戦国時代☆武将列伝

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武田二十四将

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武田二十四将

戦国最強の軍団

戦国時代で日本一強いと言われた武田騎馬軍団。武田信玄が育てた武将たち・・・

板垣信方

武田家親族の譜代重臣で駿河守。飯富虎昌と協力して信虎を追放し晴信を国主に据えた。武田家の軍政両面の支柱であったが、天文十七年信濃上田原の合戦において村上義清軍と激突、奮戦したが壮絶な戦死する。

甘利虎泰

備前守。武田信虎・信玄の重臣で譜代家老衆を務める。合戦巧者の猛将として知られ、板垣信方らとともにその戦いぶりは敵味方を震えあがらせたという。上田原の合戦で村上義清に敗れ、奮戦虚しく板垣信方らとともに討死した。

飯富虎昌

名将山県昌景の実兄。武田信虎・信玄二代に仕えた武田家筆頭家老の宿老で、信濃佐久郡内山城代を務める。信玄の嫡子義信の傅役を命じられるが、後に謀反事件に加担した罪で連座責任を取らされ切腹した。

武田信繁

武田信虎の二男で信玄の弟。典厩とも呼ばれていた。父信虎は信繁を跡取りにしようと考えていたほど軍政両面に秀でていたと伝えられる。信玄はじめ家臣の信望も厚く、信玄の補佐役に徹した名将であったが、永禄四年の川中島の合戦にて奮戦虚しく戦死した。

山本晴幸

「甲陽軍鑑」では武田家の軍師・参謀的存在とされ、また築城術にも優れ小諸城などの縄張り(設計)を行ったという。永禄四年の第四次川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、責任を感じて敵軍中に突入し戦死したと伝えられる。

真田幸隆

信玄に仕えてからは山本勘助とともに村上義清や長尾景虎らとの幾多の合戦で戦功を挙げて信玄を助けたと伝えられ、陰の軍師ともいわれた。

原虎胤

武田信虎・信玄二代に仕えた重臣。胤信の子で美濃守を称す。永正十年以来信虎に仕えるが、天文二十二年、宗旨問題から一時武田家を出奔し、北条氏康の庇護を受けるが程なく帰参した。

原昌胤

昌胤家督相続のとき、信玄は「そなたの父昌俊は信虎公の時代から私の代までたびたびの忠節のある家老であった。その父の名を汚す事無く忠節に励め」と言った話が伝えられる。

高坂昌信

通称弾正。武田信玄の奥近習上がりの重臣で、信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍した。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。

内藤昌豊

武田信玄・勝頼に仕えた重臣で上州箕輪城代。通称修理亮、元の名は工藤源左衛門。北条家との三増峠の合戦では小荷駄奉行を務めた。長篠合戦の際には勝頼を諫めるが叶わず、自殺的に敵に突っ込み戦死と伝える。

馬場信春

武田家の譜代家老衆。馬場伊豆守の名跡を継いで馬場民部信房と称した。軍政ともに優れた智将で信玄の片腕となって活躍。しかし長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、殿軍を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死した。

山県昌景

武田家重臣。信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、鉄砲隊に突撃を繰り返し、壮絶な戦死を遂げた。 

武田信廉

武田信玄の弟で信虎の四男。信玄没後に出家し逍遙軒信綱と改名。元亀二年勝頼に代わり信濃高遠城主を務め、のち伊那郡大島城主となる。天正十年織田勢の侵攻の前に無抵抗で信忠に捕らえられ、甲府相川で処刑された。絵画に才能があり、父(信虎)・母(大井夫人)の画像など多数の秀作を残した。

一条信竜

信虎の八男。信玄の異母弟にあたる。甲斐の名門一条氏の跡を継ぎ、親族衆として活躍。武田家滅亡時には勝頼が小山田信茂を頼って新府城から脱出した後の城を守り、攻め上った徳川家康軍と激戦の末捕らわれて斬首された。 

穴山信君

梅雪斎不白と号す。母が武田信玄の異母姉で、信玄の甥にあたる駿河江尻城主。信玄の没後は勝頼を見限り家康に降伏、信長から甲斐河内の本領のみ安堵された。本能寺の変時に家康とともに堺にいたが、知らせを聞き国元へ戻る際に家康と同行せず単独帰国しようとしたため、帰路の途中山城木津川の渡し付近で一揆に襲われて落命した。

秋山信友

武田氏譜代の重臣。信玄西上時に一旦織田領の美濃岩村城を落とし、信長の叔母を妻として同城主となる。しかし天正三年の長篠合戦での勝頼敗北後、ほどなく織田勢に包囲され十二月に落城。妻と共に長良川畔で逆さ磔の刑に処されたと伝えられる。 

