 そう信仰は、 信仰する側 >> 0(無) が信仰の実体で、
信頼では逆に  (無)0 << 信頼される側 が信頼の実体という関係になります。

●聖書は明確に信仰を否定し信頼を要求している。

『聖書の教えているのはこの後者の信頼』なのです。教会学校にくる幼児に「信仰って何?』と質問したら、きっと『実際はそうではない事をそうだと信じる事です』と回答するでしょう。日本語や英語に訳されている「信仰=belive」は本来「信頼出来ないものを信じる」と言うのが正確な定義なのです。

 聖書が要求している「神様への信頼」はこんないい加減ででたらめな「信仰」ではありません。

●信頼は完全な神が全的堕落した人を救済する根拠。

 聖書の基本は「本当に真実(歴史上の史実)だからそれを信頼しなさい」と言う意味なのです。ですから

★「信頼する側」には一切の資質や条件は要求されません。そんな物は不要なのです。しかし、

★「信頼される側」には完全が要求されるのです。

聖書が記している神様を信じる(正確には信頼する)と言う事は「信頼される神様の側に完全」が要求されています。

  それは、同時に「信頼する側の人間には何も要求されていない」

ことを示しているのです。だからキリストは処女マリヤより神の子として誕生され、十字架で人類の罪の贖いを完遂し、人間が何の行いも無しにキリストに信頼するだけで良いという聖書の教えの今本がこの「信頼」と言う用語の重要な理由なのです。

  ★逆に言うと「人間には自分が『無価値である事を認める事』が神様を信頼する為に必要不可欠」なのです。

■だらか、全的に堕落した人類は完全に信頼出来るキリストの十字架の贖いによっのみ救われうると言う聖書の根本がこの信頼の訳語にかかっているのです。

▲逆にいうと「信仰」と訳出する翻訳は究極的にキリストの贖いを否定してしまっているのです。 

 少し難しくなりましたが今日は聖書で非常に大切な用語は信頼で(ギリシャ語のピステウオー=信頼=へブル語のアマン)あるというお話でした。

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閉じる コメント(2)

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とても、同感です。
私、教会に行ってまだ3回目だった時、どうすればクリスチャンになれるんですか?と、牧師さんに聞いたら、『汽灰螢鵐15:3〜5』のあたりを読んで、「それを、信じますか?」って、質問されました。『信じる・信じないっていう問題じゃなくて、それって事実でしょう。そんな聞き方するなんて、この人、自分では信じてないのかな?』と、思いました。

2009/2/14(土) 午後 10:55 suzumenosippo 返信する

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すずめ様 そうなのです!!聖書が言っているのは「この事が事実である!!」と言っているのです。
私達はその記述に信頼するか否の判断が迫られていると思います。

そして、私達の住んでいる世界の真実=現実から目を逸らさないでその事実を直視する事を聖書が教えているのだと思います。

2009/2/14(土) 午後 11:28 [ 油食林間 ] 返信する

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