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各地に残るタイムカプセルの “行き当たりバッチリ” 訪問記

安徳天皇伝説

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那須与一の伝承 (2)

 
後藤田みどりさんが京都にある那須与一の墓のことを書いておられました。
即成院さんという、泉湧寺 (せんにゅうじ)さんの塔頭寺院のひとつにあるそうです。
うかつにも存じませんでしたが:
 
即成院 (そくじょういん)
京都市東山区にある真言宗の寺院。
真言宗泉涌寺派総本山・泉湧寺の山内にある塔頭である。
山号は光明山。
毎年10月に行われる「二十五菩薩練供養」の行事で知られ、山内には 那須与一の墓 がある。
通称は“那須の与一さん”。
―中略―  即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、『続群書類従』所収の「即成院縁起」では、与一が光明院(即成院の別名)に参詣し、武運を祈願したことになっている。
また、即成院の本堂裏には 与一の墓 とされる石塔がある。
那須与一は半ば伝説上の人物であるが、「即成院縁起」には、
宣陽門院(せんようもんいん) が所領の 下野国那須庄を即成院に寄進 したことが記され、ここから同院と与一の結びつきが生じたと推定される。
少なくとも、鎌倉時代において 那須庄が宣陽門院領 であったことは史実である。

まさか京都に  “那須の与一さん” と呼ばれるお寺があったとは! 
 
那須庄を寄進した 宣陽門院 とは 後白河法皇が特にかわいがった第六皇女:・覲子(きんし)内親王で、その後見をするのが,法皇や 後鳥羽帝 の近臣で土御門帝の母・在子の養父、源 通親、またの名を 土御門通親
お〜っ!? なつながりですが、土御門帝のことは本稿の主題ではないので、ここまで。
 
 
後藤田さんは小説のなかで次のように紹介されています:
 
京都の東区にある泉湧寺は昔から皇族方の御陵のある格式高い寺である。その一角の即成院に那須与一の墓があり、みごとな五輪供養塔の上に大きなお堂が建てられていた。
歴史短編小説集 『輪廻』 「夢幻実相」p.59
 
泉湧寺は東福寺さんの東側、“今熊野”とよばれる地域で広大な敷地をもつお寺です。
(たぶん真言宗らしい“即身成仏”が由来の) 即成院さんは の位置:

イメージ 1
 
小説のなかで、後藤田さんは登場するご住職に次のように語らせています:
 
「私、昨日石井のお墓へお詣りさせて貰いました。お墓が奥方と並んでおりましたので、私は嬉しくて涙がこぼれました。私は今の今迄、出家なされた与一さんは諸国放浪の旅に出られて、何処でその生涯を終えられたやら、と胸痛む思いでございましたが、阿波の優しい女の方と夫婦(めおと)になられていたことが判り、今日ほど嬉しい日はございません。」
 
「実は即成院のお墓は偽物だと言われています。与一が直接帝から功労の賞をいただいたのが頼朝の勘気にふれ、その身に危険が及んだものと見えます。与一の乳母夫婦が、伏見で急死したと偽り、他人の骨を貰い受け、それを国元へ持ち帰り埋葬したと伝えられます。その証拠に、京都の墓は即成院を建立した橘 俊頼の戒名がそのまま使われているのです。おそらく周りの者が俊頼の墓を与一の墓とごまかし鎌倉方の目をあざむいたのではなかと思います…」
同書 p.65-67
 
たしか平氏追討の大将・義経も、朝廷からおだて上げられたことが頼朝の不信と生んだとされていますね。
 
与一も同じように見られたのでしょうか。それでは広大な所領をもらえたことと矛盾するような気がしますが。
 
改めて泉涌寺さんの公式サイトから、その由緒を拝見してみましょう。
 
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。
皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。
建保6(1218)年に、当寺が開山と仰ぐ 月輪大師 俊芿
(がちりんだいし しゅんじょう) 宇都宮信房 からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2(1226)年に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
―中略― 当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。
こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺
(みてら)」と呼ばれる所以である。
総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と 天智天皇光仁天皇 そして 桓武天皇以降 の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。
―後略―
 
