織田信長(おだ のぶなが) 1534〜1582
信秀の子。幼名は吉法師。戦国の革命児。美濃のマムシと異名を取る斎藤道三の娘・帰蝶を妻にした。
信長は「うつけ者」の評判が高く、家臣や一族から離反するものも多かった。
教育係の平手政秀が自害する。政秀は若い時の信長の素行を改めさせようと諫死した。信長は事あるごと
に政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その一片を「政
秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという話がある。
斉藤道三と尾張の正徳寺(聖徳寺)で会見する。
今川義元の大軍を桶狭間にてわずか3千の軍勢で撃破する(桶狭間の合戦)
信長はまず三河に今川家から独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、全力で美濃攻略に向かう。
美濃斎藤氏を滅ぼして美濃へ本拠を移す。稲葉山城も改名して岐阜城となる。(天下布武を唱え、天下は
武力で収める)
比叡山延暦寺を焼き討ち。信長包囲網の仕掛け人、足利義昭が武田信玄らと手を組み信長の危機を迎える
武田信玄上洛の兵を発す。三方が原の戦いで、武田軍が織田・徳川軍に勝利する。
そのあと信長は朝倉・浅井氏らを立て続けに滅ぼし勢力を拡大。天正元年には室町幕府十五代将軍足利義
昭を京都から追放、室町幕府は滅亡した。(姉川の合戦)
浅井長政・久政親子と朝倉義景のドクロに金箔を塗って作った盃の話があります。
本願寺との戦いを制し武田氏を滅ぼす。(長篠の合戦)武田騎馬に対し鉄砲で攻撃。
木津川海戦では、九鬼嘉隆が「大安宅船(おおあたけぶね)」と呼ばれる巨大鉄甲船を操り、毛利水軍を木
っ端微塵に粉砕する。信長の海戦に対する発想の非凡さをまざまざと見せつけた戦いであった。
天正伊賀の乱では伊賀国の全人口の半分以上を殺す。以来伊賀人は、織田家には深い恨みを持ち続けたと
言われる。
天正十年六月、明智光秀の謀反。燃え上がる本能寺にて自刃した。享年49歳。嫡子信忠も二条御所で自害
する 。
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私の短大、一向宗の流れを汲む学校で、お寺の子が多かったのですが、アンチ信長が多くて困りました。私は大好きなのに〜。それと、本能寺の人は秀吉が未だに嫌いみたい。職員さんが秀吉の文句ばっかり言ってましたヨ。
2006/8/15(火) 午後 11:54
一向宗の流れを汲む学校ですか・・・信長は今の時代になっても嫌われているんですね。職員さんが秀吉の文句をですか・・・なぜだろう??そこまでこだわるのか理解できない・・・ですね。
2006/8/16(水) 午前 0:15
本能寺を今の場所に移したのが秀吉だから、です^^。京都の人って根に持つから怖いです〜。10年ほど前は、京都市から地下鉄工事の為に比叡山の麓に移転を迫られていて、理不尽だってぼやいてましたよ〜。
2006/8/16(水) 午後 3:39
そういうことだったんですね〜だいぷうさんありがとう。京都の人って根に持つから怖いですか〜笑。おっとりしているイメージがあるけど・・・
2006/8/19(土) 午前 2:10
信長の妹:「お市の方」も数奇な運命をたどり、お市の方のご子息、ご息女も、歴史の流れに翻弄されましたよね。秀吉の側室、淀君はお市の方のご息女ですし、徳川秀忠の御台所:「お江与の方」もそうですよね。彼女は春日の局に毒殺された説もありますよね。徳川の時代になっても、信長と光秀の縁故者の、影の戦いがあったと聞いています。
2006/9/1(金) 午後 11:27