科学革命

遂に「意識―生命―物質の統一理論」の骨格が完成しました。

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第一次実相経済学

第一次実相経済学
(1)はじめに
 より多くの実相の供給を受ける方法論が、第一次実相経済学であり、それを人を幸福に導く知識と、絆と健康と奉仕の精神に変換する方法が、第二次実相経済学であり、第一次の富と第二次の富を増加させるために貨幣や物的財産を産むのが第三次実相経済学であった。
 本稿では第一次実相経済学のアウトラインを解説する。
 
(2)実相を捉える基本的心の姿勢
 実相とは簡単に言えば神のことなのであるが、神に近づくには我執を離れなければならない。
 我執とは仏教でいえば「貪瞋痴」と呼ばれている。「貪瞋痴」が実相の反対である。「貪」とは我欲であり、他人を不幸に陥れてでも自分の欲求を満足したいという思いである。「瞋」とは自分の気に入らないことがあるとカーッと怒ることである。それは他人の欠点を見ては非難するような態度でもある。「痴」とは妄想というときついが、主観的思い込みのことである。真理を認識していない限りそれは主観的思い込みなのであり、完全に「痴」を離れるのは困難なことである。
 そして「貪」を克服するのがみんなのために奉仕の精神で生きることであり、「瞋」を克服するのが寛容な気持ちで人々を許し、愛で包むことであり、「痴」を克服するのが何事も客観的に認識することであり、それが外界だけでなく自分の心をどこまでも深く客観的に認識することである。つまり貪瞋痴を克服すればするほど実相に近づくのである。そこでその方法を一つ一つ説明しよう。
 
(3)神の無限の知恵に至る方法(ヘーゲルの方法)
 客観的認識というと唯物論的科学的方法を思う人も多いが、それは妄想である。物と心を包含する理論こそがより客観的理論である。そこまで行くのは大変なので、哲学で客観的真理に至る方法を確立したヘーゲルの方法を説明しよう。
 三次元空間に茶筒のような円筒形の物体があったとする。そこへ物を二次元的にしか認識できない異なる二人が、この茶筒を見たとする。一人は茶筒を上から見て茶筒は円形であるといい、もう一人は真横から見て茶筒は長方形であるといったとする。確かに二人とも言っていることは正しく、嘘は言っていない。しかし次元が低いので部分的真理でしかない。しかしもっと高次に三次元的にみると茶筒は円筒形であるというのが真理である。
 今は誰にでもわかるような事例で言ったが、他の物事でも多くの場合同様に高次の一つのものを低次で異なるように見て主張が対立しているのである。
 したがって、真理の認識のためにはどうすればよいのかというと、自分で真理はこうだという確信を持っているが、自分と異なることを真理を主張する人がいた場合、相手が間違っているといって対立するのではなく、自分の立場を離れ相手の立場にしっかりと立ち、その後自分の立場を回復し、相手の立場と自分の立場を同時に保持する苦痛な努力の中で、両者を整合的に両立する高次の立場を獲得することである。
 政治運動などは、ほとんど低次な一面的な立場同士の対立ばかりであり、物事を思索で解決することを知らない人ばかりである。
 物事の根本解決というのは、自分と対立する思想をやり込めることによってではなく、自分と対立する思想を自分が受け取り両者を自分の中で対立させるという葛藤を克服して高次の立場を発見してこそできるのである。
 このように自分と対立する思想に出会う度により高次な観点を発見していくことによって神の無限の知恵に近づいていく。つまり客観的に物事を認識できるようになる。
 
