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沖縄と日本の未来を考える会設立構想(案)
【1】 構想
現在は戦後世界秩序が崩壊しつつあるというのみならず、西洋発の近代文明が行き詰っているのではないかと思われる。今は、そういう時代の大きな変わり目なのであるから、従来の常識の延長上には沖縄の未来のビジョンを構想することはできない。
そこで、あらゆる学問の知のみならず、世間の知も総動員して、未来の沖縄を構想する集団を設立したい。そのためには、その場しのぎの対策ではなく、大きく世界史を見据えながら、現在の文明の在り方を相対化することによって、常識の束縛から解放され、自由に未来の沖縄を構想する団体を設立したい。
それは、ホッブスやロックが、近代に突入し時代が変わってきたのを自覚し、近代文明の在り方を構想したのに匹敵する試みである。つまり、世界に先駆けて、沖縄で近代文明の行き詰まりを突破しようということである。
そこで、「沖縄と日本の未来を考える会」を設立し、特定の主義・思想に偏ることなく、沖縄知識人、あるいは本土の知識人、海外の知識人も含めて、タブー抜きに自由にアイデアを発信する場を提供するとともに、沖縄県民全体が沖縄の未来について考えるヒントとなる情報を提供していきたい。
【2】 前提
何を問題とするかは人それぞれであろうが、皆に承認してもらいたい前提は、沖縄においては、長い歴史において、沖縄県民が自ら沖縄の未来を構想し、建設することが阻まれてきたということが問題であるということであり、特に現在においては米軍の軍事要塞化されることによって、なかなか沖縄の未来を自ら建設できないということが問題だということである。
そこで、「沖縄と日本の未来を考える会」の主要目的は、いかにして、沖縄県民が主体的に沖縄の未来を建設できるかを考えることである。
この目的を共有したうえで、本会に参加していただきたい。
【3】 事実認識の共有の課題
どうやって沖縄の未来を建設するかの方法を議論するためには、目的と事実認識を共有しなければならず、そのうえで、その目的の実現の手段の妥当性の議論が可能となる。
したがって、目的が共有できたならば、目指すべきは事実認識の共有である。
事実認識でよくありがちなまずい態度は自分の思想信条に合わせて、事実を歪曲して認識する態度である。例えば、日本は侵略戦争したという立場の人は、南京虐殺があったという立場の情報ばかりを集め、反対の情報は軽視するし、いや太平洋戦争は西洋の世界侵略からのアジアの解放戦争であるという立場の人は、南京虐殺なんてデマであるという情報ばかりを集めて、反対の情報は無視する傾向にある。
したがって、「何が事実か」を認識するときは、自分の主義主張はいったん忘れ、無になって事実を認識することである。
客観的事実を公平に認識して、初めて正しい沖縄の未来の構想が描けるのである。
【4】 好ましい議論の態度
よくある反対意見を拒否する動機は、自分が認識していることを相手側が見落としていることを認識しているときなのであるが、そのとき相手の認識の欠落を指摘して喜ぶのではなく、逆に相手が認識していて自分が見落としていることにより多く気付こうと努力することが建設的議論の態度である。というのは相手が見落としていて自分がよく認識していることに気付くのは容易であるが、相手が認識していて自分が見落としているのに気付くのは困難だからであり、これに気付くことこそが議論の目的であり、これこそが認識の拡大であり、そのことによってより正しく目的を達成できるからである。
【5】 議論のテーマのたたき台
必ずしも私が提案する案が最も重要な議論の課題でないかもしれないが、とりあえず、私がこういうことを議論したらどうかという案を提出する。
【6】 米軍基地問題
米軍基地が沖縄にあることは、沖縄県民にとって大きな負担になっているが、最近明らかになった天地がひっくり返るような事実として、米軍と日本の官僚の密約によって、実質上沖縄のみならず日本が米国の属国状態になっているということがある。これは大変な事実である。
日米地位協定あるいは日米密約は日本の法律や憲法よりも上位に位置づけられている。
この事実をさらに確認するとともに、沖縄県民全体で共有する事実認識としたい。この厳しい事実を踏まえたうえで、どうしたら平和裡に沖縄県民の主体性を獲得できるかを皆で考えていきたい。
参考文献
① 「日米指揮権密約」の研究 末浪靖司著
② 日米地位協定入門 前泊博盛著
③ 「日米合同委員会」の研究 吉田敏浩著
【7】 教育問題
正しい教育とはどういうものかはいろいろな考えがあるだろうが、ここでは私の考えを提起しておきたい。
教育で最も大切なことは、知識の詰め込みや義務の押しつけではなく、本人が内発的にやりたいことを見つけることを手助け、やる気をくじかれないように、そしてやる気を維持できるように補助することだと思っている。