土御門帝の父で、鎌倉幕府に反乱を起こした後鳥羽院と弟・順徳院が受戒した寺で、北条政子も…。
相当の力をもったお寺だったのでしょう。
 
御位牌を祀るのは天智帝とその直系である光仁天皇から桓武帝以降と、天武系の(40-48代の)帝を外しておられるのですね。なにかありそうです。
 
ともあれ、朝廷 (しいて名を挙げれば 土御門通親) が与一になんらかの便宜を図ったのかもしれません。

さて宇都宮?
どこかで聞いたような・・・
 
宇都宮 信房 (うつのみや のぶふさ)
下野国にあった1180年、源 頼朝 の挙兵に参陣する。1183年、志田義広の謀反が起こった時は義広討伐で功を挙げた。これらの功績により1185年から1186年にかけて恩賞を与えられている。
1187年9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島の平氏残党討伐で功績を挙げた。
1192年には豊後・日向国内において所領を与えられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E4%BF%A1%E6%88%BF
 
思い出しました。
土御門帝ゆかりの蓮生寺さんの謎にからんで、私が“もう一人の蓮生” と呼んだのが、宇都宮 頼綱 でした。
 
彼の祖父である 宇都宮 朝綱(ともつな) が、この宇都宮 信房といとこ同士で、頼朝の挙兵にともに参加しています。
奥州藤原氏へとの戦いでは 「坂東一の弓取り」 と賞賛されている人物なのです。
 
朝綱の妹は頼朝の乳母で、源氏勝利の一因を作ったとされる 寒河尼。いっぽうで息子には平氏から嫁頼綱の母) を迎えるなど、源平の勢力争いに巻き込まれてとことん苦心した時代の武将です。
 
東西どちらにつくかという選択と同様の葛藤が、平 清盛 がめざしたという “武士の世” の始めから起こっていたのですね。
それでも、武士どころか、その主たる帝や貴族の中でも同族の争いが続いていて、どうに転ぶかわからない状況。ましてや東国の端っこで暮らす人たちに、主君に対する忠誠心が(徳川幕府が徹底的に儒教で叩きこむまでは)確立されていたはずありません。

 
 
ちなみに、那須与一が生まれたという栃木県那珂川町 「那珂」とは、徳島の長ノ国、のちの那賀郡に通じています。
 
常陸(ひたち)河川国道事務所のサイトによれば:
那珂川の名の由来はよく分かっていませんが、『常陸国風土記』に「郡より東北、粟河 を挟みて駅家を置けり」と記されており、このころは上流に 阿波郷 があったことから、粟河とよばれていたようです。
 
室町時代(1408年)には名前は那珂川になっているそうです。
 
そしてこの地に、天日鷲命・大己貴命・少彦名命を祀る 「鷲子山上神社(とりこのさんしょうじんじゃ) が鎮座しているのです。
この神社をはじめ関東で活躍した阿波の人々については、のらねこ先輩が詳しく紹介されていますので、ぜひ。
→鳥の一族 18 賀茂氏のルーツ http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/50838762.html
 
また、宇都宮 朝綱 の父は 八田宗綱(はった むねつな)といい、宇都宮市はもともと常陸國下館の 八田 という地域を拠点にしていた氏族。
八田は “はた”、忌部とつながりの深い秦氏が農耕とともに養蚕を伝えたといわれる地域らしい地名です。
徳島市の南に古代遺跡の宝庫、八咫烏(やたがらす)に関係があるのではないかといわれる 八多町 があります。
 

与一は(確かに四国あたりを遍歴するうちに) 阿波にあった先祖のルーツを知ったのではないでしょうか。
そしてはるか郷里に思いを馳せながら、美しい(たぶん)阿波女とこの地で安住したのかもしれません。
それを助けたのが、のちに土御門帝にも深くかかわってくる熊谷宇都宮の人々・・・。
 
後藤田さん、すてきな物語をありがとうございました。
 
*** 
 
 
イメージ 2
 
美しい 絵馬 の図柄見本。
福井県福井市の 繪馬洞 さんという専門メーカーさんのサイトから転載させていただきました。
*転載許可をお伺い中です。
 
 
 

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那須与一の伝承 (1)

