戦国時代☆武将列伝

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上杉謙信

上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530〜1578 

越後の龍と呼ばれた越後春日山城主。長尾為景の末子で幼名虎千代、林泉寺に預けられ修行に励んだ。

母は一族の栖吉城(長岡)主、長尾顕吉の娘、虎御前といわれている。

元服後に長尾弾正少弼景虎を名のり、国内の統制力に欠けていた兄晴景を隠居させ越後守護代となる。

天文19年(1550)越後上杉家は断絶するが、将軍足利義輝から「白傘袋と毛氈の鞍覆」の着用を許されて

謙信は実質上の国主となった。

関東管領・上杉憲政が北条氏康に追われて頼ってくるとこれを厚く庇護、関東へ何度も出陣する。

上杉憲政から頼られて関東管領職を譲られた際に上杉政虎、のち上洛して将軍義輝の偏諱を受け輝虎と

名乗る。27歳にして高野山引退を言い出し家臣を大慌てさせ、結果として家臣団は結束、うまく収まっ

ていく。

天文二十二年(1553)信濃川中島で武田信玄と戦う、 信玄とは、五度にわたり川中島で対峙することと

なる。 川中島合戦をはじめ、長きにわたった武田信玄との戦いは有名。1561年の第四回では信玄と謙信

の一騎打ちの逸話が残るほどの激戦となった(もちろん、今では一騎打ちがなかったという説があり

ます。「上杉年譜」には荒川伊豆守が信玄と三太刀まで討てども徹らず、とあります。)

謙信は度々上洛し、将軍に謁見した。松永・三好も謙信が京にいる間だけはおとなしくしているほどで

あり、足利義輝も頼りにしていた。朝廷と幕府を重んじ、関東管領の名に従い関東出兵した。これが謙

信が天下を取れなかった原因とよく言われています。

信玄が死去したとき、これを聞いた謙信は、箸を落とし「惜しい男をなくした」と涙を流したという。

天正五年加賀の国手取り川で、柴田勝家を撃破、1000人あまりを討ち取る。

天正六年三月、日頃の大酒が災いしたか春日山城で急死した。四十九才の若さで没する(脳卒中)

突然の死は後継者争い・御館の乱を起こすことになる。

辞世の句は「四十九年一睡夢 一期栄華一杯酒 嗚呼柳禄花江」

生涯不犯を貫いた上杉謙信には子がなく、姉の子にして長男政景の子・上杉景勝と北条氏康の子・上杉景

虎という二人の養子がいた。天正6年に謙信が亡くなると、上杉景勝と三郎景虎が越後国内を二分して、

北条、武田をも巻き込む争いが2年にわたって続けられた。

実兄・北条氏政とその同盟者・武田勝頼が味方についた景虎サイドが有力であったが、景勝が春日山城

をいち早く押さえ、武田を味方に引き入れることに成功した景勝が上杉家の家督を継いだ。

三郎景虎のたてこもる御館(前関東管領上杉憲政の館)が景勝の総攻撃を受けて落城。

三郎景虎は新井市の鮫ヶ尾城で自刃。三郎宅址は春日山城三の丸にある。

三郎景虎とは相模小田原城主北条氏康の七男で前名は氏秀。はじめ武田信玄の人質となるが、甲相駿三

国同盟が破れて帰国後に今度は越相同盟締結により越後に送られ、上杉謙信の養子となり景虎を称す。

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織田信長

織田信長(おだ のぶなが)   1534〜1582 

信秀の子。幼名は吉法師。戦国の革命児。美濃のマムシと異名を取る斎藤道三の娘・帰蝶を妻にした。

信長は「うつけ者」の評判が高く、家臣や一族から離反するものも多かった。

教育係の平手政秀が自害する。政秀は若い時の信長の素行を改めさせようと諫死した。信長は事あるごと

に政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その一片を「政

秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという話がある。

斉藤道三と尾張の正徳寺(聖徳寺)で会見する。

今川義元の大軍を桶狭間にてわずか3千の軍勢で撃破する(桶狭間の合戦)

信長はまず三河に今川家から独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、全力で美濃攻略に向かう。

美濃斎藤氏を滅ぼして美濃へ本拠を移す。稲葉山城も改名して岐阜城となる。(天下布武を唱え、天下は

武力で収める)

比叡山延暦寺を焼き討ち。信長包囲網の仕掛け人、足利義昭が武田信玄らと手を組み信長の危機を迎える

武田信玄上洛の兵を発す。三方が原の戦いで、武田軍が織田・徳川軍に勝利する。

そのあと信長は朝倉・浅井氏らを立て続けに滅ぼし勢力を拡大。天正元年には室町幕府十五代将軍足利義

昭を京都から追放、室町幕府は滅亡した。(姉川の合戦)

