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奥州平泉 柳之御所跡遺跡
8月28日朝、訪問 世界遺産から外された遺跡だ。
奥州藤原氏の政庁跡とされている。
北上川にそった建物跡だが、思ったほど広くない。
平城宮や京都御所と比較するとやはり二まわりは小さい。
太宰府の政庁跡よりも狭い感じがする。
やはり、平安時代の一豪族、一地方都市の政庁だったのだ。
入り口に解説看板と航空写真があった。
池の形は曲線と島が特徴の大和風だ。
藤原氏は奥州蝦夷の血を引くが、その支配感覚は平安貴族の文化だ。 建物がないので広々とした感じ。
建物の地図を見るだけでは、当時の地方豪族のようだ。 堀はこの当時としてはこの程度なのだろうか。
立体図を見れば、中尊寺は山の聖地だったとわかる。 以下、ウキペより
柳之御所は、奥州藤原氏初代清衡が豊田館(奥州市)から平泉に移ってきて居館をかまえた所であり、三代秀衡が再整備を行ったとされる。『吾妻鏡』の記述にある奥州藤原氏の政庁・平泉館(ひらいずみのたち)の跡と考えられる。 中尊寺の南東に位置し、柳之御所から北西方山上の金色堂を望むように造営された。
文治5年(1189年)、源頼朝の28万余の大軍に攻められ炎上した。 柳之御所の名前は、伽羅御所の名前に対比して、後世に名づけられた。『吾妻鏡』には無量光院の北に館を構え平泉館と称したと記しており、柳之御所の名は無いが、JR平泉駅の北500mのところに柳之御所の字があるので、現在はこの字名をとって柳之御所と呼んでいる。 高館の南東、北上川西岸と猫間が淵に挟まれた標高約25mに立地し、 112,000m2ある一帯からは、多くの掘立柱建物跡や、巨大な堀、橋、道、園池、屋敷群跡、10トン以上のかわらけ(土器)、中国産陶磁器、常滑産や渥美産の陶器、当時の烏帽子、国内初の発見となる磐前村印、将棋の駒などが出土している。
現在は、遺跡面積約10ヘクタールのうち約5ヘクタールが柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。今後は建物も復元整備される予定である。 南側に柳之御所資料館があり、奥州藤原氏に関する資料や出土した遺物が展示されている。 遺跡保存の経緯 柳之御所は奥州藤原氏の初代清衡、2代基衡の居館あるいは源義経の居所と伝承されてきた。平泉館跡は、北上川の水衝部にあたるため、長年に渡り侵食され、一時、遺跡は川によって流されたと思われていた。 同遺跡の発掘は、1969年の平泉遺跡調査会(代表・藤島亥治郎東京大学名誉教授)による調査が始まり。その後1988年に始まった6年間に及ぶ一関遊水地事業・平泉バイパス建設に伴う緊急発掘調査により、重要な発見が相次いだ。以来44回におよぶ調査の結果、中心年代が12世紀後半であり、特に3代秀衡の時期に重なることが判明。 こうした歴史的成果から保存の市民運動が起こり、その価値を重視した建設省(現国土交通省)も堤防・バイパスのルートを変更するという英断を下した。1997年には国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に指定され、世界遺産登録運動が開始された。 世界遺産登録に向けた取り組み
2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。 文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を目指し、2011年5月に国際記念物遺跡会議が、平泉の世界遺産への登録を勧告したものの、柳之御所遺跡の除外が条件となったため、同年6月の第35回世界遺産委員会では、勧告通り柳之御所遺跡が除外される形で、「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産への登録が決定した。 今後、一関市の骨寺村荘園遺跡、奥州市の白鳥舘遺跡・長者ヶ原廃寺跡、平泉町の達谷窟と共に追加登録の形で段階的な登録を目指す方針とされた。 |
日本の古代史
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奈良・斑鳩町の法隆寺、高松塚古墳、斑鳩町文化財センターを、
27日に訪れた。
高松塚の周りが立派に整備されていてびっくりした。
以前来たのは、10年以上まえだったろうか。
調査用のシートが被っていたような記憶がある。
今回、中の玄室をのぞけるのが面白かった。
日曜日とあって、次々と観光客が訪れる。
高松塚古墳の副葬品を見せる斑鳩文化財センターができていた。
昨年3月に開館したという。
20分の紹介ビデを見てから、高松塚古墳のから出た来た遺品の本物や、レプリカなどの展示を見た。
石棺と、発掘しふたを開けた状態の原寸大のレプリカが面白かった。
今回、法隆寺見学と合わせて、観光協会の無料ガイドを頼んだ。
朝9時から13時までの4時間、びっしりガイドをしていただいた。
退職した、発掘調査の専門家の方だったので、詳しく教えていただいた。
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藤原京跡 奈良県橿原市 3月6日、妻と訪問