小幡虎盛

甲斐武田氏の重臣で山城守。遠江国勝間田出身で父上総入道日浄とともに武田信虎に仕える。父の戦死により十四歳で家を継ぎ、信玄にも重用され海津城代高坂昌信の副将を務めた。

小幡昌盛

通称は孫次郎・又兵衛。豊後守。父が病没すると遺領を継ぐと共に、信濃国海津城副将を弟(叔父とも)の小幡光盛と交代して信玄の旗本組に加わり、騎馬3騎、足軽10人持の足軽大将となった。

土屋昌次

金丸筑前守虎義の二男。信玄の奥近習の1人。信玄病死。殉死を願い出たが高坂弾正忠昌信に「今死ぬのは簡単だが、生きて信玄公の遺志を守り御曹司の為に働くのが武士のつとめ」と止められる。

横田高松

近江国甲賀郡横田郷出身で、佐々木源氏の一流であり元は六角氏の家臣であったとされる。武田氏への仕官は武田信虎の時代とされるが、いかなる所以があり武田氏へ出仕したのかは不明である。その信虎が嫡子・晴信(後の信玄)により駿河国へ追放されると、それ以後は晴信の忠実な家臣となった。

三枝守友

守友は初名を宗四郎といい信玄の奥近習六人の一人として奉仕した。弘治元年(1555)、信州木曾の福島城攻撃に参加して使い番として活躍、同三年の川中島の合戦にも参加している。このころ、守友は昌貞を名乗っていたが、永禄七年(1564)三月、五十六騎を与えられ足軽大将となり名を勘解由守友に改めた。

真田信綱

幸隆の長男で昌幸の長兄。通称源太左衛門、勇将で信濃上田城主。上杉謙信との川中島合戦や北条氏政との伊豆韮山合戦、徳川家康との三方ヶ原合戦を始め、数々の戦いで武功を顕わす。天正二年に父幸隆が没して家督を嗣いだが、翌年長篠合戦において弟の昌輝とともに討死した。 

小山田信茂

甲斐都留郡の土豪で武田氏の重臣、越前守を称す。武田家滅亡時には勝頼を裏切り居城の郡内岩殿山城に誘い孤立させ、勝頼を自刃に追い込んだ。後に織田信忠に謁するも裏切り行為を非難され、堀尾吉晴の手により斬首された。 

一般的に「武田二十四将」は甲斐の名将武田信玄の率いる"武田軍団"の中核として活躍した猛将・剛将たちの呼称として有名ですが、その顔ぶれは信玄時代の武将群に限定されず、父・信虎、子・勝頼時代に活躍した武将にまで及んでいます。「武田二十四将図」という掛け軸も多種描かれていますが、そこに描かれている武将も実に様々で固定の24名ではありません。
「武田二十四将って誰?」と聞かれたら、少なくとも30名はいます。
この他に武田勝頼、多田満頼、曽根昌清、栗原信盛、小原広勝、甘利昌忠、真田幸連、武藤昌幸。

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織田信長と明智光秀

俺が好きな歴史は戦国時代

日本の歴史が一番好きだけど中国の歴史も好き

このコーナーは俺が知っている人物の出来事を書いていくよ

いろんな武将がいるけど俺が好きな武将は伊達政宗、武田信玄、真田幸村。。。他

まずはみんなが知っている「織田信長」から話していこうかな

信長といえば本能寺の変が有名ですよね

この信長はたして本能寺でほんとに死んだのだろうか?

いろんな本を読むと謎があります

家来の明智光秀が謀反を起こし、本能寺を取り囲み 攻めていますが

信長の死体は見つかっていないという・・・

たぶん信長は火に包まれ、跡形も残らず焼けたのでしょう・・・

明智光秀についても謎がある

羽柴秀吉のちの豊臣と山崎の合戦で戦い明智は敗れ

小栗栖で農民に討たれたとありますが、光秀はかなりの武芸者

農民に簡単に討たれるかな・・・

光秀生存説もあります

違う人物になって徳川家康に仕えていたという説があります

僧の天海・・・

徳川幕府の時代に「大奥」春日の局(明智一族)は初めて天海に会った時

前から知り合いだったかのように挨拶をしたというエピソードがあります

いろんな説があるけど俺なりに語っていきます

国名と現在の都道府県

戦国時代の国名と現在(早見表)