 
阿波徳島にその足跡を残しているのは 平家 ばかりではありません。
 
 
源 義経 が大阪から阿波に渡って、(Wikipediaによれば) 摂津国の水軍渡辺党、熊野水軍、河野通信の伊予水軍など を味方につけたのち、讃岐の 屋島の戦い に向かいます。
これら強力水軍のネットワークの拠点が阿波・勝浦 にあったのですね。
 
イメージ 8
上陸後、平氏方の桜庭良遠 (行動に謎の多い 田口成良 の弟;現徳島市内) の舘を攻め落としてから、板野郡の 大山寺 で勝利を祈願して讃岐への峠越えをしたことが知られています。
 
そしてもう一人、屋島の戦いで有名なのが、平氏が船上に掲げた扇をみごと射抜いた弓の名手・那須の与一
関東武者、栃木県の那須郡の人といわれています。
 
イメージ 5
 
『平家物語』 の  「扇の的」  の句は、壇ノ浦のクライマックスへのはじまりです。
二十歳ほどの若武者、与一。
はじめは断りますが・・・:
 
与一
(かぶら)を取つてつがひ
よつ引いて
ひやうど放つ
小兵というぢゃう
十二束三ぶせ
弓はつよし
浦ひびく程ながなりして
あやまたず扇のかなめぎは
一寸ばかりおいて
ひいふっとぞ射きったる
 
 
 
写真は道の駅「那須与一の郷」の与一像:
 「素人(アマ)のひとりごと」 さんのサイトから転載させていただいています。
*転載許可をお伺い中〜不可なら削除します。
 
Wikipedeia では:
 
那須 与一 (なすのよいち)
嘉応元(1169)年 - ? 平安時代末期の武将。系図上は 那須氏 二代当主 と伝えられる。
父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。
 
『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい (そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。

『平家物語』の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年、1168年)頃に誕生した。誕生地は当時の那須氏の居城 神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
 
史実としてはベールに包まれた“伝説のヒーロー”なのですね。
詳しくは直接:
 
生まれたのは栃木県那珂川(なかがわ)町といわれるのに、北隣の 大田原市 が堂々と “郷土の誉れ 那須与一”と本拠地の名乗りを挙げています。
 
下の地図 ① は大田原市役所の位置で、その上の 那須岳 の南一帯が皇族の別荘;御用邸があることで有名な 那須高原 です。
関所のあった 白河 に接する、関東地方の最北端ですね。
 
イメージ 1
イメージ 2
 
 
あたりはすっかり“那須”の郷。
大田原市のサイトによれば、9人の兄弟は次のように領地を得たことになっています:

•太郎光隆(てるたか)・・・森田(現・那須烏山市森田)に分地
•次郎泰隆
(やすたか)・・・大田原市佐久山に分地
•三郎幹隆
(もとたか)・・・芋淵(現・那須町梁瀬字芋斑)に分地
•四郎久隆
(ひさたか)・・・片府田(現・大田原市片府田)に分地
•五郎之隆
(ゆきたか)・・・大田原市福原に分地
•六郎実隆
(さねたか)・・・滝田(現・那須烏山市滝田)に分地
•七郎満隆
(みつたか)・・・沢村(現・矢板市沢)に分地
•八郎義隆
(よしたか)・・・堅田(現・大田原市片田に分地
•九郎朝隆
(ともたか)・・・稗田(現・矢板市豊田)に分地
•十郎為隆
(ためたか)・・・千本(現・茂木町千本)に分地
•与一宗隆
(むねたか)・・・那須家家督を継ぐ
 
いやあ、末っ子の超金星。というのも、同サイトによれば:
 
与一は文治3(1187)年、それまでに平氏に味方していた兄 9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていった。
 
兄達はみんな各地に逃亡、十一男ながら家督を継ぐことになった与一は、やがて兄達を赦免、土地を分与したというのです。
あっぱれ!
 
