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研究・実践プログラム構想2018年6月
(1)はじめに
「脳科学大革命構想」の発案に伴って、物質にも宇宙の進化の原理が貫徹していることを発見した。したがって脳の機能の原理と同じ原理が、生物の機能の原理となっていることが分かった。それは、全ての生物は、電子とクォークを通して、意志の上に愛と理性が乗り、より高次の知情意統合体を目指して進化しているという事実があるということである。これを「進化の原理」と呼ぼう。この進化の原理に基づいて科学革命を起こしたい。
そして人間個人においてはより高次の知情意統合体を目指すという魂の進化が停滞している状態が不幸であり、より高次の知情意統合体に向かって生きていけるように補助するのが救済である。つまり、救済も魂の進化の促進である。
そして最後にユートピア文明設計であるが、それは人間の生命を維持したうえで文明自体がより高次の愛と理性を実現するような政治制度と経済制度はいかなるものかを考えることである。これも生命や脳と同じ進化の原理が貫徹している。
つまり、科学革命、救済理論、文明設計を一つの進化の原理に基づいて構築するプログラムをこれから実行したいと思っている。
(2)科学革命
α)素粒子理論
電子を異次元の宇宙の根源的生命意志が分化した末端であり、アップクォークを異次元の宇宙の根源愛が分化した末端であり、ダウンクォークを異次元の宇宙の根源理性が分化した末端であるとする素粒子理論を構築したい。それは超弦理論と同じく高次元理論であり。現在の高次元理論に哲学的解釈を与えるものとなると思っている。
β)化学
原子の結合した分子や結晶も、愛と理性の流れの次元を高くするために化学反応が起こり結合したと解釈できるのではないかと考えている。つまり、化学反応も物質の進化を目指しているのではないかということである。物質は生物と違って動的ではないが、それでも低次元であるが意志と愛と理性を持っているのではないかと思っている。
γ)生物学。
単細胞生物も、外部を知覚し、仲間とコミュニケーションをとることから、低次元であるが、理性と愛を持っているのが分かる。その実現メカニズムは、愛を細胞を構成するアップクォークが受信し、理性を細胞を構成するダウンクォークが受信し、それを細胞の分子構造により、電子の運動に増幅して変換することによってであると思われる。このメカニズムを解明したい。
この学問は分子生物学ではなく、素粒子生物学と呼べる。
細胞だけではなく、臓器も個体も同じように電子を通した生命意志の上にクォークを通した愛と理性が乗って知情意統合体ができるのが生物であると考えている。
δ)脳科学
脳は生命意志の上にクォークを通して愛と理性を受信するアンテナのようなものである。クォークに入った信号を脳の神経回路が増幅して身体の運動に変えるメカニズムを解明したい。
(3)救済理論
救済は遡源理論に基づく。遡源とは意識の源泉である神に遡ることである。遡源には三通りあり、思考を遡源して理性の神に遡る哲学路線と、感情を遡源して愛の神に遡るキリスト教路線と、欲求を遡源して精神的意志の源泉に遡る仏教路線がある、そして三者をバランスよく統合する救済理論として和の理論を構築しようと思っている。
α)西洋哲学による救済
西洋哲学は基本的に理性の哲学であるが、その頂点はヘーゲルである。ヘーゲルの弁証法的思考を普及させることによって、客観的に思考できる人を増やして、哲学的救済を実践したい。基本テキストは「精神現象学」「哲学史講義」にしようと思っている。
β)キリスト教路線
愛の神に遡る方法は許しであると思っている。宗教的でないレベルではアドラー心理学がそうであると思っている。それでまずはアドラー心理学の普及を目指したい。次に許しの天才であるジャンポルスキーも普及させたい。最後に愛の神に遡るマニュアルである、「奇跡のコース」も普及させたい。
γ)仏教路線
私は仏教の頂点は空海の真言密教だと思っている。何故かというと、それ以前の仏教は低次の欲求を抑えて、高次の欲求を取り出すことを目指していたのであるが、密教は低次の欲求と高次の欲求を無矛盾に統合しているのである。つまり、生理的欲求と精神的欲求が分裂後に再統合していて、高次の統合になっているのである。
仏教はまだ不勉強であるが、中観論や唯識論、法華経、華厳経などを勉強しながら空海の十住心論を研究していきたい。
