科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

全体表示

[ リスト ]

心脳問題についての考察
[]はじめに
  先々記事の「私の宇宙観」と先記事の「『私の宇宙観』の意義」で、私の理論の構想の大枠が出来上ったと感じたので、大いに自信を持って自分の理論を主張できるようになった。それで元会社の上司で、現北海道大学名誉教授の科学者とコンタクトでき、議論の相手になってもらえそうなので嬉しく思っている。ブログ友達には哲学者肌や神秘主義者肌の人が多く、彼らを説得するような方向にブログ記事を書いてきたように思うが、私はやはり科学者と議論し彼らに認めてもらえるのが一番うれしい。
 そこで科学者を説得できる方向に思索を展開して行こうと思う。哲学の場合は内省的観察に証拠を求めることもあるのだが、科学者はそういうのは主観的思い込みであると否認し、外界の経験対象の観察に理論を承認できる証拠を求める。外界の観察で私の理論を正当化できる対象として「脳」がある。
 私の科学革命の構想の基本認識として、「脳が意識を産むというのは間違いで、脳は意識空間と物質空間の結合装置である。」という認識があるのであるが、私の理論を主張するだけでなく、従来の理論の批判をしなければ説得力はないと思う。
 そこで本記事では下記の参考文献「心の哲学」を参考に、心脳問題を議論し、従来の二元論の難点と、私の二元論の合理性を主張し、また唯物論の難点を説明しよう。
 
[]二元論
 先ず、二元論の困難を説明しよう。私の理論も二元論と言って良いのだが従来の二元論とは異なるのでこれをその後で説明しよう。
(1)二元論の困難
 二元論を打ち出したのはデカルトであるが、先ず実体は心と身体に分かれると考える。元々これは宗教的発想である。身体には意識はなく、そこに意識()が入ったのが人間であるというのだ。
 先ず困難は意識と身体の相互作用を説明できないことである。
眼に赤い光が入ってそれが視神経を経て視覚中枢に到達したとして、これが「赤」という意識をいかに産みだすかを説明できない。つまり、脳から心への作用が説明できない。
また、人が右手を上げようと心で思ってそして右手が上がるのだが、そのメカニズムを説明できない。つまり心から身体への作用が説明できない。心身の相互作用が説明できなくなった原因は、心と物質を全く異質なものとしたことによる。意識と物を完全に異質としたのでどう相互作用するかを説明できないのである。
また意識が脳の生理過程が無い場合も脳とは独立に存在するとは考えがたい。つまり、身体の無い意識を考えるのは滑稽であると思われるのである。身体が在ってこそ意識はあるのではないかというのである。
また意識が物質に作用するなら、物理の法則は破れてエネルギー保存則も成り立たなくなるのではないかというのも困難の一つである。これらが二元論の4つの困難である。
 
(2)私の二元論
イメージ 1
            図1



イメージ 2
図2

 私の二元論は先ず通常唯一の宇宙と思われている物理宇宙の他に意識の起源である意識宇宙を考え、その二者がより多く空間を共有しようとして運動している(これが宇宙の進化である)のが宇宙の客観的姿と考える。それを実現しようとして、意識宇宙は自らの空間を次々と分化して、最終的には電子とクォークになる(図1ではこれを素粒子と表現している)(図1)。電子とクォークは3次元物理宇宙から見ると小さな粒子に見えるが、それらは、高次元的に見れば、意識の光の流れが物理宇宙を3次元を超えた異次元方向に3次元空間を貫通している存在に見える(図2)。人間の意識は意識空間が分化した末端の体系であるが、人間の意識の体系も次々と分化して電子とクォークになるのである。人間の意識はその人の身体を構成している電子とクォークの意識の光の流れの統一された総和とする。それで、右手を上げようと意識で思うとその情報がその人の意識体系の下位に伝達され、クォークと電子の運動に影響を与える。その作用によって右手が上がるのである。その時物理の法則は破れているのではないかと私は思っている。また脳の神経を刺激すると、それが作用が働いた電子とクォークの運動に影響を与え、その結果電子とクォークの意識の光の流れに影響を与え、結局人間の意識に影響を与える。このようにして、意識と身体の相互作用は説明できる。
 デカルトに始まった二元論では身体に魂が入ると考えるのだが、この「魂が身体に入る」の意味が明らかでない。私の理論では意識宇宙の体系はその分化の節々で主体を持っていて、それより下位の体系に統一力を作用する。その主体が物質世界に顕在化したとき、つまり主体が身体を自己の意志に従うように統一できたときが「魂が入る」ということになる。これはもっと詳しく説明しないといけないが、意識の体系は上位から下位に向けて統一力が作用し、その結果下位は上位の意志に従うのである。
 また意識が物質に作用して物理の法則は破れるのではないかと危惧する人も多いが、私はその通りで物理の法則は破れているに違いないと思っている。これこそ発見して実証すべき課題であると思っている。
 意識は身体が無くても存在し得るかという問いに対しては、人間が物質宇宙の中にいて、身体と意識が統合されている場合の意識とはかなり異なる意識状態として、意識は意識宇宙に存在すると思っている。身体を持った人間の意識は、物理空間と意識空間の統合の最先端部分の意識であるので意識が物質と密着しているが、意識宇宙の中の意識は物質とは疎遠な意識だと思う。
しかし、魂や霊界は本当に存在するかどうか、存在するとしたらその構造はどうなっているか、ということははまだ分からないが、おそらくそういうのは存在するだろうと思っている。ここで私が魂と思っているのは心が身体に作用する意識体系のことである。
ともかく意識宇宙と物質宇宙が両者の空間をより深く共有しようと進化しているという観点から、人間の魂はどうなっているかを研究すべきだと思っている。魂や霊界の研究は意識と物質の統一理論がかなり出来上がったあとの応用だと思っている。
 
