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新薬師寺には3月9日に行った。薬師如来を囲む十二神将像が有名で、
観光スポットとして名高いお寺だ。
期待をして本堂に入ってみると、以外に小さい。奈良時代の威信は伝わらない。
、 薬師如来像と十二神将像を何度も見つめたが、自分でも意外に感動できなかった。鎌倉時代の彫刻の勢いはないのは仕方ないにしても、武装して仏を守る像としては、おとなしい。形式・様式にとらわれた感じだ。
興福寺のアシュラ像などの八部衆や十大弟子の塑像のような精神性を感じなかった。興福寺の像と同じ時代で、制作依頼者も同じ光明皇后なのに、作者集団が違うのだろうか。
また、訪れて、もう一度しっかり見物したい。
ウキペより
新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。
山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。
奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、
国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。
十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、また護法善神である。
十二夜叉大将、十二神明王(じゅうにやしゃたいしょう/しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神である。新薬師寺にある塑像の十二神将像がよく知られる。
十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るという。そのため十二支が配当される。
また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王がある。
各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率い、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているという。
国宝 の十二神将像
新薬師寺像 (奈良県奈良市)塑造、奈良時代、12躯のうち11躯が国宝。1体は細谷而楽の昭和補作。 興福寺東金堂像 (奈良県奈良市)木造、鎌倉時代 興福寺像 (奈良県奈良市)板彫、平安時代 広隆寺像 (京都府京都市) 木造、平安時代 |
神社・仏閣めぐり
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3月11日、奈良市西の京、薬師寺にいく。
何度も行っているが、その都度、新しくお宝が見れる、文字通りの宝庫だ。
今回のお宝は解体修理中の東塔から出た仏舎利。
写真は撮れなかったが、しっかりと見て、ありがたく拝んできた。
仏舎利は写真が撮れないので、薬師寺の機関誌からコピー。
もともと、西塔の柱の下にあったが、西塔が焼けたときに、東塔の柱の先端に収められたそうだ。東塔の解体修理のために取り出された。
三蔵法師がインドから中国に持ち帰った仏舎利の一部を日本の薬師寺に渡ってきたもん。
もう一つのお宝は発掘調査。
女性の調査員も頑張っていた。
でも、その熱心さに、妻と私も寒さを忘れて見物した。
満開の梅にメジロ。景色は間違いなく春だった。
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正月2日は伊那谷から自家用車で長野市の善光寺へ初詣。長野市で娘と合流し妻と3人で、お参りにいく。
大勢の人で、押すな押すなの大賑わい。
世の中に善男善女はつきない。
善光寺は、お寺でも大きいだけあって、ご祈祷は何でもある。
願い事引き受けの総合商社だ。
新春特別祈祷のお札は1件5000円。10000円だと大きなお札がもらえる。
秘仏のご本尊の前の内陣にあげてもらって、お坊さんに住所と名前と願い事を読み上げてもらいなが、お祈りして、名前と願い事を書いたお札を受け取る。
妻は心願成就、私は92歳になった妻の母の名代で健康長寿。それぞれ5千円の新春特別祈祷をしてもらう。
娘は厄払いで奮発し、10000円のお札をいただいたが、その大きさには驚いた。善光寺の山門にものぼった。拝観料は500円。
山門には知恵の仏様、文殊菩薩が象に乗った姿で安置されている。
姿の見えない秘仏より、立派な姿の仏様の方がありがたく感じるのは俗物の根性か。
仲店の通が人でいっぱいだ。
善光寺の次は、上田市別所温泉の北向観音へ。
いつのころからか、善光寺と対で参ると御利益が大きいと言われている。
車で約1時間。
善光寺と比べると小さなお寺だが、ここも大賑わいだった。
案内板によれば、
「北向きのみ仏は衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光寺と相対し古来両尊を参拝しなければ片詣りになるといわれている」とある。
元祖コバンザメ商法か?。立派な講釈を考えた方がいらっしゃるのだ。
合掌。
早朝から夜まで、約400キロのドライブだった。
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11月8日、奥州平泉の毛越寺を訪れた。
8月に中尊寺に行ったときは、寄れなかった。
今回は、雨の中、一人で参拝した。
ひどい雨の中だった。しかし、さすがに世界遺産。何組もの観光客が地元ガイドの話を聞きながら歩いていた。
芭蕉の「夏草や 兵どもの 夢の跡」の句碑が建っていた。義経最期の地、高館(たかだち)で詠ん句だが、なぜかここ毛越寺の本堂前にあった。
毛越寺は岩手県内でもモミジの紅葉のきれいなことで有名。
雨に中、悔し紛れに写真を撮り続けた。
毛越寺のHPより
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。 平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。
発掘調査
毛越寺境内は昭和29年から5ヶ年間にわたって全面的に発掘され、その規模などほぼ全容があきらかにされました。その調査結果は、吾妻鏡などの古記録とも合致するものでした。 伽藍復原図は、この発掘調査の資料をもとに画かれたものです。
寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。 大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。
大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。 これは毛越寺の開山にまつわる話です。
浄土庭園
仏の世界すなわち浄土を地上に表現したと伝わる浄土庭園・・・。 大泉が池は浄水をたたえ、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、橋のたもとをかざる橋引石、枯山水風の築山、遺水などの石組を配し、この景観は平安時代に書かれた日本最古の庭園書である作庭記に基づいて作られてた学術的にも貴重な庭園です。 臨池伽藍跡(史跡)