ところが、その栄誉は兄弟ただ一人の “裏切り” によるものだともいえるわけで。
どのような事情で与一が義経軍にいたのか、引き続き調べようと思います。
与一が矢を射るのをはじめは断ったというのも、かつて仕えた平家の側に向けることにだったから、かもしれません。
 
そんな苦悩とは無縁そうな笑顔で 「ゆるキャラキャラグランプリ2011」 で第4位に入賞したのが、大田原市の 「与一くん」
熊谷市(上の地図の ) が送り出した 「ニャオざね」 くん (2012年に138位) に完勝です。
 
でも謙虚です。
高々〜のはずの鼻がありません。 
それどころか、屋島の合戦のあとの消息は分からず、1189(又は1190)年に京都で死んだという説や、それは頼朝の粛清(義経一派とみなされたのでしょうか)を免れるための偽装で、浄土宗 に帰依して源平合戦の死者を弔って30年もの旅を続けて貞永元(1232)年に中風で摂津国で没したという説もあります。
なかには癩病にかかり顔が変わったために出家したのだという話まで、Wikipedia に紹介されています。
  
英雄どころか、どこにも居場所がなかった末っ子の“その後”が推測されます。
 
 
そして、そう、 『平家物語』 での源氏側では義経・弁慶に次ぐこの英雄のお墓が 徳島 にあるのです。
 
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「那須与一神社」
徳島市の西隣り、石井町です。
五輪塔が与一の墓碑、右の石碑は妻の墓碑といわれています。
 
 
所在地や、その神社のこと (と併せて北にある古代史上、非常に重要な 「新宮本宮両神社」 のこと) を ぐーたら先輩が詳しく書いておられますので、そちらをぜひご覧ください。
近くには“矢神”という地名もあって、与一の子孫が確かに暮らしていたことが資料に残っているそうです。
 
鳥居が新しく建立されています。
 
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立派な鳥居を奉納されたのは徳島で有名な後藤田ご夫妻。
 
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たしか、元副総理・後藤田正晴氏のご親戚です。
警察庁長官から政治家に転じて カミソリ後藤田 と恐れられた正晴氏については 土成の三木首相 を。
 
奥様のみどりさんは 『産婦人科のヨメハン日記』 の著者で地元では知られています。
 
意外な展開を見せたところで、(文字数制限にて) Part 2へ続きます。
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 

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高知の安徳帝伝説

 
昨夜帰宅してNHKをつけると視聴率が絶不調という 『平 清盛』 応援番組をしていました。
玉ねぎを刻みながら聞いていると ・・・ここに安徳天皇が・・・
お、来たか!
と思って見ると、祖谷ではなく、高知県、なのだといいます。
あれ?
 
高知県西部の山間の町、越知町
“奇蹟の清流”と称される似淀川の上流にあります。
祖谷(栗枝渡神社 あたり)から越知町まではずっと険しい四国山脈の峰々が続き、直線でも60km以上離れています。 
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私はまだ行ったことがないところなので、ここからは充実の土佐案内サイト 「土佐の歴史散歩」 のお世話になります。
 
越知町のページには史跡の地図。
お〜、揃っています。 
 
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安徳帝の 御陵墓参考地 (それも宮内庁指定)をはじめ、知盛、経盛、小松少将有盛の墓などなど。
 
(ただし役場近くの「横倉神社」は平家とは関係なく、お祀りしているのは 伊邪那美神 だとか。それもまた興味を引かれます。
近くの「秋葉神社」は(修験道の秋葉権現ではなければ)御子の 火之迦具土神(カグツチ)神が祀られているはず。
 
 
町をあげて“安徳帝の里”です。 
 
イメージ 4
 
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平 知盛(とももり)は清盛の四男。
『平家物語』のクライマックス、壇ノ浦では最後に鎧を二枚着て、あるいは歌舞伎(義経千本桜)でイカリを担いで「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したと伝わっています。
テレビでは小柳 友 さんが演じています。
 
小松少将と呼ばれた平 有盛(ありもり)は清盛の嫡男・重盛の四男。異母兄の資盛(すけもり)に従い参戦。最後は壇ノ浦で資盛、いとこの行盛(ゆきもり)と3人が手を取り合って入水したことになっています。当時22歳。
 
二位若姫とは、安徳天皇を抱いて入水したという 平 時子、でしょうか。
どうして若姫なのでしょう。帝のおばあ様に気を使ったのかな。
 
 
 
こんなに指揮官が戦線離脱(?)していれば負けるよなぁ と思えなくもありません。
 
祖谷のほうでは主役級の 教経(のりつね;国盛)は来なかったのですね。
彼は『平家物語』では 義経 の 八艘飛び の場面で彼を追いかける脇役を演じ、最後は怪力で知られた敵将2人もろとも海に飛び込んだ、ことになっているけれど。
 