δ)和の理論
まだ全く分からないが哲学路線の救済、キリスト教路線の救済、仏教路線の救済をうまく統合する強力な救済路線として和の救済理論を構築したい。
(4)ユートピア文明設計
人類が最高に幸福になるユートピア文明は、近代を超克した超近代文明であると考えている。
ユートピア文明とは生命保障の上により高次な愛とより高次な理性が実現できる社会である。もっと具体的に言えば自由な思考が保障され、自由な自己発見・自己実現が可能であり、そして人間関係に多くの愛の絆を結べることができる社会である。分かりやすくするために逆を言うと、経済優先のために自己発見を放棄したり、絆を引き裂いたりするのがユートピアの反対である。生命の安全が保障できないのもユートピアではない。
(5)方針
進化の原理に基づいて、科学革命、救済理論の構築、救済の実践、ユートピア文明設計をしていきたい。
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日記
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私のアイデンティティの変遷と確立
私のアイデンティティは、先ず、物理の法則の統一理論を追求する物理学者として確立したが、しかし、唯物論が間違いであることに気付き、生命や意識の本質についても考えざるを得なくなり、哲学者としての自分も見出してきた。つまり、真理は最終的には実験で証明すべきという科学者としてのアイデンティティを残しつつも、哲学者としてのアイデンティティが追加された。
哲学の認識が進み、人間の意志は宇宙の意志が分化して個別化したものであることが分かり、その認識に基づくと、人間のなすべきことは、自己発見―自己実現であることが分かった。つまり、人間のなすべきことは、心の底から本当に自分のしたいことを見つけ(自己発見)、それを実現すること(自己実現)なのである。これは人間のなすべきことであると同時に人間の最高の幸福なのである。したがって、自分のすべきことは人の自己発見―自己実現を促すことであることになった。そういう時に、タイミングよく塾講師にならないかという話が来たので、即答で承諾した。したがって、私の仕事の一つとして、塾講師として子供の自己発見―自己実現を手助けすることを見つけ、教育者としてのアイデンティティが追加された。
さらに、思索の展開としてある人の自己実現と別の人の自己実現が衝突したときは、和の精神の弁証法で、対立を解消すべきという理論が構築できたので、それを政治に応用して、政治運動の対立も和の精神の弁証法で解消すべきという認識に至った。それを現実の政治問題にいかに応用するかという課題が出てきた。ここで私に政治思想家としてのアイデンティティが追加された。
したがって、現在の私のアイデンティティは、科学者、哲学者、教育者、政治思想家の四つである。かなり負担感のある、テーマであるが、私は、この四つのそれぞれに強い使命感を感じている。
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2017年9月 研究構想
〔1〕最近の心境
このブログを書き始めてから4年半以上が経ったが、思索もだんだん具体的になってきた。既存の思想や理論を学ぼうとしても、それらより根源的問題の考察に関心が傾いていたので、自分の考えをなかなか人に理解できるような説明ができなかった。しかし、最近はやっとで既存の思想や理論において自分がどういう立場に立っているか、あるいは逆に自分の理論から見れば、既存の思想や理論はどう位置づけられるかが見え始めてきた。そこで、現時点で、自分の思索の課題、あるいは研究の構想を整理してみたい。
私の思索の課題は①自己発見―自己実現理論、②自我論、③脳科学、④高次元宇宙論、⑤近代の超克論、⑥新数学に分けられる。これらの構想の要点だけを説明しよう。
〔2〕自己発見―自己実現理論(幸福論)
「人間はいかに生きれば幸福になれるか」、という問いに対する私の答えが、「自己発見して自己実現すること」である。それは本当に自分のしたいことを発見して、それをすることである。
それの最も参考になるのは、心理学者マズローの理論である。有名なのは欲求の5段解説である。それは①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④承認の欲求、⑤自己実現の欲求という五段階である。マズローは晩年にはこの上に自己超越の欲求を考えたようである。
