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若い政宗は、前年に父を殺した。畠山一族に対する怒りから、進軍しようとしていた。
一方、畠山氏は、伊達軍が二本松(畠山氏の居城)に迫りつつあったので畠山氏は
葦名義広を頼ったのである。蘆名義広の父は、常陸の戦国大名佐竹義重で兄に佐竹義宣がいる。
のことから、伊達政宗の敵は畠山氏から佐竹義重に変化するのである。
畠山氏の他に、石川氏、白河氏なども政宗の襲来に備えてした。彼らも政宗の「撫で切り」を
恐れたのである。そこで彼らも佐竹義重と葦名義広を頼ったのである。
佐竹義重はすぐに軍を北上させたのである。これに石川氏、白河氏、葦名氏、さらに岩城氏
も加わった。佐竹連合軍が完成したのである。尚岩城氏も佐竹義重の三男である。
伊達軍は1万3千余りなのに対して、佐竹連合軍は総勢3万であった。
午前8時ごろ連合軍の先鋒が、高倉砦を攻撃して、戦いの火蓋が切られたのである。しばらくして
連合軍の主力が、仁井田で、伊達軍の伊達成実の部隊と激突した.伊達成実も人取橋まで押されたが、
奮戦したここが一番損害が、大きかったので「人取橋の戦い」と言うようになったのである。
一方伊達本隊と佐竹軍が激突したのが兼谷平手である。後備の蘆名軍は、直接戦ったいないのである。
佐竹義重は通称「鬼義重」と言われた猛将でこの時も、政宗の本隊を観音寺山まで押し上げる
のである。その時、鬼庭左月(さげつ)73才が兜を付けずに、郎党60騎余りで殿軍をし政宗を救ったのである。この時左月は戦死したのである。この間に政宗は阿武隈川を渡り岩角城にひいた
のである。一方伊達成実も瀬戸川を守って1千を率いてよく戦ったが、殿軍を務めた伊庭宏昌は
成実を助けたために、討ち死にしたのである。
伊達軍はなんとか踏みとどまっていた状態でなおかつ、犠牲も多かった。それだけ佐竹義重が
強烈に強かったのである。
ところが、佐竹連合軍の情勢が変化する。実はこの時連合軍の軍師である。佐竹義政が馬の手入れ
について失跡した家僕が刺殺す事件が起きて、また安房の里見義頼と水戸の江戸重通が常陸に
侵攻したとの情報が入り、佐竹義重も撤退するしか無くなったのである。それと政宗自身が
戦場の中に躍り出た事により、伊達軍の士気が再燃したことを悟り。義重は全軍撤退したのである。
これでこの戦いは終わり、伊達政宗の武名も高まったがとても苦しい戦いであったことは
明らかである。
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