「特別史跡」・「特別名勝」と、その文化価値を国から二重に指定されている毛越寺。北に、塔山と呼ばれる小山を背景に、広々とした苑地美観が展覧する。杉並み松陰を大泉が池の水面に映して、雄壮な石組みの築山、出島の立石・伏石と、平安時代の優美な作庭造園の形状を如実にとどめている。 日本庭園史上にも特に貴重な遺構として調査の上、旧観に復された。
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岩手県平泉 中尊寺。8月28日、妻と参拝する。
1902年に再建された本堂。建物はさらに新しい。
金堂の入る鉄筋コンクリートのお堂
8月の終りの平日だったが、朝から大勢の参拝者で賑わっていた。
さすがに世界遺産のお寺だ。
境内のお土産店に金色の豚があった。なぜか県内限定だ。
ウキペより
実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られる。
藤原清衡と中尊寺
奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年 (1056年) に生まれた。
清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。 清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。
清衡の兄弟には兄・真衡 (清原武貞と先妻の子) と、弟・家衡 (清衡の母と清原武貞の間に生まれた子) がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。
真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。 この一連の内紛を「後三年の役」と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。
その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。 清衡は寛治3年 (1089年) には陸奥押領使に任命され、 嘉保4年 (1094年) 頃には居館を江刺郡豊田館 (とよたのたち、奥州市) から、中尊寺のある平泉に移している。
このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。
壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。 清衡が平泉にて中尊寺の中興 (事実上の創建) に着手したのは長治2年 (1105年)、50歳の時であった。 この時建てられた堂宇は「最初院」または「多宝寺」と称され、『法華経』「見宝塔品」に登場する多宝如来と釈迦如来を本尊とするものであったが、その建築形式等の詳細は不明である。
現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年 (1124年) と判明する。
この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体 (ミイラ) が安置されている。
平泉では、奥州藤原氏4代 (清衡、基衡、秀衡、泰衡) 約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺 (もうつうじ、基衡建立)、観自在王院 (基衡夫人建立)、無量光院 (秀衡建立) などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。
「中尊寺」の寺号については、天治3年 (1126年) の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間 (1142年 - 1144年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書 (『異本山家集』所収) に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。
「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。
中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。 しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある。 中世以降
文治5年 (1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。 『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」 (じとういげのちゅうもん) という文書が引用されている。これは、時の権力者に提出する文書として、当時残っていた堂宇を書き出し報告したもので、当時の伽藍の実態にかかわる史料として信頼のおけるものとされている。 これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」 (大長寿院) などがあったという。
建武4年 (1337年) に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。
江戸時代には仙台藩領内となり、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われた。
承応3年 (1654年) からは仙台・仙岳院が別当寺となった。 寛文5年 (1665年) には江戸・寛永寺の末寺となった。 しかし、元禄2年 (1689年) に『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が、中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。
1909年 (明治42年) に本堂が再建。
1950年 (昭和25年) に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇 (向かって左) に2代基衡、左壇 (向かって右) に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。
1958年 (昭和33年) には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。
1962年 (昭和37年) より金色堂の解体修理が行われ、
6年後の1968年 (昭和43年) に創建当時の輝きを戻すことになる。
現在は、泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年 (平成10年) に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられている (花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴)。 |





