伊達政宗

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 前年に結んだ佐竹氏、蘆名方との和議を一方的に破棄。蘆名領安子ヶ島(福島県郡山市)、
高玉(同)に向け、猛然と進撃を開始する。両城を簡単に落とした政宗は、いったん兵を
相馬氏の駒が峯(同相馬郡)に向け、蘆名側を安心させたあと、急転して猪苗代城(同猪苗代町)に
入った。城主の猪苗代盛国を見方につけていたのである。

 蘆名軍は本拠の黒川城(同会津若松市)を出て、磐梯山麓の摺上原(磐梯山)に展開。
5月4日決戦の火蓋は切って落とされた。緒戦は蘆名軍有利に運んだ。
 摺上原一帯には朝から今日強風の西風が吹いていて、伊達軍は正面から砂塵を浴びて苦戦したが
風向きが変わるとともに、形成は逆転、蘆名軍は総崩れとなって敗走。伊達軍が打ち取った
敵の首は3000余りであった。

 政宗はこの戦いの後、米沢から居城を黒川城に移し、現在の福島県のほとんどと、山形県
宮城県の一部、合計144万石を領する全国屈指の戦国大名にのし上がった。

 この時、政宗は22才。家督を継いで5年目のことである。

 伊達政宗は人取橋の戦いの後、外交戦略を行う、まず佐竹氏に対しては北条氏に、
蘆名氏に対しては、上杉氏の牽制を依頼した。そして二本松城を孤立させこれを手中に収めた。

ひとまず雪辱を果たした政宗は、大きな危機が訪れる。天正15年(1587年)最上義光が
伊達領に侵攻、その翌年、伊達軍は内訌に乗じて大崎領攻め入ったものの大敗。
これらにより、伊達は北方に驚異を抱えることになった。また、これに乗じて先に帰順していた
大内定綱が再び裏切り、さらに同盟を結ぶ田村氏では家督継承問題が勃発し、田村氏で
伊達派と相馬派が対立してしまう。

 そうした中、恐るべきことに、蘆名・佐竹連合軍が、伊達方の郡山城を3万の大軍で包囲した。
政宗は、最上・大崎に対しても備えを割く為に、4千6百で郡山に向かった。

 絶体絶命の危機に、政宗は後方撹乱策に出る。北条氏に佐竹氏を牽制させる一方、蘆名の重臣
猪苗代盛国をく調理し、その子盛胤と私闘させるなどして、揺さぶりをかけたのである。
これが功を奏し、連合軍は和議を結んで撤退。辛くも虎口を脱すると、これを機に、
道は、一挙に開けてくる。

 連合軍が撤退した。その日に政宗の母、保春院の仲介で最上義光との和睦が成立。その後
田村氏の内紛も伊達派の勝利に終わった。
 そして、天正17年2月には、大内定綱が完全に服属し、4月には大崎氏との和議がなる。
四面楚歌の苦境はここにおわり、政宗はついに蘆名氏の制圧に全力を投じることができるように
なったのである。


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【独 眼 竜 政 宗】
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