だから教育とは本人がしたくない勉強を我慢させてやらせることではなく、学問の興味を触発し勉強する気にさせることである。勉強以外にも沖縄や日本や世界に何らかの貢献をしたくなるように感化することである。私はこれが本当の教育だと思っている。
それは最近流行りだしたアドラー心理学では、「勇気づけの教育」として知られているし、一般向けには「自己肯定感の高め方」として知られている。
つまり、沖縄をよくするためには、沖縄をよくすることに貢献したいと思う人を増やすことであり、それが本当の教育なのである。しかし、それはある指導者に従属するロボットのような人間を作ることではなく、自分で目的を立て、正しく現状を認識し、自分で正しい手段を考え実行し、目的を実現するという主体的に生きる人間を育てることであり、戦争中のように国家に盲目的に従うことによって日本に貢献しようとするようなロボット人間を育てることではない。
つまり、教育問題の課題はどういう教育がやる気を引き出し、そしてその教育法をどう普及させるかと言うことが課題である。
【8】 経済問題
これは、沖縄経済界がいかにして、沖縄が主体性を以て沖縄を建設できるかという問題である。
それには、政府の補助金漬けで、何ら主体的に沖縄の未来を設計しないとか、あるいは親米路線、親中路線で、アメリカや中国の言いなりになって、売「沖縄」奴になっていないかという問題である。
主体的に他人とかかわるということは、自分のわがままを他人に押し付けることではなく、他人と良好な関係を保ったまま相手を傷つけることなく自分の言い分を通すことである。だから、沖縄が本土、アメリカ、中国の言いなりにならないことは、わがままを言って、それらと決裂・断交することではなく、それらと良好な関係を保ったまま、沖縄の言い分を通すことである。
これをいかにすれば実現できるかが課題である。
【9】 歴史・文化・民族
琉球・沖縄の歴史、日本史、世界史をすべて知っておかないと、沖縄の世界での位置づけと現在の世界史での位置づけができないので、沖縄の未来の構想は不可能である。
まず、琉球・沖縄の歴史で、島津氏侵攻、琉球処分、米軍統治、本土復帰をどう位置付けるかは、沖縄は大和民族に一部なのかどうかで分かれるところである。
いろいろな立場があるが、先ず分かれるのは沖縄県を他の都府県と対等な一地方県とみなす立場と、日本は本土と沖縄の二つに大きく分かれて、琉球民族と大和民族は日本人を構成する二つの異なる民族とする立場である。
そう解釈することによって、沖縄の未来構想は三つに分かれる。
① 琉球民族は大和民族と一体だから、沖縄はより本土と一体化を目指すべき。
② 琉球民族は大和民族と異なるうえ、現在でも沖縄は日米の植民地状態だから、用意周到に独立を目指すべき。
③ 琉球民族は大和民族と異なるので、日本は多民族国家であることを認め、多民族国家の一員として、沖縄は日本の一員となるべき。
④ その他、独立ではなく連邦制をとるべき。
こういうように沖縄の未来構想はいろいろ考えられる。
沖縄にはこういう民族問題があるが、そもそも民族と国家を一体化しようとするナショナリズムとは何なのかということも考えるべきである。
それには近代化を推し進めナショナリズムは解消すべきという考えもあるし、人間にとってナショナリズムによって伝統のある魂の故郷につながるという考えもある。
ともかく、近代化とナショナリズムの理解を深めなければならない。
沖縄の文化をどう後世に伝え、どう外部に発信していくか。伝統文化をどう修正し、どう新しい文化を創造していくか。
もう一つ重要なのはグローバリズムであり、これによって国家より多国籍企業の方が主権を握っているようであり、グローバル化によって、近代国民国家の枠組みがぐらついている。従来の近代国家の観念では、正しい未来構想はできそうにない。グローバル化によって国家の役割はどう変わったかを検討する必要がある。
沖縄の歴史を研究しどう県民に啓蒙していくか。
【10】健康・医療
県民の健康をどう維持していくか、医療費をどう節約するか、健康のための運動をどう促進していくか。
【11】最後に
基本的な私の考えは、沖縄の未来は沖縄県民全体で考えるべきだし、そうした方が沖縄県民にとって生きがいがあるし、沖縄の未来に貢献した方がより沖縄を愛せるし、誇りある沖縄県民になれるであろう。少数の人に沖縄の未来の構想を任せるべきではない。それは独裁である。そうして、その中で、本土やアメリカや中国とどうかかわるかも真剣に考えなければならない。
本質的課題は、いかにして沖縄県民が主体的に沖縄の未来を建設できるかである。
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白井聡「永続敗戦論」感想・考察
(1)はじめに
若手政治学者、白井聡氏の著書「永続敗戦論」を読んで、極めて鋭い分析で、戦後日本の国家体制を言い当てているなと納得した。
そこで、自分の住んでいる沖縄の問題と絡めて、そのエッセンスと感想・考察を述べたいと思う。ところどころ、白井氏の主張ではなく、私の見解も混ぜるが、いちいち断らない。白井氏の主張だけを知りたい方は、この著書を読んでください。
