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蓮生寺さん (番外編)

 
蓮生寺(れんしょうじ)さんのことは終わっていたつもりでしたが、おもしろい記事に出会って、続きを書くことになりました。
 
イメージ 1
 
それは京都府乙訓郡(おとくにぐん、おとくにのこおり)のことを調べておられる、『乙訓の歴史』 というサイト。
 
乙訓郡は今は大山崎町だけになったものの、かつては長岡京市向日市の全域、京都市西京区から南区、伏見区の一部まで属していたという、広大かつ重要な地域です。
 
 
そこに蓮生寺さんの由緒に関係するかもしれない情報が載せられていました。
 
以下、太字部分が同サイトの記事です。
粟生光明寺のことから始まります:
 
粟生光明寺 は京都府長岡京市粟生西条内26-1にある 西山浄土宗の総本山である。
寺伝によれば1198年「源平合戦」で有名な 熊谷直実 により建立された寺とされている。「おとくに」地方の名刹である。
筆者は、その関係人物に興味を覚え、調査した結果の一部を下記にしるす。
 
とあります。
問題となるのは、直実とは別の 蓮生 が実在したということ。
 
熊谷直実は熊谷着後、下野国領主 宇都宮頼綱 へ浄土を勧め、後に「実信房 蓮生」と名乗らせた。
 
そんな人物がいたとは知りませんでした。
直実は「法力坊 蓮生」。同じ僧名を名乗らせたとすれば、よほど仲が良かったか、なにか深い事情があったのでしょう。
 
 
宇都宮頼綱 (1172-1259)
・正室は北条時政八女であり、他に側室として、稲毛重成女、梶原景時女あり。
・北条義時から謀反の嫌疑を受けて1205年頃出家。証空 に師事。
・歌人でもあり 藤原定家 との交流もあった。頼綱 娘は定家の子 為家の嫁である。
・財政的にも恵まれていたため、「証空」らのパトロン的存在 であった。
・法名が熊谷直実と同じ「蓮生」である。
 
おっと、藤原定家が登場してきました。
土御門帝の父、後鳥羽院に引き立てられて「新古今和歌集」の編纂に関わるなど、ゆかりの深い人物です。
定家は老後、嵯峨嵐山に暮らしたことで、嵯峨原の女御との関連も気になるところです。
 
ご存じ『百人一首』の選者。この不思議な歌集は、このブログでご紹介を予定しているテーマのひとつです。
乞うご期待。
 
 
さて、この頼綱が師事したという 証空 がまたすごい人物なのです。
まずは Wikipedia から一部抜粋して:
 
証空(しょうくう;證空)
治承元(1177)年 - 宝治元(1247)年。
西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の祖
法然の高弟 であり、はじめ解脱房、のちに善恵(善慧)房と号した。

加賀権守源親季の長男として生まれ、9歳の春、村上源氏・嫡流の 内大臣・源 通親(みちちか)の養子 となる。
建久元年(1190年)14歳、元服にあたり発心して出家、法然の弟子となった。
以後浄土教の奥義を学ぶ。以来法然臨終までの21年間、その許で修学することとなる。

一度見聞すればすべてを理解したという秀才ぶりで、建久9(1198)年、法然の『選択本願念仏集』の撰述に際して引用文との照らし合わせという勘文の重要な役にあたったとの記述もある。
元久元(1204)年、法然が天台座主に対して『七箇条起請文』をあらわした時、その 第四番目に署名 していることが証空の地位を物語っている。
嘉禄3(1227)年の嘉禄の法難に際して法然高弟の信空とともに 流罪を免がれている
後嵯峨天皇 の勅により歓喜心院を創建し、たびたび宮中に参内 して西山義(小坂義)を講じ菩薩戒を授けた。
宝治元年11月、『阿弥陀経』を読誦し、念仏合掌して白河遣迎院において71歳で死去した。
門弟は遺身を西山三鈷寺に葬り、塔をたてて華台廟と称した。
寛政8(1796)年には鑑知国師の諡号が光格天皇より贈られた。
 