 
画面は、武器を隠したという 「平家穴」へ。
多くの剣や鏡などが見つかったそうです。
穴の奥は六畳間くらいあるとか。 
 
イメージ 5
 
安徳帝を祭る、横倉宮へ。
 
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さらに奥に御陵墓参考地があります。
宮内庁(昭和元年指定)管轄です。
 
イメージ 3
  
越知町で語られている安徳帝のご動静は次の通り。
屋島の戦いに敗れたあと、平家軍はなお500艘の船で壇ノ浦の戦いに向かいます。そして…
 
文治元年(1185)三月、義経の船七百余艘が来襲し大いに戦ったが平氏に利なく、天皇の御身が危ういことを平氏の豪族田口成良が知り、一千騎を率いて屋島壇ノ浦に赴き、平知盛をはじめ平氏の諸将と謀り、自ら源氏に降参する風を装い源氏を欺き、天皇の御身代わりを教え天皇をはじめ平家一門海に身投げすると見せかけ敵兵の危険から逃れた。

田口成良は阿波山城谷の居城へ御供し、二ヶ月間御潜在せられたが源氏の追補が厳しくて長く御潜在できず、祖谷を経て土佐の国へと向かい、教経の一隊は安芸郡馬路村魚梁瀬に入り、他は天皇を奉じて香北町韮生御在所を経、吉野川沿いに四国山地を西へ向かい土佐郡大川村稲叢山、本川村越裏門、吾川郡池川町椿山、吾川村奥名野川、高岡郡仁淀村高瀬・別枝都へと道なき峻険をよじ登り、葛をかけて崖を伝い、橋を架けて谷を渡り、また岩角笹にとりつくなど深山幽谷の地に潜み、言語に絶する苦難の旅を続けられ、安らぎの日は一日たりともないありさまであったが仁淀村別枝都では土地の豪族、西森甚助の献身的奉仕により御安堵の日々を送られた。
 
しかし大変不便な土地で主将知盛、西森甚助が等が合い謀り適地探索の結果、横倉山は山深く鳥獣よく棲み山腹は農耕に適し、仁淀川には魚族が多く棲息し食糧の自給も確認され、加えて峻険なる山容を利用すれば源氏追撃の対処も容易であること等が判明し、直ちに横倉山を最適地に決め、横倉山修験道場の先達別府真義坊親秀、清泉坊親康父子の協力を得て、文治三年(1187)八月に行宮の御造営が成り、天皇は知盛外八十余名の随臣武将と共に横倉山行宮に御遷幸なされ、此処を永住の地と定められた。
(横倉宮由緒書きより)
 
なお、ここで安徳帝一行を救って案内したという田口成良は、清盛の命によって阿波高校(阿波市吉野町)にあった 「西光屋敷」 を襲って西光(“鹿ケ谷の陰謀”の首謀者とされる)の四男・広長を襲った豪族です。
阿波・讃岐を中心に勢力をほこり、神戸・大和田の泊の築港奉行を務め、宋との貿易を担当したといわれる水軍の大物。先祖は武内宿禰の子の紀氏から続く古い一族です。
ところが 「平家物語」 では、なんと壇ノ浦の戦いの最中に300艘の軍船を率いて源氏方に寝返ったことで平氏の敗北を決定づけたことになっています。・・・諸説あってよく分からない、人物のようです。
確かに、怪しい。
 
 
イメージ 7
越知の伝説では祖谷は通過点にすぎないのですね。
「火葬地」とある栗枝渡神社境内から、御遺骨を越知までお運びした、という仮説も成り立ちますか。
 
越知の伝承では、田口城を出発したときは300名を越える人数でしたが、過酷な旅が続き、ここにたどり着いたのはわずか83名
だったということで、逃避行の厳しさが偲ばれます。
 
ただ、今歩こうとするとたいへんですが、古代、山間部の“街道”
は 崖崩れや急な増水の危険のある谷ではなく、尾根伝いに走っていましたから、少しイメージは違うかもしれません。
 