(2)戦後日本の国体は対米従属
通常の国家は、自分の国をこうしたいという目的をもって国家を運営するのであるが、戦後日本はそうではなく、対米従属が自己目的していると白井氏は言う。確かにまさにその通りだと思う。
安倍総理のトランプ大統領に対する卑屈な態度、そして日米同盟は堅固になったというが、日本の側に主体的な目的はないので、日米安保体制や安保法制は、自衛隊が米軍の指揮下で戦争するための約束でしかないだろう。まさにすべての発想は属国的である。
後で詳しく述べるが、戦後日本の国家体制の原理のひとつが、日米安保体制、あるいは日米同盟であり、その現実は沖縄の軍事要塞化であり、沖縄の基地がなければ日本国家の統合はあり得ない、つまり、沖縄の犠牲の上に戦後の日本国家は成り立っているのである。
つまり、沖縄の基地問題を本当に解決するためには、日本の国家を成り立たせている原理を根本から組み替えなければならないということである。すると、それは一見不可能に思えるが、実はそうではなく、現在は戦後日本の国家を成立させている原理が国際情勢の変化により、現実に適応できなくなってきているので、国家の統合自体がぐらついている。すると、それを見越したうえで、新たな国家原理を組み立てさえすれば、沖縄の未来に希望が持てるというのが、この書を読んだうえでの最大の収穫である。
そして私の希望は、明治維新を成し遂げた薩長土佐の武士たちが明治国家を建設したように、戦前・戦中・戦後の日本の国家矛盾を熟知した沖縄知識人が総力で、現国家体制の崩壊を見越して、新生日本の国家を設計することである。
それは、ホッブス、ロック、ルソーが近代国家を構想したのに匹敵する仕事である。私は、そこに沖縄と日本の希望を抱いている。先ずは理論構築から始めなければならないと思っている。
(3)戦前の国体
白井氏は独特の国体論を主張しているが、それは戦前の国体だけでなく、戦後にも国体があると考え、戦後の国体はこうであると主張している。
戦前の国体は模範的に言えば「万世一系の皇統」、「天壌無窮の神勅に代表される神代の伝統」、「国民の天皇に対する忠」であるが、そういう視点でなく、「天皇は神聖にして犯すべからず」という、天皇の一般国民に対する、神格の面である顕教と、明治の元勲たちが、天皇に実権を持たせず、立憲君主国家として明治国家を運用した、天皇機関説という政府にだけ知られる密教の面である。
それは、明治時代、大正時代は十分に機能した。
(4)戦前体制の崩壊
しかし、満州事変における関東軍の暴走や、日中戦争への突入の時期には、国家を運営する政府までもが、国体の密教の教義を放棄して、顕教に侵食されてしまった。つまり、国家を運営するトップ自体が、合理的国家運営を放棄し、盲目的天皇への忠を実行し、自分で考えることのない、無責任国家になってしまったのである。つまり、戦争目的を曖昧にしたまま戦争を続ける体制に突入したのである。
その結果が、特攻や玉砕の戦術であり、悲惨な沖縄戦と、二個の原爆投下であり、そしてポツダム宣言である。
(5)戦後の国体
戦後の国体を白井氏は一言で「永続敗戦」と言っているが、それは、アメリカの属国としての対米従属のことである。それには三つの原理があり、象徴天皇制と、平和憲法と、日米安保体制であり、その帰結としての沖縄の軍事要塞化である。
その論理は、まずは日本を効率よくする占領する手段として、天皇制は残した方がよいだろうという、マッカーサーの打算的判断の結果の象徴天皇制である。しかし、通常は戦犯として死刑にしなければならない天皇を生かしておくからには、戦勝国を納得させるには、日本を徹底的に戦争できない国にしなければならず、その結果が交戦権を認めない平和憲法である。しかし、日本を共産圏から守るには、米軍が必要ということであり、先ずは、日本から分離された沖縄を軍事要塞化し、そして安保条約の締結である。
その後、沖縄は基地のない日本復帰を求めたが、結果は巨大な基地を残したままの、復帰であった。それは、軍事要塞としての沖縄が、日本の国体として不可欠であり、沖縄の基地がなくなれば、日本は崩壊するので当然の結果である。
(6)戦後の国体のひび割れ
戦後の国体は、すでにひびが入っている。高度成長期までは、対米服従の姿勢をとることによって、米国の庇護を受け恩恵を得ることができた。しかし、冷戦を終え、新自由主義の時代となり、米国は日本の庇護をする必然はなくなり、日米間は経済戦争の関係になり、現在日本は合法的に搾取される一方である。つまり、規制緩和の名のもとに、日本の法律を米国に都合の良いよぅに一方的に変えられ、外資が日本に参入し、日本人の働いたお金は米国に吸い上げられている。郵政民営化や金融ビッグバンは米国の罠だったことは、現在はよく知られていることである。
つまり、対米服従を国体としている限り、政府は日本国民のための政治は不可能なのである。それが、現在の安倍政権である。