本人の才能も加え、かなりの特別待遇を与えられていることが分かります。
それもそのはず、『乙訓の歴史』 に書かれている内容に驚かされます:

証空上人系図
①証空は、村上天皇に始まる村上源氏の本流,内大臣・源 雅通の息子「土御門通親」(=源 通親/久我通親)の 養子である。
通親は、後鳥羽天皇の乳母であった藤原範子を側室として迎え、その連れ娘である「在子(ざいし)」を後鳥羽天皇の妃とし、土御門天皇の外戚 となった。
後鳥羽院の内大臣となり、関白九条兼実との権力争いに勝ち、朝廷内の実力ナンバーワンになり、息子「通光」は、後嵯峨院の太政大臣になった。源頼朝も通親と手を組まざるをえなくなったと言われている。
②実の父は 源 親季 である。親季も村上源氏であり、加賀権守であった。
通親の実子 曹洞宗の祖・道元 とは義理の兄弟。
④後鳥羽天皇の妃、土御門天皇の母 在子 も通親の養女である。よって証空とは義理義理の姉弟である。また土御門天皇の子供である 後嵯峨天皇 とも非常に近い関係である。
土御門家は久我家 であり、乙訓郡久我郷が本拠地 である。

以上より、証空ー道元(誕生寺:久我)ー在子(金原寺ー土御門御陵)総て乙訓の地が関係している。お互いに年齢も近く深く関わったと筆者は睨んでいる。
 
証空の門弟は非常に多く、とくに浄音、立信、証入、証慧の四人は、それぞれ流派を開いたため西山四流といわれる。このほか、蓮生(宇都宮実信房)は 常随40年 といわれ、師の講説の聞書(『積学房鈔』2巻)を残している。
 
いやいや、畏れ入りました。
 
証空は、源平がしのぎを削っていた時期に朝廷内で抜群の政治力を奮った 土御門通親 と呼ばれる 源 通親 の養子。
その通親は後鳥羽帝の乳母を側室にし、養女にしたその連れ子・在子を後鳥羽帝の妃しています。
その子こそが 土御門帝
ちなみに在子の実父は平 清盛の妻・時子の異父弟で、平家一門とともに都落ちして捕虜となったあと流罪先で亡くなった、僧・能円(のうえん)。
 
また、通親の子が道元禅師なので、義兄弟になるとは!
 
なお、通親の土御門家と陰陽師の家系としての土御門(安倍)家とは直接の血縁はないようです(要検証)。
 
 
そして“もう一人の蓮生”、宇都宮頼綱について さらに Wikipedia から抜粋してみましょう:
 
宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
藤原姓宇都宮氏第5代当主。宇都宮成綱の子。鎌倉幕府の御家人。歌人としても知られる。

治承2(1178)年頃に宇都宮成綱と 平 長盛 の娘の間に生まれる。
その後、源 頼朝の乳母 であった寒河尼の元へ預けられ、その夫・小山政光の猶子となった。
文治5(1189)年の奥州合戦で功績を立てる。
 
建久5(1194)年、祖父朝綱が下野国司より公田掠領を訴えられ、朝廷によって豊後国国府預かりの身と裁定されてしまう。これは征夷大将軍でもなかった源頼朝が朝廷の決裁を仰がず頼朝が単独で部下の所領配分を行っために起きた騒動でる。
鎌倉の勢力と行動を共にしていた頼綱ら関東の武人達は、名目上は朝廷に仕えながら実際には頼朝に従っており、一説によると頼綱らは頼朝の意向に従い配流地には赴かなかったと云われている。 
頼朝の働きかけにより頼綱は早々に赦免され、同じく赦免された祖父・朝綱は出家して下野国尾羽(現・栃木県芳賀郡益子町尾羽)にて隠居生活を送ることとなり、このとき頼綱が宇都宮家を継いだものと考えられる。
 