(4)神の無限の愛に至る方法
 神の無限の愛に至る方法は「守破離」で説明できると思う。
 「守破離」とは師弟関係の在り方であり、まずは師から型を学びそれを守ることで向上していくが、それがある程度できたならば、型を破っていくことである。そしてさらには型から自由になり型を離れることである。
 これを人間一般に当てはめれば、型とは道徳のことであり。人間はいかにあるべきかを子供の時に親から学ぶ。「人間はこうあるべき」言葉で言われたり、無言で押し付けられたりする。人間はまず「べき」をマスターして成長していく。
 しかし、この型が大人になったとき、人間関係をぎくしゃくさせる。というのは身に着けた道徳は人によってさまざまであり、人間はこうあらねばならないと自分はそう思って努力してきたのに、他の人はそうでないからである。自分の尺度に固執すると、自分が親の「べき」にかなっている場合は、自分が一番偉く他の人は劣っていると思って高慢になって非寛容になるかもしれないし、あるいは親から人間はこうあらねばならないと教えられたが、自分はそうではない場合は、劣等感を感じてしまうかもしれない。
 そこでやるべきはあ「守破離」の「破」である。切り替えは「べき」から「欲す」へである。自分はどうしたいか、何を欲しているかですることを決めていくのである。これは最初に「守」があって初めて有効である。最初から「欲す」で生きたら、不道徳な人間になってしまう。いろいろな「べき」を守って吸収して初めて,「欲す」に従ってよいのである。他人が自分の「べき」に反して「瞋」が生じたら、それは自分に「べき」があることなので、その「べき」を解除して欲すに従うのである。そうするとどんどん他人に寛容になり他人を受容できるようになり、人間関係がよくなっていく。
 そして「離」であるが、それは孔子の「己の欲するところに従いてノリを超えず」のような境地であり、型無し、つまり道徳無しでも道を外さない境地になり、融通無碍に他人を受容でき、しかも悪の誘惑には全く惑わされない境地になる。
 この時が神の無限の愛に近づいた時である。
 
(5)神の無限の生命に至る方法
 意志は精神的意志と生命意志があるが、生命意志がより根源的なので、意志の根源の至る方法を説明して、神の無限の生命に近づく方法としよう。
 意志は欲求から生じるので、より深い欲求を探求するのが、生命の根源に至る方法である。
 したがって、自己の内部で対立する欲求がある場合、どちらか一方を抑え込んで他方を優先するのではなく、両者に共通の根源的欲求を発見し、両者はそれから派生したものであるというものを発見するのがよい。
 そして欲求の場合も思考の視点と同じありかたが当てはまる。つまり、自分の欲求と他人の欲求が対立する場合、他人の欲求を否定して自分の欲求を押し通すのでもなく、他人の欲求を優先して自分の欲求を抑え込むのでもなく、他人の欲求を感受して自分の欲求のように感じ、そして自己の内部で欲求が対立し葛藤状態になった後、両者を派生的欲求とする一段深い欲求を発見しその欲求を自分の欲求とすることにより、他人との欲求の対立を解消するのが理想である。
 そこで他人の欲求を感受するには他人の心を受容できるように心が開いておかなければならず、それには先に述べた神の無限の愛へ至る努力を前もってしておかなければならない。そうすることによって、他人の欲求を自分の欲求のように感じることができる。その後葛藤を解消できるように深い欲求を発見すればよい。
 
(6)和の精神
 神の無限の知恵に至る努力をすることは、主観を排して誰とも思考の対立をしないようにする道であり、神の無限の愛への道は、誰とも感情的に対立しないように、他人を受容し愛で包む道であり、神の無限の生命への道は、誰とも欲求の対立をしないようにする道であり、三つの道を通して、知情意の三者で万人が完全調和するようになる。それが和の理念であり、実相世界の状態であり、それが日本の民族精神である。
 この私の和の理論は日本の民族精神である「和の精神」を世界精神化するために論理化したものである。
 
(7)宗教の頂点に位置づけられる和の精神
 実相に至る道はつまり神へ至る道であり、宗教の目的となっていたものである。そして神への道は思考の根源に至る方法と感情の根源に至る方法、欲求の根源に至る方法があったが、思考の道は西洋哲学であり、感情の根源への道はキリスト教であり、欲求の根源への道は仏教であった。三者を統合した神が和の精神なので、和の精神が宗教の頂点に立つ精神である。しかもそれが日本の民族精神なので、日本は和の精神を復興してそれを世界精神にして世界をリードする使命があるのである。
 