国体の三つの原理のうち、沖縄の反辺野古運動は、日米安保体制にひびが入っていることを示している。1995年に「米兵少女暴行事件」をきっかけに沖縄の過重な基地負担に対して、沖縄県民の反基地感情、反米感情が爆発し、県民8万5千人県民集会が催された。そして、1996年に普天間基地の返還と移設が、橋本竜太郎とビル・クリントンの間で合意された。そして鳩山総理のごたごたを経て、現在の辺野古移設の問題となっているのである。
それは、日本の安全保障のために、沖縄に米軍基地を過重負担させながら、本土側は安保ただ乗りで、経済が発展していることに沖縄県民が自覚し始めたことによる、日米安保のひび割れである。沖縄を軍事要塞化することによってはじめて成り立っているという国家が日本であるという自覚を、全国民が持たない限り、日本は崩壊するであろう。
また、平和憲法に基づくと軍隊は持っていけないのだが、自衛隊が創設され、安倍政権になっては安保法制が制定され、平和憲法が形がい化しているが、それは日本が自主的に日本を守れる軍隊を持てたことになるのではなく、米軍の指揮下に自衛隊が駒として動かされる、あくまでも対米服従の軍隊となったのである。それも対米服従が日本経済のメリットになる時代から、逆に搾取される時代になったのと同じく、日米安保によって日本がメリットを得る時代は終わって、逆に日米安保が日本の負担になる時代になったのである。つまり、日米安保によって平和のただ乗りができる時代ではなくなって、日米安保によって米国の手先となって戦争をさせられる時代になったのである。
(7)戦前のパブリックマインド
そもそも明治時代以前はは、日本人は日本人という意識はなく、小さな村落共同体の一員としての自覚しかなかっただろう。あるいはより大きくても藩に属する一員としての自覚しかなかっただろう。したがって、日本国家に対する愛国心というものも当然なく、小さな内輪の論理しかなかったはずである。
そこへ明治政府は日本国民を統一するために、天皇を引っ張り出してきた。そして、義務教育を開始して、教育勅語や明治天皇の御真影を通して、日本人に皇民化教育をして、愛国心、広く言えばパブリックマインドを植え付けた。日本人に日本国民としての自覚を植え付けることが、天皇を神格化することによって、実現できたのである。
私はパブリックマインドは本来自発性を尊重し内発的に出てくるように育てるのがよいと思っているのだが、明治政府は上からの押し付けで、国民にパブリックマインドを植え付けた。そのパブリックマインドによって日本は近代化に成功したのであるが、それはある程度偽物だったので、近代的自我の形成には不十分だったように思う。それは単に権力に服従するだけの権威主義的パブリックマインドであり、自分で責任を持って考え行為し結果を出すという合理的態度ではなかったように思う。それが、戦争末期の不合理な精神主義に陥った原因だと思う。日本が敗戦から学ぶべきは、主体的で合理的な国家運営の精神である。
(8)戦後のパブリックマインド
戦後の日本に対するGHQの占領は、戦前の日本のパブリックマインドを解体することに主眼があったように思う。その結果、戦前と全く反対に自分の利益のみを追求する生き方が良しとされ、国家のためという発想をするのを軍国主義的とされ否定された。精神的なものは否定され、物質的なものだけが追求され、経済的には繁栄したが精神的には相当貧しくなった。
戦前は日本のために天皇のために死ねるというパブリックマインドを国民が受け入れていたのに対して、現在では日本のため公のために死ねるという人はほとんどいなくなった。
その結果戦後の日本も、戦前と同じく無責任国家になったようだ。政治家も官僚も国家のためではなく、対米服従によるおこぼれを得ることが目的になってしまったようだ。日本のために死ねるという人が、国家のトップにいるのだろうか。
戦前の日本は目的のはっきりしない無責任な戦争に突っ走ったように、現在の日本は目的のない対米服従路線に突っ走っているようである。日本が何か目的をもってその手段として対米服従するのではなく、対米服従が絶対目的なのである。それが日本の国体がそうであるから、そうであるしかありえないのである。対米服従によって日本が何らメリットを得ることはなく、逆にデメリットばかりであるのにもかかわらず、対米服従路線をやめられないのが今の日本である。現在はまさに戦前のポツダム宣言直前の状態ではないか。戦前は盲目的戦争に突っ走って、日本が破滅を迎えたように、現在は、対米服従路線に盲目的に突っ走って、日本が破滅する寸前なのではないか。
(9)新生日本のパブリックマインドのありかた
明治国家は下からの民主化ではなく、上からのお仕着せの民主化であった。だから。パブリックマインドも内発的ではなく、権威主義的服従の姿勢の愛国心であった。
