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合理主義の限界と方針転換
(1)はじめに
論理と数学の限界をまざまざと認識した。今までの方針では暗黙の前提に、現代合理主義に基づいて、唯物科学を発展させ、生命、意識を解明し、神秘主義も合理主義で捉えるつもりだった。しかし、生命、意識は数学や論理では捉えられないことを認識した。論理より直観が上なのである。合理主義より神秘主義が上なのである。直観は論理を説明できる。しかし、論理は直観を説明できない。同じく神秘主義は合理主義を説明できる。しかし、合理主義は神秘主義を説明できない。
そこで論理を前提に直観を説明しようとしていた方針を変え、直観から出発して論理を説明する方針に変える。別の表現をすれば合理主義から出発して神秘主義を説明しようとした方針から、神秘主義から出発して合理主義を説明する方針に変える。
今後どういう記事を書くかは未定だが、オカルトになるかも知れない。
(2)機械論的唯物論の限界
唯物論の限界は早くから認識していた。厳密な表現は省略し考えだけを言えば、「押されれば動く」で世界の全てを説明するという方針である。これで物質は確かに説明でき、多くの機械を産んだであろう。しかし、意志とは何かに対して複雑な機械である脳が産んでいるという間違った発想を産んで今に至っている。脳は複雑な電子回路である。電子回路が意志を産んでいるのであるというのである。しかし、脳も物であればそれを構成している原子は「押されれば動く」しかないのである。すると意志は消えてただ押されては動かされ他を動かす原子からできた機械でしかない。押されれば動くの連鎖しかない。すると、いつまでも意志は発生せず、押されては押す原子の集まりだけであり意志は錯覚となる。そういう哲学が現にあるのである。「押されれば動く」で世界の全てを説明しようとする前提が間違っているのである。
(3)数学の限界
数学の限界を説明するのに高度な数学の知識は必要ない。数学の全ては1+1=2から始まる。これが成り立たなければ全ての数学は通用しない。「足すとは何か」が問題である。「リンゴ1個にもう一個のリンゴを足すと2個のリンゴになる。」が足し算である。暗黙の前提はもう1個のリンゴを足す間に最初のリンゴは消えないということである。1個のリンゴに翌日もう1個のリンゴを足す間に最初のリンゴは腐れて無くなるということもあるだろう。しかし、客観世界を考えるときさらなる保存を考える。リンゴを構成していた原子は保存していただろうというのである。このように保存するものは何かを考え追究するのが物理の基本である。物理は保存則が原理と言っても過言ではないだろう。運動量保存則、エネルギー保存則、電荷保存則等々。保存則があるから足し算が通用するのである。変化する中にあって変化しない量を発見するというのが物理学の根本指針である。この保存があるからこそ物理で数学が通用するのである。
しかし、である、意識では保存しないのが本質なのである。保存する何かがあるかもしれない。しかし、それに執着していたら保存する何かは見つけられないのである。1個のリンゴを想起しもう1個のリンゴを想起し加える間に最初の想起していたリンゴは消えるかもしれない。記憶力が悪いだけかと思うかもしれない。しかし、それが意識の本質なのである。「意識の世界では足し算は必ずしも成り立たない。」これが数学の限界であり、直観から出発するしかないのである。
(4)空間の限界
物理的世界は空間的幾何学を前提している。それは何故かというと空間は客観的に共有できるものだからである。3㎝は誰が計っても3㎝なのであり、これが物理現象の客観性のもとである。人間の間で真に客観的に保有できるものは時間・空間と数だけである。3個のリンゴは誰が見ても3個のリンゴなのである。言葉で意識を共有しているのはどういうことかはまだ分からないが厳密な客観性は無いだろう。時空と数が客観的で、色、音、味などは言葉で曖昧に共有しているだけであり、本当のところ他人と同じ意識を共有しているかは分からないのである。もちろん、数や空間を共有していると思っても、共有していると思っている私の意識だけがあるという主観的観念論も成り立つかもしれないが、それは考えないでおく。
現代の世界観は人間同士が客観的に共有できる世界が本当の世界であるという根本前提があって、それで使えるのは時空と数だけになり、これが科学的世界観となり、唯物論的世界観に陥っている。世界とは3次元空間と時間の広がりであるという世界観は狭い世界観であり、生命も意識も説明できない。これはニュートンの呪縛である。真の世界は時空と数に束縛されない物質世界に生命と意識を含んだ世界である。これは必ずしも他人と共有できないのである。神秘主義でもこの世を超えた高次元空間というものを考えるが、空間を考えるところがまだニュートンの呪縛があると思う。
(5)論理の限界
論理の限界も数学の限界と同じようなものである。
昔プラトンだったと思うが「論理の導くところはどこまでも行こう」と言うような意味のことを読んだ記憶がある。東洋では神秘的なことは畏れ多く論理を差し挟まないが、ギリシャでは神秘的なことでも論理でどこまでも突き進んでゆく。これに私は魅了された。今思えば論理信仰である。この論理信仰が唯物科学を産み世界を席巻した。しかし、これは本当の世界ではない。学問自体が合理主義が主流である。だから学問すればするほど真理が見えなくなるのであり、今裏に置かれている神秘主義の方が高度な真理であることが分かった。しかし、神秘主義ならなんでもかんでも真理という分けにはいかないだろう。これをどうするかが課題である。
論理の基本は「Aであると同時にAでない」は在り得ないということである。この前提で世界を分析し解釈するのが合理的世界観である。これが実は意識の世界では当てはまらないのである。この前提では生命も意識も解明できないのである。もちろん生命の一側面として肉体は論理が当てはまるし、他の生命の側面で論理が当てはまるかも知れない。しかし、それだけにたよっていてはその当てはまる側面も認識できないのである。論理以前の直観から出発するしかないのである。
(6)論理と直観
真理を認識するには直観だけでも駄目だし論理だけでも駄目だと思う。両者を組み合わせるのがベストだと思う。厳密に論理だけで考える人はいないと思うが論理に強烈に執着していては何も証明できないと思う。ヘーゲルや西田の論証の不十分性は自覚していたが、私は直観で彼らの主張していることは真理だと認識した。直観だけでもなく高度な論理も含まれているので分かる人には分かるのである。論証で全て説明しようとするのが無理なのである。ヘーゲル西田の哲学は直観と論理がうまく融合されてベストだと思う。
(7)今後の方針
今後はオカルトを勉強しようと思う。オカルトと言っても直観一辺倒でなく論理がある。論理と直観の関係を意識しつつ勉強し如何にして正しく真理に辿り着けるかを模索し、できれば合理主義を直観主義で吸収し、直観主義の科学で科学革命に辿り着きたい。科学革命の目標は不変である。今後厳密な論証は意図しない。哲学でもないし科学でもない。しかし科学を目指す。
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