(8)実相へ至る三通りの訓練
 実相に至るには、実相とは何かを理論的に学ぶことと、我執をなくすようにすることを日常生活で実践することと、自分の心を深く見つめるように瞑想することの三通りの訓練が必要である。このうち瞑想は谷口雅春先生は神想観として教えてくださった。
 
(9)最後に
 これで実相に至る方法論である、第一次実相経済学のアウトラインを説明できたと思う。これはかなりレベルが高いのであるが、目標はこのあたりにあるということをまず示しておきたかった。今後実相に至る方法をこのアウトラインに沿って詳細に解説していきたい。

閉じる コメント(10)

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nakamura様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
他者の欲求と自己の欲求を弁証するという方法は出来たら素晴らしいと思いますが、あるレベルでは限界があるのではないでしょうか。
例えば、自らが愛している人間を、攻撃したいという欲求を他者が有している場合、他者の欲求と、どの様に統一すればいいのか見当がつきません。
あとお聞きしたいと思ったのは仲村様は神(実装)とは何だとお考えなのでしょうか?無限の知恵、愛、生命を有すものというのは分かります。私はそれは自然だと思っているのですが、自然の事ではなく、自然とば別の場所に存在する、いわゆるキリスト教的な神を想定されているのでしょうか?

2019/1/3(木) 午前 6:06 [ nobunaga oda ]

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nobunagaさん、遅れました。あけましておめでとうございます。

やっとで納得のいく経済理論ができました。満足しています。
まず、神という概念ですけれど、神はこの世のどこという存在の仕方をしているのではなく、宇宙の心と思ってよいです。そして人間の心は宇宙の心が分かれてできたものと考えます。そして人間だけではなく、すべての動植物、鉱物も神の心の分かれてできたものとして心を持っていると考えます。

そして心には深さがあり、深い心ほど神の心に近く、そしてより原因であり、深い心が原因で浅い心は結果です。最低次の心が物質であり、最も結果です。つまり、神が第一原因であり、物質はその結果です。その中間に人間の心があり、神の心が原因で人間の心が結果であり、人間の心が原因で物質の運動を決めることができます。

そして、心には知情意があり、人間の思考の原因をさかのぼれば宇宙の理性にたどり着き、その探求が哲学です。感情の源流をさかのぼれば、宇宙の愛となりそれを探求したのがキリスト教です。意志は欲求から生じますが、欲求の源流は宇宙の生命です。欲求の源泉を探求したには仏教です。

2019/1/8(火) 午後 9:39 [ nakamura3104 ]

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私の認識しているのは知情意の源泉をさかのぼれば、万人はすべて共通の源泉にたどり着くので、万人がその三つを努力すれば、理想郷ができるというものであり、その理念が日本の和の精神であるということです。


ただ和の理念ばかり達成しようとすれば、現実に対処できなくなります、それは哲学でも同じで、現実にのめりこむのはほどほどにして、意識の源流をさかのぼる努力をして、それができれば、強靭な現実適応能力が出るということです

2019/1/8(火) 午後 9:40 [ nakamura3104 ]

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返信ありがとうございます。
お聞きしたい事が沢山あります。
宇宙(自然)は心(理性・知性)に満ちているのだから、人間、植物や動物もまた心を有しているというのは理解できます。
つまり、神の本質は心である。という事でしょうか。
あらゆる結果の原因が心という事は、心とは即ち、思推する力、理念、という事でしょうか。そしてそれが実体化するのだ、それが結果である所の物質だ、という事でしょうか?
「人間の心が原因で物質の動きを決める事が出来る」という事はどういう事でしょうか?
物質も又、人間と同じ様に自らの心(本性)に従って運動していると私は考えています。人間の心と物質の心は元を辿れば、宇宙の心であると考えます。なぜならば、宇宙の本質は無限の心である、と感じるからであり、我々を含め、あらゆるものは、神(自然)の無限の心のひとつひとつの現れ、即ち、実体化であると考えるからです。
理性とは即ち「認識する力」ですから、理性が目指す所は真理、即ち神の認識に至る事であり、理性の完成に至り、理性の導きに従って各人が生活する事以外に、理想郷(真の幸福)の実現は在りえないと考えています。