戦後の国体が崩壊しつつある今、戦前とは違って内発的なパブリックマインドが要求されている。上からのお仕着せではなく、人間として生きる上において、自分としては譲れない、このためには死ねるというパブリックマインドを各自が自ら内に見出すことが全日本国民に要求されている。そして、戦前のように上からのお仕着せを守るためではなく、ひとりひとりの国民が生きるために譲れないもの全体を守るシステムとしての日本国家を構想する必要がある。そうしないと、現在の無責任国家のままだと日本は滅びてしまうであろう。
そうすることにって、日本は本当の民主主義国家になることができるであろう。
その方法を考えるのは、私だけがすることではなく、全日本国民の課題であると思う。
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精神原理と物質原理の統合としての宇宙の進化
(1)はじめに
宇宙の進化の構造がくっきりと見えてきた。宇宙は、4次元物理宇宙がすべてではなく、五感に見える空間のほかに異次元空間が存在し、それらすべてを含めた高次元宇宙が進化をしていて、それは、精神原理と物質原理の二極が存在し、その両者を宇宙の進化する意志が統合を推し進めるプロセスが宇宙の進化であると認識した。4次元時空も精神原理と物質原理の相互作用の結果形成されたと思われる。
(2)高次元宇宙の構造
宇宙の構造は上図の通りである。図の上側は心の内側を探求したときに認識される内面宇宙である。内面の根底には、知情意に応じてそれぞれの原理がある。
思考の原理のことを理性の神と呼び、それは思考の源泉である。すべての人類、動物の思考はそこから発せられる。それを肉体がキャッチして個体が思考しているかのごとき現象が生じる。
感情は好き嫌いであるが、嫌いを克服して、受容するように努力して、好きに変えていくと、感情は深くなり、その極限では万象万物を受け入れることができ、その極限で愛の神に到達する。
欲求は生理的欲求と精神的欲求があるが、精神原理は精神的欲求であり、それは欲求が本能的ではなく、観念的になり、思考する欲求と愛する欲求になり、結局奉仕する欲求になり、その極限は人類やすべての生命を育む欲求である。それを精神意志の神と呼んでいる。
理性の神、愛の神、精神意志の神、つまり宇宙の知情意を束ねる原理が宇宙の精神原理であり、それは和の精神と呼ばれる。それは日本民族の民族精神であるが、それは今後人類を導く世界精神として、復興拡大されるべきものとして、非常に価値のある精神である。
そして、外界の背後の根底に物質原理が存在し、理性が物質原理に向かって働いた結果、理性と物質原理が結合したものが、物理の法則であり、これは物理の法則の統一理論として、やがて完成されるものとして期待される。科学者は物理の法則のことを神だと思っているので、それは法則の神とも呼べる。
愛(感情)が物質原理に向かったとき、形成されるものが美醜であり、その時創造されたものが芸術である。芸術の創造の源泉として美神が存在するといえる。
生理的欲求の根源は生命意志の神と呼べる。欲求は精神的欲求の極限においては一つになり、生命意志の極限においても一つであるが、個体においては多として現れ、肉体自我が存在する。肉体自我は精神的意志と生命意志の統合である。自我は他と区別される自己である。
(3)精神原理への遡源の方法
意識は宇宙の精神原理から発せられて、個人の肉体が受信し、個人の意識のごとく現れるのであるが、逆に個人の意識が精神原理の源泉にさかのぼることを、遡源(そげん)と呼んでいる。
思考が理性の神に近づいていく方法、つまり思考の遡源の方法は、物事をより多面的に認識し、それをそれと受け取るのではなく、多面的な見方を無矛盾に統一的に認識する努力をすることによってである。その方法はヘーゲルが確立し弁証法と呼ばれている。それは自分が真理だと思い込んでいるのに反することを真理だと主張する人が現れた場合、それを否定して自分こそ真理だと言い張るのではなく、一度自分の確信を抑え込み相手の主張を本気で受け入れ、その後自分の確信を復活させ両者を統合する視点を確立することによってである。すべての視点を自分より次元の低い部分的見方であると認識できた時が、人類最高の認識であるといえる。つまり、自分と違っているから間違っていると否定しただけで、相手の視点を理解できていないうちは、逆に相手から見れば自分が間違っているかもしれないのである。
感情の遡源の方法は、相手を嫌いと感じた時、それは我執があるから相手を排除したくなっているので、我執を取り除いて相手を心のうちに受容する努力をすれば、好きに変わる。そうすると感情が愛の神に近づいていくことができる。
次元の低い欲求は、他人に迷惑をかけてでも自分の欲求を満足したいというものであるが、みんなのためと思う欲求が次元が高い。欲求の遡源は、ある欲求を究極的欲求とみなすのではなく、その欲求は何のためかと高次の欲求を探求することによって精神意志の神へと遡源できる。例えば科学的発明の欲求は科学者の自己実現の本能だが、それは次元が低いと原爆のような人類を不幸にすることに使われてしまう。発明は何のためかと問えば人類の幸福に貢献するためというように、欲求の次元を上げれば、人類の幸福に貢献するものを発明するようになる。欲求の遡源は、自分の欲求を無条件に肯定するのではなく、常づね「何のため」と問うことによってできる。