この理論を含めて、マズローの理論と自分の自己発見―自己実現についての認識をぶつけて考察してみたい。
次に最近気づいたのは実存主義が一種の自己発見理論であるということである。例えばキルケゴールの実存の三段階は①美的実存、②倫理的実存、③宗教的実存であるが、それは私から言わせれば、次第に自己認識が深まっていくプロセスである。
またハイデガーにしても、世俗に埋没した《非本来的自己》から、死を自覚したうえで、主体的に決意して生きる《本来的自己》に目覚める生き方を理想としているようであるが、それも私から言わせれば真の自己の発見に他ならない。
さらに精神医学として、実存主義に基づいた《現存在分析》というものがあることが分かった。特に興味があるのは、西田哲学を背景に日本人的精神医学を構想している、木村敏である。
これらを勉強・研究したいと思う。
また自己発見―自己実現理論は、学者・研究者だけではなく一般人にも必要なものであるので、この理論だけは一般人にも分かるように平易に説明できるように努めたい。
〔3〕自我論
私の到達した人間観は次の記事に書いてある。
「人間とは何か」
要点は高次元宇宙の総体は、愛の一者、理性の一者、生命の一者の三種の一者と、それを束ねる宇宙進化の意志からできており、人間は、それらから分かれてきた、「愛」と「理性」と「生命」を宇宙進化の意志が分化してできた自我が束ねているというものである。
既存の理論は、キリスト教は愛が全てであるというだろうし、ヘーゲルは理性が全てであるというだろうし、フロイトは生命が全てというであろうが、私は三者を統合しているのが人間であるし、人間は三者を統合することが使命であるとも考えている。例えば理性と生命の葛藤である、霊肉の葛藤は、一方だけを肯定するのではなく二者を肯定し統合すべきである。そういう使命を人間が宇宙論的に持っているのである。
私の言う「宇宙進化の意志」は、西田哲学で言えば「絶対無」に相当すると考えているが、「絶対無からの自我の生成」ともいえる理論を構築したいと思う。
それに参考になるのは、西田、ハイデガー、ヘーゲルの無の体験である。参考になる本は「無の比較思想」(新形信和著、ミネルヴァ書房)である。またフッサールの「純粋意識」も無の体験に近いのではないかと思っている。自我を超えた世界の理論は形而上学と呼べると思うが、自我を超えた世界でいかに自我が生成されるかの理論を構築したい。
〔4〕脳科学
先ず、「脳が意識を産む」というオーソドックスな考えを、説得力を持って批判したい。目指すべきは意識―生命―物質の統一理論であるが、物理主義では、人間の幸福とか政治・経済まではそう簡単に説明できないが、意識を物質が集まって産むのではなく、意識は最初から意識として異次元にあるとすると、脳は意識と物質の相互作用の中枢ということになり、その考えでは幸福論も政治・経済も整合的な統一理論の範囲で説明できるだろう。
脳科学の理論としてはチャーマーズの非唯物論的意識の理論とペンローズの量子脳理論を勉強・研究しようと思う。
〔5〕高次元宇宙論(意識―生命―物質の統一理論)
一者とその分化した意志を異次元にあるとして、高次元宇宙論を構築したい。一者と素粒子の関係を既存の素粒子理論であるゲージ理論と整合的になる理論を構築したい
課題としては意志の理論と時空の生成理論である。意志の理論とはより上位の意志が、それが分化してできた下位の意志をどう統御するかの理論であり、それは例えば「食べる意志」が「噛む意志」と「飲み込む意志」を整合的に統御するメカニズムを解明する理論である。もう一つの課題は潜在的だった意志が顕在化するプロセスである弁証法的発展の理論である。この運動を定式化したい。
さらには、一者が時空を生成するメカニズムの理論である。それに参考になるのは、一般相対性理論と量子力学の統一を目指したペンローズのツイスター理論である。これも勉強・研究したい。
〔6〕近代の超克理論(ユートピア理論)
私は3年前から、現在は近代が終焉しつつあり、やがて近代を超克した超近代文明が訪れるし、否訪れさせねばならないと考えている。
大別すると、この考察には二つのテーマがあり、一つ目の課題は近代を人類史に位置付けて、近代は人類史でどういう位置づけであり、歴史的必然として超近代はいかなる時代でなければならないかを説明する歴史哲学の構築である。