それだけ人数が減ったとすると
1) 戦闘で犠牲になった
2) 途中の中継地に残った
3) 別の場所へ移動した
ということでしょう。
 
あまり大規模な戦闘の記録は見当たりません。
私は当時の(というか日本人の)慣習で、源氏側も見逃したのではないかと想像しています。
日本史上で敵側を皆殺しにするような(タタリを恐れない)戦い方をしたのは信長くらいではないでしょうか。 
 
 
番組では、右の本の著者のご親族(息子さんかも)の織田さん宅に伝わる、なんと“本物の草薙の剣”が登場!
すっかり錆びているのですが、そういわれればそう見える・・・。
見とれていて写真に撮りそこないました。
宮内庁は検査・検証されたのでしょうか。 
    
 
それにしても サイト「土佐の歴史散歩」 の充実振りには驚かされます。個人で歩かれたのでしょうか。
10年間でこれほど歩かれ、多く情報を集められたことに敬意を表します。
始めたばかりの私も勇気付けられました。
*記事と写真の転載については追ってお願いします。
 
 
今回のリサーチも勉強になりました。
ここのほかにまだ4ヶ所もあるという安徳天皇御陵墓“参考地”。
 
平 知盛は三重県伊勢に逃げ延びたという伝説もあって、菩提を弔う寺が知盛山久昌寺として残っています。
寺の家系図では知盛直系の子孫は現在までおよそ四十代続いているのだとか。
 
また奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという伝説があって、行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られています。
 
二位の尼(姫)、平 時子は山口の赤間神社に墓所があります。
Wikipedia には:
また山口県長門市日置には、亡骸が打ち上げられたという伝承から、「二位の浜」と呼ばれる浜辺があり、海水浴場としても人気がある。
そうです…。
 
いやいや、たいしたものです。
平家の情報かく乱作戦に、私もすっかりかく乱されながら、追々に真相を考えたいと思います。
 
 
 

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祖谷の落人伝説 (2)

 
以前ご紹介した竹宮惠子さんの漫画、『まぼろしの旗』 が届きました。
 
中央公論新社のサイトで紹介されています:
『平家落人伝説 まぼろしの旗』
竹宮惠子 著
壇ノ浦の決戦前夜。平家再興に一縷の望みをかけて、平教経は安徳帝を守り秘境の里を目指す。四国・祖谷地方に伝わる平家落人伝説が情感豊かに蘇る。

初版発行日2004/12/20
判型文庫判(232ページ)
定価560円(本体533円)
 
ただ残念ながら絶版で、漫画喫茶、もしくはAmazon などで古本を探すしかありません。
 
イメージ 1
 
絶版をいいことに、というわけではありませんが、大事なページを3ページ、載せさせていただきます。
これが再販につながることを期待して…
 
壇ノ浦の戦いを前に軍議が開かれます。
 
イメージ 2
 
安徳帝を連れて一旦逃げ延びることになります。
教経は自分の家来に身代わり(影武者、という言葉はまだ使われていません)となることを頼み、幼名の国盛を名乗って、逃避行を始めます。
安徳帝の身代わりも立てられたはずですが、ここでは描かれません。
いかにも残酷、ですものね。
 
イメージ 9
一行は主従合わせて三十余名、とされています。
吉野川から一歩山に入ると、ほんとうに険しい山、深い谷が続きます。
 
右は有名な 小便小僧
祖谷街道でいちばんの難所といわれる七曲にあって、谷底まで200m。
 
それよりも、この渓谷の山肌に道をつけた先人、その細い道を毎日走る路線バスの運転手さんには驚嘆とともに敬意を表します。
すごい・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

このあたりは谷ではなく尾根づたいに道が通り、集落は上から広がっていったそうです。
確かに谷は大雨による氾濫や山崩れで危険すぎます。
その様式が乾燥した台地に雨季があるために丘陵の上に広がるイスラエルの町に似ていると、日ユ同祖論では傍証のひとつに挙げられます。
 
 
イメージ 10
 
② 祖谷に落ち延びて間もなく、京都から持ち出していた三種の神器のひとつ、「草薙の剣」が剣山に納められます(平家物語などでは海に沈んだことになっていますね)。
もとは石立山と呼ばれていたのが、このことから 「剣山」 と名付けられたとする説があります。
頂上直下には 「大剣神社」 があります。
 