(4)精神原理の獲得
精神原理の獲得とは「すべてはひとつ」と感じれるようになっていくことである。あなたと私は肉体は別々であるが、本来は一体であると体得していくことである。それこそが本当の愛である。それがすべての宗教の究極の目的である。
宗教の問題解決の原理は、すべての、人類、動物、植物、鉱物は本来一体であることを悟り、運命共同体としての自覚を広めることである。
(5)物質原理の獲得
物質原理とはつまり分けることである。精神原理が「一」であるならば、物質原理は「多」である。
物理学は分けてから、相互の関係を認識することによって真理を追究する。
生命意志においては物質原理は自我として現れる。魂の進化においては自我はこの世の事業を遂行することによって鍛えられる。主体的に自分と区別される対象を捉え操作することによって自我意識は鍛えられる。つまり、自分を明確に他人と異なる自己と認識できるようになる。つまり精神原理は自己と他人は一体であるという自覚であったが、物質原理の獲得は自分は明らかに他人と異なる自己であるという認識である、物質原理の獲得の向上は、自他の肉体レベルでの区別ではなく、意識の在り方の区別の認識である。自分の意識と他人の意識は違っていることの認識である。より深いレベルでの自分の意識が他人の意識と違うと区別できればできるほど物質原理を吸収したといえる。
(6)魂の進化
魂の進化とは、より精神原理を体得し、より物質原理を体得していくことである。つまり、自他は本来一体であると認識できるようになりつつ、自他は肉体が別であるだけでなく、意識も異なっていると違いを峻別できるようになっていくことである。
この逆向きのベクトルを共に深める方向が魂の進化であることが、これまで人類の存在理由、人類の究極目的がなんであるかがわからなかった原因である。
つまり、人類の進化の目標は、すべての人が、自他の区別意識を保持したままで、人類全体と一体であるという意識を獲得することである。
それは科学の進歩のみを人類の究極目標としたり、人間に自我がなくなり漫然とした一体感を得ることを究極目標とする軽薄なものではない。あくまでも自他の区別をどこまでも明確にしつつも、同時に万人と自己の一体感を追求するものである。それが宇宙自体の精神原理と物質原理が統合されていくことなのである。
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真理認識を妨げる精神態度
(1)はじめに
世の中の不幸の原因は真理を知らないことにある。なぜ知らないかというと、知ろうとしないからである。なぜ知ろうと知ないかというと、真理の価値を知らないからである。なぜ真理に価値がないと思い込むかというと、それは目先の欲望の満足に貢献しないからである。つまり、目先の欲望の満足ばかりを追求している精神態度が、真理の認識を妨げ、人類を不幸のままにしているのである。
(2)科学的真理の人類の幸福への巨大な貢献
科学というものが人類を科学文明へと導き、生産性を高めることによって、巨大な貢献をしてきたのは多くの人は認めるであろう。
科学を知らない人は、何か科学的発見があると、「それは何の役に立つのか」という愚問を投げかける。確かに、庶民にとって科学と言えば、パソコンやLEDやスマートフォンや扇風機など、自分の目先の欲望の満足に貢献するものである。
しかし、科学的真理の発見を可能にしたのは、目先の欲望を離れ、己を無にして、自然に即して、そのまま自然を観察するという精神態度である。自分の心が欲望に満ちていたなら、自然を支配する物理の法則を発見することは不可能である。
欲望が生じてきたら、その満足を追求するという生き方は、衝動的であり、本能的であり、自己を客観視できていないので、動物的であり、理性的ではない。これでは高度な文明を建設できない。
科学的真理の成果は物理の法則に凝縮されていて、それは科学者が何事かを考えるときの基礎知識であり、それはすべての科学技術の土台である。理学や工学を専攻する人は、まず物理学の基礎である、ニュートンの運動方程式を学ぶのである。物体の運動には法則があり、それは予測可能であり、制御可能であることを学ぶ。それは人間の恣意ではどうにもならず、思い通りに動かすには物理の法則に従うしかないという謙虚さを学ぶ。高度な科学技術は、人間の強い意志で魔法のように物理の法則を曲げてできたのではなく、人間の意志と物理の法則が合致してできたのである。物理の法則を無視しては何事もなすことはできない。物理の法則は曲げられない。
(3)心の法則
