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岩手県の盛岡城跡は公園になっている。
紅葉真っ盛りだった。
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城郭・城趾めぐり
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福井城趾
内堀とその中の石垣だけが残る。城内は県庁と県警の建物が敷地いっぱいに建っている。
左下は新しく復元した橋。
右は、福井藩の開祖、結城秀康(徳川家康の次男)。
「郷土の英雄」なのか城内、県庁建物前にある。
下の2枚は、福井城の本丸跡。石垣しか無い。
その石垣の一部も、福井地震で壊れて、そのままにしある。
以下、ウキペより
福井城(ふくいじょう)は、福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。
柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。
現在見られる福井城の遺構は第2期のものである。
柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。
現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。
柴田氏北ノ庄城
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、天正3年(1575年)に自らの縄張りによって築城を開始する。同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することになるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じられたという記録が残っている。
1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。
平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していたと推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したときの記録があるが、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」とある。この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で葺いている。
また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、勝家によって足羽川に架橋された九十九橋についても言及がある。
次に、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。
結城氏北ノ庄城(福井城)
1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による築城を開始する。
1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。
完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説あり。
1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)
天守
本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて望楼型4重5階の天守が建てられた。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていた。
寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としている。古写真では、複合式望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあることから、3重5階の櫓であったと見られている。
遺構等
明治中期に松平康荘により、城内に農業試験場(松平農試場)が設立、運営された。
現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。
石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。
また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされた。
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発掘と再建がすすむ山形城跡。
復元された二の丸東大手門。
東大手門の内側と内部。
ビルの展望台から見た山形城跡
中は、公園になっている。
城跡では発掘が行われている。
新しく再現された本丸一文字門の石垣
本丸の建物は資料が残っていない。
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岡山市には何度も来ているし、後楽園も訪れたことはあるが、
岡山城の天守閣は初めてだ。
空襲で焼け、戦後、コンクリート造りで再建。近年、鯱を作られた当時の
金色にしたという。黒い屋根や壁に、金のシャチが映える。
緑の木々にも、金シャチは映えている。
天守閣の上層は展望台と博物展示だか、下層は観光施設になっている。
上左は、お姫様衣装で記念撮影するアベック。 最近は、どこの観光地でもこうしたコスチュームがある。 上右の備前焼工房も天守閣内にある。
左は天守閣内のエレベーター。
さすが昭和に作った天守閣。
21世紀の再建は、建築当時の雰囲気を大切にするため、エレベーターは付けない。
右は、天守閣の礎石。再建するときに元の礎石を本丸の別の場所に移し替えたそうだ。
兄妹の子どもが、楽しいそうに飛んでいた。
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5月の上旬、平日に熊本で仕事があった。
時間の隙間をこじ開けて、熊本城を訪れた。
前回訪れたのは、たぶん、前世紀だったろうか。
平日なのに、外国人の学生や、観光客で大賑わいだった。
連休や、桜のころがどれだけの人出だったのだろう。
ちなみに、熊本市は4月から政令市になっていた。
なんたって、今回の訪問の目玉は、本丸御殿。
西南戦争のときに焼けてしまった本丸御殿を再建。
「台所」や「食堂」があり、生活の場だったことが改めて実感できる。
当時の献立もあった。
竈も再現されている。
御殿の主の間。絵や写真は残っていないので、文字の記録から再現したそうだ。金ぴかと極彩色。彩度の強い雰囲気がいい。
御殿内の他の部屋は、壁や天井の装飾はしていない。どんな絵が描かれていたかは、部屋の名前からわかるが、詳しい記録が残っていないので、白壁のままだ。
お城はやはり天守閣。熊本城は主と副の二つの天守がある。
左は、副店主から主天守を見る。
下は、主天守から本丸御殿を見下ろす。
右は天守閣最上階から見る熊本の街。
下は、昔のまま残っている建物。
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