浅井長政・久政親子と朝倉義景のドクロに金箔を塗って作った盃の話があります。

本願寺との戦いを制し武田氏を滅ぼす。(長篠の合戦)武田騎馬に対し鉄砲で攻撃。

木津川海戦では、九鬼嘉隆が「大安宅船(おおあたけぶね)」と呼ばれる巨大鉄甲船を操り、毛利水軍を木

っ端微塵に粉砕する。信長の海戦に対する発想の非凡さをまざまざと見せつけた戦いであった。

天正伊賀の乱では伊賀国の全人口の半分以上を殺す。以来伊賀人は、織田家には深い恨みを持ち続けたと

言われる。
 
天正十年六月、明智光秀の謀反。燃え上がる本能寺にて自刃した。享年49歳。嫡子信忠も二条御所で自害

する 。

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岐阜城

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写真は秀信最後の牙城となった岐阜城天守閣(本丸)です。

武田二十四将

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武田二十四将

戦国最強の軍団

戦国時代で日本一強いと言われた武田騎馬軍団。武田信玄が育てた武将たち・・・

板垣信方

武田家親族の譜代重臣で駿河守。飯富虎昌と協力して信虎を追放し晴信を国主に据えた。武田家の軍政両面の支柱であったが、天文十七年信濃上田原の合戦において村上義清軍と激突、奮戦したが壮絶な戦死する。

甘利虎泰

備前守。武田信虎・信玄の重臣で譜代家老衆を務める。合戦巧者の猛将として知られ、板垣信方らとともにその戦いぶりは敵味方を震えあがらせたという。上田原の合戦で村上義清に敗れ、奮戦虚しく板垣信方らとともに討死した。

飯富虎昌

名将山県昌景の実兄。武田信虎・信玄二代に仕えた武田家筆頭家老の宿老で、信濃佐久郡内山城代を務める。信玄の嫡子義信の傅役を命じられるが、後に謀反事件に加担した罪で連座責任を取らされ切腹した。

武田信繁

武田信虎の二男で信玄の弟。典厩とも呼ばれていた。父信虎は信繁を跡取りにしようと考えていたほど軍政両面に秀でていたと伝えられる。信玄はじめ家臣の信望も厚く、信玄の補佐役に徹した名将であったが、永禄四年の川中島の合戦にて奮戦虚しく戦死した。

山本晴幸

「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。

真田幸隆

信玄に仕えてからは山本勘助とともに村上義清や長尾景虎らとの幾多の合戦で戦功を挙げて信玄を助けたと伝えられ、陰の軍師ともいわれた。

原虎胤

武田信虎・信玄二代に仕えた重臣。胤信の子で美濃守を称す。永正十年以来信虎に仕えるが、天文二十二年、宗旨問題から一時武田家を出奔し、北条氏康の庇護を受けるが程なく帰参した。

原昌胤

昌胤家督相続のとき、信玄は「そなたの父昌俊は信虎公の時代から私の代までたびたびの忠節のある家老であった。その父の名を汚す事無く忠節に励め」と言った話が伝えられる。

高坂昌信

通称弾正。武田信玄の奥近習上がりの重臣で、信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍した。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。

内藤昌豊

武田信玄・勝頼に仕えた重臣で上州箕輪城代。通称修理亮、元の名は工藤源左衛門。北条家との三増峠の合戦では小荷駄奉行を務めた。長篠合戦の際には勝頼を諫めるが叶わず、自殺的に敵に突っ込み戦死と伝える。

馬場信春

武田家の譜代家老衆。馬場伊豆守の名跡を継いで馬場民部信房と称した。軍政ともに優れた智将で信玄の片腕となって活躍。しかし長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、殿軍を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死した。

山県昌景

武田家重臣。信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、鉄砲隊に突撃を繰り返し、壮絶な戦死を遂げた。 

武田信廉

武田信玄の弟で信虎の四男。信玄没後に出家し逍遙軒信綱と改名。元亀二年勝頼に代わり信濃高遠城主を務め、のち伊那郡大島城主となる。天正十年織田勢の侵攻の前に無抵抗で信忠に捕らえられ、甲府相川で処刑された。絵画に才能があり、父(信虎)・母(大井夫人)の画像など多数の秀作を残した。

一条信竜

信虎の八男。信玄の異母弟にあたる。甲斐の名門一条氏の跡を継ぎ、親族衆として活躍。武田家滅亡時には勝頼が小山田信茂を頼って新府城から脱出した後の城を守り、攻め上った徳川家康軍と激戦の末捕らわれて斬首された。 

穴山信君

梅雪斎不白と号す。母が武田信玄の異母姉で、信玄の甥にあたる駿河江尻城主。信玄の没後は勝頼を見限り家康に降伏、信長から甲斐河内の本領のみ安堵された。本能寺の変時に家康とともに堺にいたが、知らせを聞き国元へ戻る際に家康と同行せず単独帰国しようとしたため、帰路の途中山城木津川の渡し付近で一揆に襲われて落命した。