真理には物理の法則だけではなく、心の法則というものもある。それを発見するには、自分の思考、感情、欲求を客観視する努力が必要である。そうして、自己認識が深まると、自分の心は自分で作っているのではなく、宇宙の心が分かれて自分の心になっていることが分かってくる。そして、人類の心は、個々人バラバラではなく、本来一つであり、知情意のそれぞれについて万人が対立のない状態を目指していて、それが人類の理想となっていることが分かる。それこそ万人が目的としなければならない共通目標である。これを私は和の理念と言っている。
その実現手段は、目先の欲望を満足する態度とは反対で、己を無にしてより深い欲求に、自分の欲求をシフトしていくことである。
(4)心の法則の応用
心の法則の応用の基本として、自分と対立する相手がいた場合、それに腹を立てて、自分に従わせようと怒鳴ったり、叱ったりする人が多いが、それでは、表面的行為は従わせることができても、相手の心はその人の心に従うことはないという認識がある。それは怒鳴るということは、心のつながりを断ち切ることなのであり、心がつながっていないので、それでは相手の心はその人とは連動しない。
アドラーの言うには、学校の先生が生徒を自分に従わせようと、偉ぶって説教したり叱ったりするが、それは全く不合理であり、生徒を従わせようとすれば、生徒たちと友達になることであると言っているが、それこそまさに心の法則にしたがった合理的方法である。
つまり、人間関係でトラブルがあった場合、相手の非を責めて、コテンパンにやっつけて、相手を自分に従わせようとする人が多いが、それはまさに不合理であり、合理的方法は、相手を許して、受容して、心をつなげて、お願いすることである。
つまり、人間関係のトラブルの解決の原理は許し、受容し、愛することであるという真理認識である。これこそ心の法則にのっとった合理的問題の解決方法である。
(5)心の法則の政治への応用
心の法則は日常の人間関係だけでなく、政治・経済へも応用できる。近代民主主義は、政党を立てて、主張が対立し合って、多数決で政策を決定する仕組みになっているが、それは独裁よりはましであるかもしれないが、心の法則にはかなっていない。
そもそもなぜ意見が対立するかというと、人間は誰でも完璧な認識をできないので、高度な次元の問題を、それぞれの人は低次な認識を異なる角度からするからである。それは円筒を上から見て円であると認識したり、横から見て長方形だと言い合って、意見が対立するようなものである。両者の認識を両立するように、高次に認識して、それは円筒であると認識しなければならない。したがって、皆がそれぞれ謙虚に反対意見に耳を傾けて、みんなの立場を総合して、高次な認識ができれば、意見はまとまって高次な問題を解決できるのである。
したがって、党則を立て、党派を立てて、これを曲げる事なく、主張を対立し続けるという近代民主主義の在り方では、理想的な社会を建設することはできない。認識が高次なものに発展していかないからである。つまり、人間関係でいえば、エゴのぶつかり合いでしかなく、人間関係の解決の方法は相手を受容することだったのであり、それは政治でも同じである。対立する主張をする相手に、謙虚に耳を傾けなければ、物事は解決することはないのである。近代民主主義はエゴとエゴのぶつかり合いが原理であり、心の法則からすれば不合理な制度である。
(6)理想社会の建設は和の理念を共有して、その実現に向けて心の法則と物の法則を応用したとき実現可能となる
科学が目先の欲望を離れて、自然をあるがまま観察したときに発見されたように、心の法則も目先の欲望を離れて、心をあるがまま観察したときに発見可能となる。そして、科学技術は、単に意志が強いというだけでなく、物理の法則に則って思考したときに発展したのと同じく、人間関係のトラブルも心の法則に則ったとき解決可能となる、そして、心の法則は、政治や経済にも応用可能である。
そして、人類が知らない大切な真理は、人類の究極目標は何かということである。それは、万人が思考でも対立することがなく、感情でも対立せず、欲求でも対立しないという知情意で一体化した状態であり、しかもそれは自我がなくなることによってではなく、十分自分という自我意識を持ちつつ他人と合一できている境地である。これが人類の究極目標であり、それを実現するために心の法則と物理の法則に則って、問題を解決してゆけばよいのである。
つまり、和の理念を共有して、それに実現に向けて、心の法則と物の法則を応用して、問題を解決していけば理想社会、ユートピア建設は実現できる。
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実相経済学における歴史観の比較考察
(1)はじめに
実相経済学は、人類の未来を切り開くための理論であるが、それは歴史とは何かという問題意識も含み持っている。それについては、歴史の究極目的は何かという問題意識と、歴史の主体は何かという問題意識が重要である。その二点について、機械的唯物論、ヘーゲル歴史哲学、マルクスの唯物史観、実相経済学のそれぞれについて説明しよう。
(2)機械的唯物論