飛鳥から始まって、平城京、難波の宮とまわってきた。
やはり藤原京跡を見なければと、妻と訪れた。
何もない、平地だった。
ウィキペディアより
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な唐風都城でもある。 この都城は、周礼が説く思想を表していたとされている。
光が当たっているところが、藤原京。
手前の丘は、耳成山。
下の写真は大極殿跡の森。
右は「資料室」のある建物。農協の建物の2階にある。
右は耳成山、左は天香具山
藤原宮のジオラマ。上の写真の反対の南側から見ている。
ウキペより
690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2キロとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3キロ(10里)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある藤原宮を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があった。
ただし、この朱雀大路は後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の大きなものではなく幅24メートル強(側溝中心間)の後の朱雀大路と比べて非常に狭い幅のものであった。 京極を除いて縦横九本ずつの大路が通っていた。
京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。 問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。
太宰府や平城京、平安京等が北に政庁を配した北朝形式の都であるのに対し、藤原京だけが古い周礼によって建設されたのは、当時武則天(則天武后)が周(武周690年〜705年)を復活させるなどしており、漢土の復古調の影響が考えられる。
藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門(すざくもん)である。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿などの建物は中国風に瓦葺で造られた(日本の宮殿建築では初めて)。
木簡約1200点が出土している。大宝律令の内容などが復元出来そうな史料であるという。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており、重要史料であるという。
現状奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿(だいごくでん)の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている(位置:北緯34度30分8.5788秒東経135度48分27.1368秒(世界測地系))。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。
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大阪・難波宮跡
大阪・上町台地の先端にある大極殿跡。
後ろに大阪城が見える。
大化の改新645年の跡、飛鳥から海の近くの難波に宮を作った。
平城京の大極殿でより一回り小さい感じがする。
上町筋の法円坂交差点にある遺跡入り口。
大阪城の南に隣接する大阪の中心街だ。
東京で言えば「皇居」だ。
前期は大化の改新後の652年に完成。
667年大津宮遷都までの15年間、大和の中心だった。
建物は686年の火災まであった。
後期は平城京の副都として726年から工事。784年長岡遷都で難波宮を解体し、長岡京に移動。
難波宮は、約150年間あった。
大阪歴史博物館から見た、難波宮の跡。展示された写真と同じ場所に窓があり、写真も撮れた。
大阪歴史博物館で見た前期難波宮のイメージ映像。
柱や板壁は赤くしてある。屋根に鴟尾はあるが、板ぶきである。
大化の改新で飛鳥から難波に遷都した。
飛鳥時代に、火災で燃えてしまった。
後期は、奈良時代に再建、平城京の副都として使われた。
瓦葺きで、柱は台石に乗せられた。
2011年2月25日訪問
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大阪府立近つ飛鳥博物館があるのは、近つ飛鳥風土記の丘。
大阪府の河南町・太子町にまたがる一須賀古墳群の丘が公園になっている。
現在も残っている古墳。その入り口。 中から入り口を見る。
石棺が置かれていた。
第一展望台から、大阪中心部を見る。
古代は、ここから上町台地の難波宮や四天王寺が見えたのだろうか。
第2展望台から、推古天皇陵。左下の森の部分。
桜はまだ花芽もでていなかった。
梅がぼちぼち咲いていた。
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