秋山信友

武田氏譜代の重臣。信玄西上時に一旦織田領の美濃岩村城を落とし、信長の叔母を妻として同城主となる。しかし天正三年の長篠合戦での勝頼敗北後、ほどなく織田勢に包囲され十二月に落城。妻と共に長良川畔で逆さ磔の刑に処されたと伝えられる。 

小幡虎盛

甲斐武田氏の重臣で山城守。遠江国勝間田出身で父上総入道日浄とともに武田信虎に仕える。父の戦死により十四歳で家を継ぎ、信玄にも重用され海津城代高坂昌信の副将を務めた。

小幡昌盛

通称は孫次郎・又兵衛。豊後守。父が病没すると遺領を継ぐと共に、信濃国海津城副将を弟(叔父とも)の小幡光盛と交代して信玄の旗本組に加わり、騎馬3騎、足軽10人持の足軽大将となった。

土屋昌次

金丸筑前守虎義の二男。信玄の奥近習の1人。信玄病死。殉死を願い出たが高坂弾正忠昌信に「今死ぬのは簡単だが、生きて信玄公の遺志を守り御曹司の為に働くのが武士のつとめ」と止められる。

横田高松

近江国甲賀郡横田郷出身で、佐々木源氏の一流であり元は六角氏の家臣であったとされる。武田氏への仕官は武田信虎の時代とされるが、いかなる所以があり武田氏へ出仕したのかは不明である。その信虎が嫡子・晴信(後の信玄)により駿河国へ追放されると、それ以後は晴信の忠実な家臣となった。

三枝守友

守友は初名を宗四郎といい信玄の奥近習六人の一人として奉仕した。弘治元年(1555)、信州木曾の福島城攻撃に参加して使い番として活躍、同三年の川中島の合戦にも参加している。このころ、守友は昌貞を名乗っていたが、永禄七年(1564)三月、五十六騎を与えられ足軽大将となり名を勘解由守友に改めた。

真田信綱

幸隆の長男で昌幸の長兄。通称源太左衛門、勇将で信濃上田城主。上杉謙信との川中島合戦や北条氏政との伊豆韮山合戦、徳川家康との三方ヶ原合戦を始め、数々の戦いで武功を顕わす。天正二年に父幸隆が没して家督を嗣いだが、翌年長篠合戦において弟の昌輝とともに討死した。 

小山田信茂

甲斐都留郡の土豪で武田氏の重臣、越前守を称す。武田家滅亡時には勝頼を裏切り居城の郡内岩殿山城に誘い孤立させ、勝頼を自刃に追い込んだ。後に織田信忠に謁するも裏切り行為を非難され、堀尾吉晴の手により斬首された。 

一般的に「武田二十四将」は甲斐の名将武田信玄の率いる"武田軍団"の中核として活躍した猛将・剛将たちの呼称として有名ですが、その顔ぶれは信玄時代の武将群に限定されず、父・信虎、子・勝頼時代に活躍した武将にまで及んでいます。「武田二十四将図」という掛け軸も多種描かれていますが、そこに描かれている武将も実に様々で固定の24名ではありません。
「武田二十四将って誰?」と聞かれたら、少なくとも30名はいます。
この他に武田勝頼、多田満頼、曽根昌清、栗原信盛、小原広勝、甘利昌忠、真田幸連、武藤昌幸。

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織田信長と明智光秀

俺が好きな歴史は戦国時代

日本の歴史が一番好きだけど中国の歴史も好き

このコーナーは俺が知っている人物の出来事を書いていくよ

いろんな武将がいるけど俺が好きな武将は伊達政宗、武田信玄、真田幸村。。。他

まずはみんなが知っている「織田信長」から話していこうかな

信長といえば本能寺の変が有名ですよね

この信長はたして本能寺でほんとに死んだのだろうか?

いろんな本を読むと謎があります

家来の明智光秀が謀反を起こし、本能寺を取り囲み 攻めていますが

信長の死体は見つかっていないという・・・

たぶん信長は火に包まれ、跡形も残らず焼けたのでしょう・・・

明智光秀についても謎がある

羽柴秀吉のちの豊臣と山崎の合戦で戦い明智は敗れ

小栗栖で農民に討たれたとありますが、光秀はかなりの武芸者

農民に簡単に討たれるかな・・・

光秀生存説もあります

違う人物になって徳川家康に仕えていたという説があります

僧の天海・・・

徳川幕府の時代に「大奥」春日の局(明智一族)は初めて天海に会った時

前から知り合いだったかのように挨拶をしたというエピソードがあります

いろんな説があるけど俺なりに語っていきます

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