原典聖書研究

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悲しみの手紙

悲しみの手紙  競灰鵐螢7章8節 

 今日読んだ聖書箇所で気になる箇所をご紹介します。それは上記の箇所です。何時もの様に直訳を記します。

08 ・それは もし そして 私が悲しませた あなた方を 中で その 手紙、無い 私が心を入れ換えさせられ続けている。 もし そして 私が心を入れ換えさせられていた。( 私が見続けている それは その 手紙 あの もし そして 方に 時間 彼が悲しませた あなた方を)、

翻訳にします。

私はあなた方を悲しませました。その原因は前に書いた手紙ですが、今も私の心は全く変わりません。もし(事実に反する仮定=未完了形)そして私が心を変えさせられていたら(そんなことは絶対にない)[私は実続けています それはその手紙が もし(事実に基づいた仮定=アオリスト形)暫らくあなた方を悲ませた。

気になることは何かと言うと、パウロがここで言っている「コリントの人々を悲しませた手紙」は何かと言うことなのです。私の知る限りキリスト教の聖書学者の主張は、第一の手紙の後にパウロが「悲しみの手紙を記した。」と言うものです。しかし、以前に記した様に第一コリントの手紙は、原文で読む限りコリントの信者の不道徳や恥と成るべき堕落を列挙した物でした。と言うことで何も「悲しみの手紙」あるいは「涙の手紙」が他に存在する必然性は無いと言うことなのです。

  第一コリントの手紙が正しく翻訳されていたら、誰が読んでもこんな酷い批判の手紙を事も在ろうにキリスト教会の信者当てに記すなんて言うことは、正常な感情では不可能です。コリント教会の創立者パウロにとってあの内容は十分に「悲しみと涙の中でしか書きえない」手紙だからです。

  コリント人への手紙第一がその様な酷い手紙であることを認めない神学者が多いのですが、それが、理解できないのはおそらく、学者さんには大変大変失礼ではありますが「全くギリシャ語の読めない、あるいは理解できない」で神学をされていると言うこと以外、原因は考えられません。

そしてこの事自体も非常に悲しい現実です。このような今日のキリスト教界のお粗末な現実もまた、深い悲しみと涙なしには告発は出来得ません。

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