もう一つの課題は、超近代文明の政治制度・経済制度はどうあるべきかを解明する超近代文明構想と、その実現方法の理論の構築である。
具体論としては、超近代は西洋中心の時代が終焉して、日本発の和の精神を世界中に普及させることによって理想世界であるユートピアが実現できるという構想である。これをきちんと理論化したい。
〔7〕新数学の研究
意識を扱える数学の開発をしなければならないと思っているが、あまり研究は進んでいない。しかし、数学を意識現象の一部としての数理現象として認識できるようになってきている。意識現象を扱う理論の構築は、数学の開発というより「数理」と「論理」の両者に分化する前の「理」そのものの理論化を目指していると言える。意識を科学的に扱えるようにするには、それをしなければならないと思っている。
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読者へ期待すること
(1) はじめに
真剣に真理を探究したことのない人は、思索というものがどういうものかを知らないと思う。浅い思索しかしたことのない人は、最初から結論を決め、その範囲でしか思索しない。しかし、思索が飛躍的に進むということは、今までの自分の先入観が破壊され自己喪失することなのである。思索とは己との戦いである。自分の考えが絶対に正しいと思っている人、あるいは自分は頭が良いとプライドを持っている人は、自分の考えはしょせん思い込みで先入観であったと気づくことは、プライドがずたずたに傷つくことなのである。
なぜそういうことを言うかというと、私がいくら従来の思想の先入観を指摘しても、「読書とは著者との知的格闘である」ということを知らない人は、「読書とは、文章に反応すること」と勘違いして、自分の考えと私の考えをぶつけて、格闘せず、字面だけを読んで反応して終わりとなって、読者の思想の発展に寄与することが少ないからである。本当の思索を知らない人の読書の仕方は、自分と同じ考えの人を評価し誉め、自分と異なる考えの人を見下し否定することなので、自分の考えはちっとも変化しないのである。
そこで分野を絞って、政治的な人、宗教的な人、科学的な人を対象に、先入観を指摘して反省を促したいと思う。
(2) 政治的な人
政治的な人の中で、その政治的考えを哲学的思索まで深めている人は少ないように思う。左翼はもともとマルクス哲学が中心なのであろうが、左翼の反戦平和の思想は、どうもマルクス哲学からすんなりとは導出できないように思う。反戦平和の思想は、1万年間戦争が無かったという平和民族である縄文民族の血から出てきた、日本人独特の平和思想ではないかと思っている。自分から攻めなければ他人は攻めてこないという反戦平和の思想は、戦争意欲の欠けた縄文民族がしか考えないと思う。その他の世界の民族は、最初の文明と言われる、シュメール都市国家からして戦争文明なのである。戦争のために国家ができたのである。
反戦平和の思想の持主に対しては、平和を願うのは良いが、どういう手順で平和を実現できるかを論理的飛躍なしに理性的に考えてほしいと思う。平和であれば軍事基地はいらないというのは真理であるが、軍事基地が無くなれば平和になるというのは真理ではない。これを肝に銘じてほしい。
次に右翼であるが、外国からの侵略に対して国防力を高めよというのは、間違った判断ではないと思うが、国防力を高めれば平和になるというものではないだろう。そういう論理展開だと、世界中が戦争だらけになる。諸外国は日本が軍事力を増強すれば、それを脅威に感じて、自分も軍事力を増強するだろう。そして互いに「脅威だ!脅威だ!」と言い合って、緊張が高まっていくのである。
右翼に欠けているのは、世界平和の実現の意志である。現在のように外国の情報もすぐに入手できる時代になっているのであるから、国家間同士で人間同士が大量に殺戮し合うと言う狂気はそろそろ終わらせねばならないだろう。第二次世界大戦までは、外国とは遠い果てであり、外国人を殺戮しても、その苦しみは現実のものとしては伝わってこなかった。しかし今は戦争の悲惨さはある程度報道されるようになっていて、日本人が外国と戦争して外国人を大量殺戮すればその苦しみは日本に伝わって、太平洋戦争のときの鬼畜米英と言って敵を憎むような戦争を肯定する人は少なくなっていると思う。