2019/1/14(月) 午前 9:27 [ nobunaga oda ]

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ニーチェは「人生とは認識の実験場だ」と言いましたが、今我々が出来る事は、各人が少しずつ、しかし確実に理性(認識力)を高めていく事が何よりも重要であると考えています。
つまり、当たり前の事ですが、各人がよく考える事が、善く生きる事、即ちより幸福に至る何よりの近道であると考えています。

2019/1/14(月) 午前 9:28 [ nobunaga oda ]

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nobunagaさん、質問ありがとうございます。

神とは通常何かというと、通常の三次元宇宙を超えたところ(異次元宇宙)に宇宙の心があって、それが神と言えます。哲学者はそれを理性と言ったり(ヘーゲル)意志と言ったり(ショーペンハウエル、西田幾多郎)します。そして一部には感情(愛)と言ったりしていますが、つまり、宇宙の心にも知情意があるのです。宇宙の心(神)の知情意を反映して人間の心にも知情意があるのです。
そして知情意を統合する宇宙の精神原理として和の精神があるのです。

2019/1/14(月) 午前 11:28 [ nakamura3104 ]

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しかし、宇宙はそれだけでは説明できません。精神原理のほかに物質原理があるのです。
そして宇宙の進化する意志が精神原理と物質原理を統合させようとして両者を相互作用させ、一切の現象が展開しているのです。
物理の法則は物質原理と理性が統合されたものです。物質の理性的側面しか認識していません。物質にも愛の側面と意志の側面があるはずです。
宇宙の進化とは物質原理と精神原理の統合の次元が上がっていくということです。つまり、高度な理念を物質世界の中で具現化することです。

2019/1/14(月) 午前 11:30 [ nakamura3104 ]

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人間の魂の進化も高度な精神原理と高度な物質原理を兼ね備え統合することにその方向性があります。宗教はそのうち精神原理に傾いているので、理想郷を建設することはできませんでしたあ。科学は物質原理だけを認識して、精神原理を書いているので、これも暴走しています。精神原理と物質原理を統合して解明することが、現在の人類の課題と認識しています。
物質原理と精神原理がある程度統合されているからこそ、人間は肉体という物質でありながら、心を持つことができるのです。物質原理と精神原理がいかに統合されているかこそが、宇宙の本質だと思っています。これを解明することが、私の最大の課題です。

2019/1/14(月) 午前 11:32 [ nakamura3104 ]

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返信ありがとうございます。
私の理解が間違っていたらすいません。
心とは知情意よりなるものであり
知情意とは即ち、
精神(理性、知性)は物事の原理と応用の思推に努め
感情は身体、及び精神の状態を表象し
意思(意欲)は自己の維持、進化に働きかける。
そしてこれらは統合されて宇宙の精神原理となる
という理解でよろしいでしょうか。
nakamura様の考えでは、物質にも精神原理と同じく
知情意からなる物質原理があるはずだ。
そして物質原理と宇宙の知情意である知、即ち理性が統合されたものが物理法則だ、そして残りの情(感情)と物理原理の統合されたものと、意(意欲)と物理原理が統合されたものがあるはずだ。
宇宙は精神原理(知情意)と物理原理を統合(進化)させようとして一切の現象は生じているのだ、という理解でよろしいでしょうか。

2019/1/21(月) 午前 1:56 [ nobunaga oda ]

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そして、人間とはある程度、この統合がされているからこそ、肉体の変化を感情が表象するし、意欲が肉体に働きかける事ができるのだ、と。
疑問に思ったのは、精神原理が「知情意」だとしたら、物理原理とはなんなのでしょうか?
私は、精神と物質の統合、即ち精神と物質は対等とは踏んでおらず、物質よりも精神に存在の優位性があり、精神がいかに物質に反転するのか、顕現するのかという事に興味を持っています。
また、私の理解が間違っていると思った箇所があれば指摘して頂けると助かります。

2019/1/21(月) 午前 1:56 [ nobunaga oda ]


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