元久2(1205)年、畠山重忠の乱が起き、頼綱は北条氏側に与して功を挙げた。しかし同年、頼綱の姑にあたる牧の方と北条時政が将軍・源 実朝の殺害を謀った牧氏の変が発生し、頼綱自身に謀反の嫌疑をかけられる。
頼綱は鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述、その後下野国において出家する
実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し、京 嵯峨野の小倉山麓 の庵に隠遁したと云われる。
頼綱出家の後、弟の宇都宮朝業が鎌倉幕府に出仕することとなる。
 
頼綱はそ法然の弟子 証空 に師事する。
潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流「西方寺」、宇都宮「清巌寺」、桐生「西方寺」として受け継がれていると云われる。
承久3(1221)年 承久の乱で頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から伊予国の守護職を与えられた。 
正元元(1259)年11月12日、京にて88歳で死去。
その遺言により京 西山三鈷寺 の証空の墓の側に葬られたとされる。
この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。
 
頼綱は歌人としても優れており、同族である 藤原定家 と親交を深め、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。
百人一首 は別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。
 
下野宇都宮氏は下野国一之宮名神大社であった 宇都宮二荒山神社座主 および 日光山別当職 等を務め、紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、さらには日本国土の治安維持を司った名家。
国司や守護も歴任し、現在では戦国大名とも評されている。
 
 
もう一人の蓮生、宇都宮頼綱です。
 
イメージ 2
 
平家から源氏へと権力が移行する時代に生まれた苦労人。
でもちょっとひょうきんなムードを漂わせている肖像画です。
境内に華台廟(ここでは西山上人と呼ばれる証空と実信房蓮生を祀る)のある三鈷寺さんのサイトよりいただきました。
http://www.sankoji.com/relation.html
 
 
まとめれば、実信房蓮生こと土御門頼綱が師事した証空土御門帝の実母と “義理義理の姉弟”。
そして証空が土御門帝の子供である 後嵯峨天皇 とも非常に近かったということ。
 
で、次のような可能性があるかもしれません。
(あくまで推理であり仮説ですので、反証があればぜひお知らせください。)
 
土御門帝のご最期やその不本意な葬られ方(浦池の日吉山に埋葬されて石柱を立てられた状態)を知った“もう一人の蓮生”頼綱が、帝の菩提を弔うために寺を、その豊かな財力で建立を指示(出家の際、家臣団もそろって出家したのでマンパワーにも事欠かなかったはず。守護を務めた伊予国に家臣がいたかもしれない)。
それは師の証空を通じた、後嵯峨天皇のご意向だったかもしれない。
 
しかし頼綱自身は(土御門帝を暗殺した?)鎌倉幕府にごく近い(初代執権・北条時政の娘が正室)立場であったため、同じ法名を名乗るほど近しかった(あるいはカモフラージュのために同じ法名にした)熊谷直実建立の蓮生寺、ということにした。
カモフラージュの一環として、歴代住職が 直 の一字を名乗ることとなったのかもしれない。
 
これなら熊谷直実の足跡がなくとも、おかしくはありませんよね。
また三鈷寺近くの粟生(長岡京市)に改めて土御門帝が祀られる「金原陵」があることも説明がつきます。
まさしく『乙訓の歴史』の管理人さんが睨まれた通り!
この辺りの消息を、いつかまた蓮生寺の熊谷住職にうかがいに行こうと思います。
 
法力坊蓮生の(36歳も年下ながら)兄弟子にして実信坊蓮生の師、西山上人こと証空座像(三鈷寺・蔵)。
なにを尋ねても、黙して語られない風情ですね。
 
イメージ 3
 
 
 

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また適当なことばっかし言っていると、安来の語部さんに何か言われますよ。 削除

2013/3/3(日) 午後 7:24 [ カーボンオフセット ] 返信する

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カーボンオフセットさん、
そうですね。細々した話題を並べていないで、さっさと全体像を描き出さないとご理解いただけないですよね…。
でも、細部(というより、ひとり一人の姿がすこーしずつ浮かび上がってくる感じ)が面白いんです、また。
書きたくてウズウズしている藤原定家までなかなか進みません。
何卒ご寛恕のほどを。

2013/3/4(月) 午前 2:32 [ 在神居士 ] 返信する

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