私の主張は、そろそろ戦争という狂気は終わらそうとしなければならないのではないかということである。確かにそれは難しいことなのであり、そして人類の最高の課題であり、人類全体の知恵を絞るに値する課題であると思っている。人類は近代になってから、戦争のための兵器の開発に金と知恵を大量に投資してきた。そして、その逆に戦争を終わらすために、その10倍の金と知恵を投資しても良いのではないか、そのぐらいの意志を持ちたいと思う。
(3) 宗教的な人
宗教的な人にかけているのは、真理の客観性の追求である。「教祖はこう主張するが、その客観的根拠は何なのか」という哲学的・科学的客観性を追求する疑問が欠けているのである。だから、宗教は科学と違って、いろいろな説が競合しつつも実験で間違った説はふるい落とされ、正しい説だけが生き残るということがない。諸説乱立がいつまでも続く。
21世紀になって情報網がいきわたると、ある狭い範囲にしか通用しない宗教というのは必然的に廃れるであろう。現在のグローバル化は宗教を危機に陥らせているだろう。それ以前は宗教は自分の地域の宗教しか知らず、他の宗教というものは知らなかったところに、グローバル化して、他の宗教というものを知るようになる。したがって、神聖だからと言って、批判を許さず、頑固に「これは真理だ」と宗教者が言っても、多種多様な宗教があることが常識になれば、あるひとつの宗教の主張だけを無条件に「真理である」と言っても、説得力が無くなるだろう。
宗教的認識の客観性の欠落を一つだけ指摘しよう。「人間は肉体だけでなく魂もあり、魂が肉体に入っている状態が生きている状態であり、死ぬと魂は肉体から出ていく。」とはよく言われることである。宗教を信じやすい人は、それだけで満足してしまうようだ。だけれど、魂とは何かということもまじめに考えない。「魂は物なのであろうか?気体と同じなのだろうか?ということは素粒子からできているのだろうか?」「あるいはものではない何かであろうか?」「右手をあげようと心で思って右手が上がるには心が魂に作用して魂が脳に作用して脳から右手の運動神経に命令が下されて動くとして、魂と肉体を構成する素粒子はどういう関係になっているのだろうか?」「心―魂―肉体はどういう関係の構造になっているのだろうか?」そういう疑問ぐらいは持ってほしい。魂がどういうメカニズムで肉体を動かしているかを考えてほしい。このぐらいのことは証明しないと科学者を説得することはできない。だから、科学者に宗教はしょせん頭の悪い人の思い込みとみなされるのである。
(4) 科学的な人
ここで、科学的と言った場合は、現在主流の唯物科学のことである。唯物科学の常識では、存在するものは物のみであり、物が偶然集まって生命が発生し、生命が偶然進化して意識を持つ人間になったと考える。そして物質である脳が意識を産んでいるのであるが、脳が意識を産むメカニズムは、脳が複雑なシステムであるので、その解明は難しいのである。この複雑さを克服できれば、脳が意識を産むのは解明できるという考えである。
しかし、脳が意識を産むのを説明するのが難しいのは、技術的問題ではなく原理的問題である。そもそも脳科学者は「意識」の定義がろくにできていないのである。あるいは意識とは「脳の状態」と定義したりする。食欲とは食欲中枢の興奮であるというように。しかし、これはおかしい。食欲中枢の興奮とは、食欲中枢を構成する原子の物理状態であり、食欲そのものではない。一般に意識とは脳の状態であると勘違いされているようであるが、脳の状態とは脳を構成する原子が組み合わさった物理状態である。物の状態なのである。意識を考えるときは別様に考えなくてはいけない。
私は唯物科学者には「原子をどう組み合わせても意識の生成は説明できない」ということをしっかりと理解してほしいと思っている。それを理解して初めて私の理論の価値が分かるだろう。「クォークは意識の光の流れが異次元方向に3次元空間を貫通したものの断面である」とか、「意識宇宙の導入」であるとかは意識と物質の整合的理解のために考え出されたものである。
(5) 一般的に主張したいこと
思索が進むことの要所は自分の先入観が崩壊することであるとは最初に言ったことであるが、本当に主体的に思索する人は自分で自分を批判して、先入観に気付きそれを崩壊させ、もっと確かな土台を探して、ゼロから考え始める。私は読者の先入観を壊すために、記事を書いているのであるから、私が指摘したことで、先入観がぐらつき始めたら、それで終わりでなく、自分で自分を批判して先入観をもっとぐらつかせて崩壊させてほしい。すると、私の意図である、読者の思索の進展に大きく寄与できたことになる。