イメージ 3
 イメージ 11
一度建てられた 「御所」 は大雨で流されてしまいます。
京上」 と名付けられた場所がそうだったと、考証されています。
 
二度目に落ち着かれた場所が、現在の 「栗枝渡八幡神社」 とされています。

すごい山奥の祖谷谷の、またのぼった先、寒峰(1,605m) の南斜面にあります。
大型車で突入するのはやめましょう。
 
 
神社の由来書によると、元は 栗須渡神社 で、その 「クリスト」 とはユダヤ人 (の原始キリスト教徒) と関係があるという説もあります。
 
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訪れたのは11月の夕暮れ。いかにももの寂しげな雰囲気でした。
すでにあたりは暗く、写真がぼやけています。
中ではお仕事を終えられた地元の男性3人が集まって、なにかの相談をしておられました。
 
中央の赤い点のあたりです。
 
イメージ 8
 
祖谷といえば 「かづら橋」。
追っ手が来た時に切って落とすため、と説明されています。
そう考えなくても、とても実用的なものだと思いますが。
漫画ではその場面が描かれており、そこで命を落とした源氏の武士ゆかりの地名も残っているそうです。
 
イメージ 12
 
安徳帝は残念ながら “2年余り、3度目の正月を迎えたばかり” に亡くなられます。
物語では風邪を引いてすぐに高熱を出して亡くなられたとあります。
 
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このあたりは標高もあり、また日照時間も短いので冬は半端な寒さと湿気ではなかったでしょう。
肺炎を考えるのが自然かと思います。
 
皇族は火葬されるならいだったとのこと。
栗枝渡神社のすぐ横に 「御火葬場」 の立札が立っています。
 
Wikipediaによれば満6歳で壇ノ浦にて亡くなられたことになっています。
歴代最年少の数え年8歳 (満6歳4ヶ月、6年124日) で崩御した (『平家物語』「先帝身投」より)。
 
物語では「まだ9ツで…」という台詞があります。
 
 
 
 
 
 
ここに葬られているのでしょうか。
 
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生き延びた国盛が最後に語ります。
 
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合掌
 
これが史実かどうか。それもいずれ明らかになることもあるでしょう。
ここで挙げた場面は日本人古来の価値観を表していて興味深いと思います:
 
1) 所属する氏族・組織との同一化・・ 平家・源氏
2) 血統が継続することの重要性・・・・皇統
3) 先祖・先人への追慕・・・・・・・・・・・・墓碑・伝説
4) 象徴としてのモノ・自然崇拝・・・・・・旗・剣・山・岩・動植物
 
この物語は日本文化として形作られてきた結果(としての作品)であって、当時の日本人の一般的な価値観だったかどうかはわかりません。
まだ日本人という概念もなかった時代に。
けれど、王家や源平などの氏族が生まれるとても早い時代から、この国で融合し、磨かれてきたようです。
 
江戸時代におよそ完成した文楽や歌舞伎の物語は、これら私が“日本的”と感じる価値観がほとんどの国民の間で共有されて感動的なものと受け止められているのだと思います。
 
もっと人間の普遍的、あるいは“個人的”なストーリー、たとえば心中ものなどは、これら“日本的”な主題の物語よりは一段下に置かれてきたようです。

己を殺して大儀に生きることを美とした、その究極の形としていわゆる“身代わりもの”があります。
壇ノ浦のすぐ前、一の谷の戦いにおいても別のストーリーがありました。
有名な 『熊谷陣屋』 です。
  
忠義のために、わが子を犠牲にした武士の物語。
 
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戦の世の無常と、人生の儚さ。
生きる意味を問う古典歌舞伎の名作。
「平家物語」を題材にした 『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』は、1751年に人形浄瑠璃として初演され、翌年、歌舞伎になりました。
全5段の物語の中で 『熊谷陣屋
(くまがいじんや)』 は3段目にあたります。

源平合戦のさなか、源氏の武将・熊谷直実
(くまがいなおざね)は平家の若武者・平 敦盛 (たいらのあつもり)を討ちました。
実は敦盛は 後白河法皇(ごしらかわほうおう)の子であり、その母・藤の方は、かつて熊谷を救った恩人でありました。
生田の森の熊谷の陣屋に、主君 源 義経 が来訪。敦盛の首実検が行われることとなります…。
 