機械的唯物論では、歴史には目的はなく、人間といえども物体としての原子の集まりに過ぎなく、自由意志は錯覚であり、人間の意志も物理の法則に基づく、機械的因果で決定するのであり、生命の進化は目的ではなく、結果であり、物体が引力に引かれて落下した現象と本質的違いはないと考える。すべては物理の法則に従って、機械的因果で運動していくだけである。
歴史の主体は物理の法則である。これが未来を決定する。
(3)ヘーゲル歴史哲学
ヘーゲルの歴史哲学では、歴史の究極目的は自由の実現である。ここで、ヘーゲルのいう自由は、生理的欲求に束縛される自由ではない。生理的欲求を克服して高度に観念的になるのが自由である。ヘーゲルは宇宙の理性を神だと思っているので、理性が地上に出現して、人間が理性的になるのを歴史の発展だと考えている。つまり、歴史は理性の自己実現である。この理性の自己実現の形式が弁証法的発展なのである。
では人間の努力の余地はあるのかというと、ヘーゲルは、人間は理性という神に操られていると考える決定論である。世界史に登場した偉大な思想家や政治家、発明家は、主観的には努力したのであろうが、客観的には宇宙の理性に操られたにすぎず、歴史は最初から決定していたと考える。つまり、ヘーゲルの歴史哲学では歴史の主体は宇宙の理性である。
そうだからこそ、ヘーゲルの歴史哲学は理性という神がいかに自由を実現したかを解釈するだけで、未来を切り開く現実変革の理論にはならなかった点、マルクスに批判されたのである。
(4)マルクスの唯物史観
唯物史観では、歴史を決定づけるのは生産手段と考える。狩猟・採取が生産手段の時は階級はなかったが、農業が生産手段になると階級ができた。マルクスは歴史とは階級闘争の歴史であると規定して、人類前史の歴史の目的は階級の解消であると考えた。その後が理想の無階級で平等な共産社会である。
唯物史観では、哲学・思想も生産手段が何であるかによって決定されると考え、そこには自由な思考があるとは考えない。
そして、個人には歴史の方向を変える余地はあるかというと、共産制の実現は歴史的必然であり、歴史の英雄とは自力で歴史を左右した人物ではなく、歴史の進歩方向を見抜いてその実現を促した人であると考える。歴史の流れに逆行する人を反動と呼ぶ。唯物史観もヘーゲルと同じく決定論で個人の努力は重視しない。
(5)実相経済学
実相経済学における歴史の究極目的は、和の理念の完全な実現である。和の理念とは万人が万人の思考を理解し合って思考の対立がなく、万人が万人を許し受容し合い、愛し合い、万人に欲求に対立がなく生かし合うという状態である。これは和の理念という実相が顕現しようと個人に圧力をかけ、歴史はその実相顕現の過程であると考える。
歴史の究極主体は神である実相であり、和の理念であるが、それを地上でどれだけキャッチできるかは個人の努力に依存する。歴史を決定的と考えるのではなく、個人の努力によって左右されると考える。個人の努力とは、思考においてはより客観的に考えようとする努力であり、感情においては、他人を許し受容し愛しようとする努力であり、欲求においては、他人との欲求を対立しなくなるように、自分のより深い欲求を発見する努力であり、総じて我執を離れる努力である。そして人類をどうしたらよくできるかという思想や、人間関係、社会制度などは実相をより多く受け取れれば、良いものができてくると考える。物質経済も実相の量が多ければより発展すると考える。
(6)実相経済学の問題意識
実相経済学を案出するにあたって、人間とは何か、心とは何かを非常に深く考えてきた。そしてどういうときに人間は幸福なのかというと、我執を離れて、より客観的に考えることができ、多くの人の幸福を願っているときであり、つまりより実相を多く受け取ったときであると結論した。自分さえよければ他人はどうでもよいというエゴがあるときは、不幸なのである。不幸な時は他人を不幸にしたくなり、不幸の拡大再生産が生じる。
しかし、近代資本主義は、金銭的富を増やすのが目的になっていて、いくら金持ちになっても心は空虚であるという状態になっている。そもそも儲けることばかりを考えて、人間とはそもそも何かを客観的に考えず、自分の儲けのことばかりを考えて隣人や社会や人類のために何をしようかとも考えない人が多すぎる。つまり知恵や愛や生命の供給が欠乏している状態であり、心が満たされることがない。
つまり、実相経済学の目的は人類を経済奴隷から解放することであり、心豊かに生きれるようにすることである。その問題意識はある程度マルクス主義と同じである。マルクス主義も労働者を資本家の搾取体制からの解放を目指した。しかし、その手段は怒りであり、闘争であるので、それはエゴであり、実相の供給が阻害されるので、建設的で創造的アイデアは湧いてこなくなるので結果としては破壊で終わるし、歴史的にもそれは実証されている。
実相経済学は人類を経済奴隷から解放を目的とするのであるが、その手段は闘争ではなく、創造的知識と愛と奉仕の精神を以てである。
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