[]唯物論
 私の二元論は置いておいて、上に述べたデカルト発の二元論の困難さが認識された結果、20世紀には唯物論が正しいと思われ始めた。唯物論にもいろいろあるが同一説とコンピュータ機能主義について説明しよう。
(1)同一説
 これは簡単に言えば心的状態は脳状態と同一であるとする説である。これは現在多くの人がそう思っていると思う。例をあげるならば、快感は脳内麻薬の分泌による快感神経の刺激と同一であるとか、痛みはC繊維の刺激と同一であるとか、脳のこの神経の刺激が視覚であるとかなどなど。多くの人はそう思っているのではないだろうか。
 しかし、少し考えれば分かることであるが、痛みとはまさに痛いという心的状態であり、その心の状態のときC繊維が刺激されているという対応関係があるという事実があるのであって、両者は別々であり同一ではない。私には脳の状態とは原子の分布であり、痛みとは意識の状態であり明らかに異なるもののように感じる。しかし、これが何故か対応関係があるのは確かなようである。しかし、脳の状態と意識の状態は明らかに同一ではないと感じる。
 
(2)コンピュータ機能主義
 これは「脳はコンピュータである。」という説である。言い換えるならば、脳にとっての心とはハードにとってのプログラムであるとする説である。これは20世紀の最後の頃に強く普及した考えである。人工知能の研究者には今でもこの考えを持っている人は多いかもしれない。
 しかし、この説の間違いも少し考えれば分かることである。人間が計算をしているときは、計算しているという自覚があるが、コンピュータは物理の法則にしたがって運動しているだけで、計算をしているという自覚など無いのである。コンピュータと脳はあくまでも違うのである。
 また、これにはチューリングテストという考えが在って、それは高度な人口知能が出来て意識はないがあくまでも人間の意識を持っているかの如き人間と区別できない応答をすれば、その人工知能は意識を持っていると見なして良いであろうという考えである。
これは根が深い問題であり、「人工知能は意識を持つか」の問題の反対の「他人はロボットか」という問題が在って、そもそも他人が意識を持っていることをどう証明するか、ひょっとして他人には意識が無く、意識の無いロボットであり、意識を持っているのは自分だけではないかという考え(それを独我論と言う)が正しいのではないかという問題とつながっている。チューリングテストで主観的意識の在る無しを判断するというのは、他人ももしかしたら主観的意識を持っているかどうか分からないと見なすことといっしょである。独我論が間違っているのを証明するのは難しいが、しかし、これは意識を持っているというのが確実なのは自分だけで、他人が本当に意識を持っているかどうかは定かでないということを前提にする思想なので、不健全な哲学である。そういう哲学は避けるべきであると思っている。他人には意識があると確信し、コンピュータには人間のような意識はないとするのが健全である。
 
(3)唯物論批判の視点
 唯物論の見落としているのは一人称的な意識の在り方である。自分が自分の意識を持っているという側面を見落としているのである。心脳同一説は、人間を外部から見た脳の状態が他人の客観的在り方であり、他人の主観を軽視し、脳こそが人間と見ているが、他人には外的姿とは別に主観的意識を持っているのを無視している。脳科学で研究されているのは脳の状態とそのときの主観的意識には対応規則があるようだということである。他人を見てその表情からその人の意識をある程度読み取れるが、実際は読み取れていない他人の主観的意識は多いのである。この主観的意識をクオリアと呼ばれているが、これは認知科学で普及していた唯物論的発想の間違いを指摘したチャーマーズが広めた言葉である。
 コンピュータ機能主義も、脳をインプットに対してアウトプットを出すコンピュータと同じであると解釈したが、コンピュータには主観的意識が無く人間には主観的意識があるという点を見落としている。人間の主観的意識を見落としているのが唯物論の陥っている間違いの大きな原因である。
 私自身も学生時代は世界の全ては素粒子の空間分布であり、意識は本質ではないと意識の存在を軽く見ていたのであるが、そうなった原因は「世界とは4次元時空でありそこを素粒子が運動している、これが全てである」と考え、そういう枠組みでしか物事を考えきれなくなったからであることが今では分かる。意識は3次元空間を超えているのである。
 
参考文献「心の哲学」ジョン・R・サール著(朝日出版社)


閉じる コメント(1)

顔アイコン

興味深く読ませていただいております。
唯物論では私の意識が存在するのはいいとしても、どうして私が意識の主体なのか、途方に暮れるしかないと思います。
自由意思は物理の法則を破るというのも納得です。
意識の座が頭の辺にあるのも錯覚のような気がしていましたが、おっしゃるように意識は別空間にあるというのが正しいのかも知れません。

2019/4/26(金) 午後 4:31 [ fox***** ]


.
nakamura3104
nakamura3104
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(8)
  • nobunaga oda
  • tjr*ds*320*
  • 全我
  • MYU
  • tjr*ds*32*3
  • 蜂蜜の風
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

登録されていません

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事