国名       現在
   
蝦夷 北海道

陸奥 青森、岩手、宮城、福島

出羽 秋田、山形

常陸 茨城

上野 群馬

下野 栃木

下総 千葉

上総 千葉

|安房 千葉

武蔵 埼玉、東京、神奈川

相模 静岡

伊豆 静岡

甲斐 山梨

信濃 長野

飛騨 岐阜

駿河 静岡

遠江 静岡

三河 愛知

尾張 愛知

美濃 岐阜

伊勢 三重

志摩 三重

越後 新潟

佐渡 新潟

越中 富山

能登 石川

加賀 石川

越前 福井

若狭 福井

近江 滋賀

伊賀 三重

山城 京都

大和 奈良

摂津 大阪、兵庫

河内 大阪

和泉 大阪

紀伊 和歌山

丹波 京都、兵庫

丹後 京都

但馬 兵庫

播磨 兵庫

美作 岡山

備前 岡山

備中 岡山

備後 広島

安芸 広島

因幡 鳥取

伯耆 鳥取

出雲 島根

石見 島根

周防 山口

長門 山口

隠岐 島根

淡路 兵庫

讃岐 香川

阿波 徳島

伊予 愛媛

土佐 高知

豊前 福岡、大分

豊後 大分

筑前 福岡

筑後 福岡

肥前 佐賀、長崎

壱岐 長崎

対馬 長崎

肥後 熊本

日向 宮崎

大隅 鹿児島

薩摩 鹿児島

戦国時代の西暦

室町時代(戦国時代)

  西暦    歴史上の出来事

1338年   足利尊氏 征夷大将軍となり室町幕府を開く
  
  51年   足利尊氏 高師直兄弟を殺す
  
  97年   足利義満 金閣寺を建立

前の鎌倉時代は源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く

1467年   応仁の乱

  91年   北条早雲 伊豆を占領

応仁の大乱 弱肉強食の戦国時代の到来。15世紀最大の大凶作。畿内諸国から全国各地におよぶ

洛中洛外には餓民があふれ餓死者がどこでも見られたそうです。

野武士の横行、農民の一揆と日本は荒れるがまま荒れたそうです。

1534年   織田信長生まれる

  35年   豊臣秀吉生まれる

  42年   徳川家康生まれる

  43年   種子島に鉄砲伝来

  53年   斉藤道三 織田信長と聖伝寺で会見

  55年   武田信玄と上杉謙信 川中島で戦う

甲斐の虎と越後の龍の対決は5回に及びました。結果は引き分けに終わります

  60年   織田信長の台頭 (桶狭間の戦いで今川義元を討つ)

  67年   織田信長 足利義昭を奉じて入京 (足利義昭征夷大将軍となる)

        伊達正宗生まれる

  71年   毛利元就 病死

毛利元就といえば3本矢の教えが有名な話ですね。三人の息子に、1本の矢は造作もなく折れるが

3本束ねれば折れない。これは兄弟が和と結束の肝要さを説いた話です。

  73年   武田信玄 陣中で死亡

        信長 足利義昭を攻め、追放する (室町幕府滅ぶ)

        信長 越前にて朝倉義景を攻め一乗谷で自刃

        また、近江に浅井久政、長政を攻め自害させる

信長は義景、久政、長政のどくろで祝杯した話が有名ですね

  75年   信長・家康 長篠の合戦で武田勝頼を撃破する

信長は武田の騎馬隊に対して鉄砲隊を引連れ武田を撃破します

  76年   信長 安土城を築き、ここに移る

  82年   武田勝頼 信長・家康に攻められ自害する

        羽柴秀吉 毛利輝元を攻める

        明智光秀 本能寺に織田信長を討つ

明智光秀は羽柴の援軍を命じられ、その軍を本能寺と向います。

        羽柴秀吉 明智光秀を攻め、光秀は小栗栖にて土民に討たれる

  83年   羽柴秀吉 柴田勝家を攻め自害させる

  85年   羽柴秀吉 関白となる (豊臣秀吉となる)

  87年   秀吉 キリスト教宣教師を追放

  90年   徳川家康 江戸城に入る

  91年   秀吉の命令により千利休切腹する

  92年   秀吉 朝鮮に出兵

  97年   秀吉 朝鮮に再出兵

  98年   豊臣秀吉 死す

秀吉辞世の句  露と落ち露と消えぬる我が身かな 浪花のことは夢の又夢

1600年   関が原の戦い

   3年   徳川家康 征夷大将軍となり江戸幕府を開く (江戸時代)

  14年   大阪冬の陣

  15年   大阪夏の陣 豊臣秀頼、淀君自害する (豊臣家滅ぶ)

  16年   徳川家康 死す

  36年   伊達政宗 死す

  37年   島原の乱起きる

  51年   由比正雪の乱

  87年   徳川綱吉 生類憐れみの令

1702年   赤穂浪士 吉良邸討ち入り (忠臣蔵)

  16年   7代将軍 吉宗の改革始まる
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