大義の前には、わが子の命さえも犠牲にするのが武士の社会でした。しかし、豪毅な武士といえども子を討った悲しみは重く、直実が小次郎の首に驚く相模と藤の方を制する「制札の見得(せいさつのみえ)」には、その苦悩が表れています。
戦の世の無常、人生の儚さが胸をうつ、重厚な義太夫狂言の名作です。
『シネマ歌舞伎』HP
 
平家物語では敦盛は直実に討たれますが、文楽〜歌舞伎では直実が我が子を身代わりにして逃したことになっています。
先の安徳帝の身代わりによる生存伝承とつながるのかもしれません。

ちなみに、この熊谷直実が法然のもとで出家して蓮生と名乗ります。
阿波市土成町の蓮生寺が、そのゆかりと伝えられていて、土御門帝とのご縁につながります。
 
それにしても身代わり物語がこんなに多い国って、ほかにはないでしょうね。
機会があれば調べてみたいと思います。 
 
栗枝渡神社参道
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祖谷の落人伝説

 
今日、四国交通の高速バスに乗りました。
座席ポケットに平家落人伝説に関する2種類のリーフレットが入っていたのですが、その一部をご紹介したいと思います。
 
ひとつは少女漫画の竹宮惠子さんのイラストが美しい。
かずら橋とソバで知られる祖谷(いや)地方を盛り上げようというイベントの紹介です。
とくに24年9月30日から10月末までを “祖谷平家まつり” と銘打ってさまざまな祭りやコンサートなどが企画されています。
 
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*主催:三好市・(一社)三好市観光協会・祖谷ふるさとづくり実行委員会
 
竹宮作品ではスケールの大きなSF「地球(テラ)へ…」(1980年) が好きだった記憶があります。
徳島市生まれだったのですね。
さっそくこの絵のもと、 『まぼろしの旗』 を amazon で購入しました。中公文庫版が2004年に出たばかりなのにもう絶版のようです。 徳島県人の奮起を促さなくては。
初出は「ビックゴールド」(小学館;1998年5月号〜10月号)掲載とのこと。
うかつにも知りませんでした。届くのが楽しみです。
 
 
もうひとつは 「東祖谷歴史民俗資料館」(三好市東祖谷京上14-3 Tel:0883-88-2170) が4月1日から25年3月末まで1年間おこなっている “特別展” のチラシです。
こちらは裏面に4つの見どころを簡単に紹介しているものを、アップさせていただきます。
 
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われらが土成の土御門帝の2代前、おじさんにあたる安徳帝が、壇ノ浦から脱出して(讃岐に上陸して峠を越えて阿波へ。そして吉野川をのぼって)祖谷(いや)まで来られたという伝承があります。
 
表には:
村人に慕われた平国盛とは如何なる武将だったのか?
この地でどのように安徳帝はお過ごしになられたのか?
秘境祖谷に残る
もうひとつの平家物語のすべてがわかる特別展です。
とあり、興味をそそります。
 
もうひとつ問いを挙げるなら、そもそも、なぜ祖谷だったのか?
その答えはまた、土御門帝がこの地に来られた理由にもつながる気がします。
 
全国各地に平家の落人伝説があり、安徳帝が“ここにおられた”というスポットは何カ所があります。
そのなかでも祖谷が有力だと思える史跡や伝承について、詳しくはまた追々に。
 
取り急ぎ会期のある2つの企画についてご案内して、こういう伝説が阿波徳島の山間部にあることを知っておいていただきたく思います。
  
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会期が過ぎても四国交通さんの定期観光コースは魅力的。
ボンネット・バスで走ります。
 
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高所恐怖症の方はバスの座席、崖側に座らないほうがいいでしょう。
 
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大阪や神戸からの日帰りもできますが(阿波池田行高速バスにて)、やっぱりせめて一泊したいものです。
 
ケーブルカーで谷底の露天風呂降りてゆく 「ホテル祖谷温泉」 や、逆に登って中腹からの景色を楽しむ露天風呂の 「新祖谷温泉 ホテルかずら橋」 ほか、素敵な山の宿がいくつもあります。
 
 

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