本当に頭の良い人は、自分の考えが正しかったことを喜ぶのではなく、自分の間違いに気づいたことを喜ぶのである。自分が正しかったことを確認しても思索の進展はあまりないからである。
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最近の心境の変化と研究の展望
(1)最近の心境の変化
「意志の力学」を書いて以来、哲学知と数学知が融合を始めている。哲学の思索空間と数学の思索空間がつながり融合を始めている。つまり例えば、弁証法について考察しているとき、そこに数学的分析能力が働いているのである。
したがって、意識の弁証法的運動を数学的に分析できるのである。すなわち、弁証法的運動を数学的に表現できるのではないかというのが私の主張である。しかし、この主張はヘーゲルの「哲学知は数学知より優れていて、哲学的真理は数学的には表現できない。」というヘーゲルの主張には反している。だが、従来の数学では不可能であるというのは正しく、弁証法的運動を数学的に表現するためには、数学を「深さ」を表現できるように変革しないといけない。今の私の直観知では、弁証法的運動を記述する数学は、数理と論理の統合した数理・論理のようなものではないかと認識している。
(2)意志の力学と量子力学
「意志の力学」で意志に深さがあるとして、それを導入した。意志は深いところほど普遍的で潜在的である。
この視点から量子力学を考察してみると波動関数ψ(x)は電子の潜在的在り方であり、測定によって位置xに存在が観測される確率P(x)=|ψ(x)|2は電子の顕在化なのでは無いかと思われる。つまり、物質もその本質は意識なのである。
つまり、量子力学は「潜在的なものの顕在化」という意識の運動の側面をある程度捉えているのではないかと思われる。量子力学の唯物論から見たら非常識に思われる謎は、意識の運動を解明して、電子や光子は意識の特別な場合として説明されると思う。
(3)生物の法則
現代の生物学の主流は、生物を解明するとは、生物の機械的側面を解明することのみであると勘違いをして、生物の自発的運動、つまり環境の作用によって受動的に運動が決定されるのではなく、自分から動くという側面を見落としている。私は細胞と言えども意志を持ち細胞を構成している素粒子は、細胞の意志によってある程度制御されているのではないかと思っている。
意志の自発性を捉えようとしたのが「意志の力学」である。
「意志の力学」
「意志の力学の応用例」
この「意志の力学」を、細胞の意志が細胞を構成している素粒子に作用するのに応用するとき、その記述は量子力学の拡張になるのではないかと思っている。したがって、量子力学の原理を哲学的に反省しなければならない。
もう一つ、素粒子理論の着眼点として、現在の主流に、素粒子の原理として認められているゲージ原理の哲学的考察をしたいと思う。ゲージ原理とは何かと言う問いは、波動関数の位相とは何かと言う問いを引き起こす。なぜ波動関数は複素関数なのかも問題である。それについては、
「量子力学についての考察」
で説明している。
(4)勉強課題
生物の解明には、先ず「細胞の分子生物学」を研究しなければならないのは当然として、量子力学と素粒子理論の研究も必要である。意志が物質にどう作用しているかを解明するためにである。さらにそれらの他に、ヘーゲルの「大論理学」と西田幾多郎の「場所の論理」と「絶対矛盾的自己同一」も論理の構造の探究として役立つと思う。さらには、意識の運動形式を表現できる数学を考案するために、数学を哲学的に考察したい。現代の数学には深さが表現されていないように思うので、意志の深さや意志の作用をどう表現するかが中心課題である。
これらを同時並行的に統一しつつ研究しようと思っている。
これらは、かなり以前から勉強しないといけないなと思っていても、「自分はどう考えるか」という自分の考えを持たないで、勉強してもなかなか身に付かないのである。今はやっとで自分の大筋の考えが出てきたので、物理、数学、ヘーゲル、西田に対して、自分の考えをぶつけて、思想を練磨して行きたい。
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