全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]

 伊達政宗は、三春城主の田村清顕(たむらきよあき)の愛姫と結婚した。この時愛姫は11才
だったそうです。とても温順で愛らしかったようです。ただ芯は強く政宗が亡くなってから
仏門に帰依し、陽徳院と号しました。

開く トラックバック(1)

 幼名梵天丸の元服は、天正5年(1577年)に行われ、名を「伊達藤次郎政宗」と名乗るようになる。
実は「政宗」はもう一人いる。それは伊達家9代当主の伊達政宗がいる。この人物は
中興の祖と言われた。これにあやかって名乗ったのである。

イメージ 1

イメージ 2

 片倉氏は、加藤判官景廉を祖としている。その孫が信濃国片倉村に住んだことから、片倉氏を
名乗った。
 景綱は、はじめ小十郎と称した、その異才があるとを遠藤基信は、伊達輝宗に薦めたこれにより
政宗の近侍に成ったようである。以来政宗の軍中に景綱在りといわれた。
 人取橋の戦いをはじめ各戦いで、軍功をあげている。政宗のブレーンとして大局観に明るく、
近世への過渡期における藩政の確立に尽くした。
 慶長7年(1602)12月、刈田群白石に1万6千石を治め白石城主として来住した。
 片倉氏の実収は10万石にあたったと言われている。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

 決して後戻りしない習性をもつ毛虫こそわが武威の象徴として、毛虫を兜の前立てにつけて奮戦
した。伊達家随一の猛将である。
 成実は植宗の子実元を父とし、晴宗の娘を母とする。つまり政宗から見て大叔父の子であり
伯母の子でもあって、政宗より1歳年下であった。気性は荒かったが、部下に思いやりがあり
奥州の戦いを綴った『成実記』を著すなど英毅大略の知将とも言われた。
 人取橋の戦いでその猛将ふりを発揮し政宗のピンチを救ったりした。また摺上原の戦いでも
活躍した。また蒲生氏郷の政宗が葛西、大崎一揆で一揆に荷担したという疑いがかかったとき
自ら人質になり、政宗の無実を訴えた。だが慶長3年(1598年)成実は、政宗に位録で
冷遇されたことに不満をもち出奔する。上杉景勝が5000石で召抱えようとしたが拒み
結局政宗が帰参を促し、禄を2万石で亘理城主に復帰したのである。

伊達軍団の基本編成

イメージ 1

 伊達氏の軍団編成は、政宗の側近として政策や軍略に加わるとともに、侍大将として一軍を
率いる事が多い、譜代家臣と、自らの所領があり独自で家人を養い、戦の時は政宗の命に従い
侍大将として参陣した、独立的家臣から成り立っている。
 さらに、譜代のは一家、一族、宿老により成り立っている。独立家臣はそれぞれ各衆ごとに
別れていた。譜代の家臣には、片倉景綱や伊達成実のような若手のグループで政宗が家督を継いだ
時と前後して、自ら家を相続した者たちと、若手に家を譲って相伴衆(しょうばんしゅう)として
いつも意見を言う立場の者がいて、例えば亘理元宗や留守政景等がうまく噛み合っていたことが
言えます。



 

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
【独 眼 竜 政 宗】
【独 眼 竜 政 宗】
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(3)
  • ケイ
  • 馬場美濃守信春
  • 中路正樹
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事